五話「吟詠の夜に、詩歌ありて」⑤
「そんなに怒るなよお」
「知りません嫌いです」
アザレアカフェへ向かおうと、駅へ続く道の途中。
やはり、詩歌はまだぷんすかと怒っていた。
といってもはたから見れば、愛嬌のある可愛らしいものだ。
頬を赤らめ、思い出したのか恥ずかしそうに目をそらす。
その姿が可愛くて、ついつい目で追ってしまうのだ。
……あまりじろじろ見ると、蹴りがとんでくるので詠の方を向き、話す。
「やりすぎだってお前」
「あはは、反省してる。……ごめんねー、詩歌」
俺のマジトーンに、さすがにビビリが入ったのか、詠は詩歌に頭を下げた。
しかし、まあ逆効果だった。
「ひい」
詩歌は恐怖に引き攣った声をあげた。
ずざざ、と後ずさり、俺の後ろに隠れる。
可哀想に、トラウマになってしまったらしい。
あの場に居たのが俺だけで本当に良かった。
衆人環視の元、あの醜態を晒したならば、流石に可愛そうだ。
しかし、先ほどの詠だが。
さすがというべき妙技だった。
彼女の動きはほとんど目で追えなかった、と言ってもいい。
「……詠」
怯える詩歌の手を握り、傍らの詠を見やる。
ひとつ疑問があったのだ。
対する詠は。
――気付いたか。
と言わんばかりの態度で言葉を返す。
「ふふ、多分想像どうりだよ。さすがだね」
◆
彼女が早広の前で、俺と話した声色を真似た。
声は半音高く。小さく。掠らせるように。
詩歌が俺達のやりとりに気付いた風は無い。
確認し、改めて詠のほうを向く。
微かな疑問であったが、やはり想像どうりか。
俺の表情が気に入ったのか、詠は微笑む。
――種明かしするとねー。
「もともとタンスから詩歌の下着を拝借しておいたの。最初から詩歌はノーパンだよ。脱がせたのは、靴下を履こうと、ベッドに座った時ね」
いくら私でも、両足をついてる人から抜けないよー、と微笑む。
だがしかし、詩歌に知覚されずにやってのけるのは、はたして可能なのか。
当然の疑問に、詠はこう答えた。
「人間が同時に知覚できる感覚には限界があるの。弱い刺激は、より強い刺激に掻き消される。そこに視覚、聴覚から刺激を与えてあげれば、相手はもう五感を自由に使えない」
暴論だった。しかし有無を言わせぬ説得力が、彼女から滲み出ていた。
先ほど詩歌と詠が相対した時に、感じた殺気は本物だった。
俺は問う。事の本質を。
「詩歌に、何をしたんだ?」
言葉とは裏腹に、その音に怒りは無かった。
あったのは、純粋なる興味。好奇心。
「それはね、うふふ」
突如、視界から詠の姿が消えた。
遅れて、軽い小気味のいい音が一面に響いた。
「ひゃい!」
俺達の表情を見て訝しんでいた詩歌が、素っ頓狂な声をあげた。
音の正体である詠は、いつの間にか俺達の前に立ち、満足そうに笑っていた。
今のは……。
「猫騙し、だよー。詩歌、可愛いね! あははは!」
猫騙し。相撲の戦法の一つだ。立ち会いの直後に、相手力士の目前で勢い良く手を叩き、眼を瞑らせる。
そんな子供だましで。とは到底思えなかった。
まず圧倒的に速度が違う。
俺を挟んで、隣同士の詩歌の目前に立つまでが、数瞬。
その後の拍手は、やはり目で追えなかった。
その小さなてのひらで、どうやって出すのかと、不思議に思うほどの大きな音。
証拠に、数十メートル先を歩いていた登校中のカップルが、何事か、とこちらを見ていた。
詩歌からすれば、予告なしの唐突な出来事だっただろう。
「うううう、恭平くん、この女、なんとかしてくださいい」
小馬鹿にしたように笑う詠に、詩歌は心底苦手意識を感じているようだった。
無理もない。あれほど恥ずかしい目に会わされたのだ。
――そうか。普通は目の前に立って拍手するもんな。猫騙しって。
あんな死角からの急襲で、それも目の前でやられたら誰だって感覚が強張るだろう。
とはいっても、感覚の麻痺は数秒もない。
――その一瞬でやってのけた、ってことだな。
カラクリが分かっても、真似するのは難しそうだった。
諦めたように、詩歌の頭を撫でた。
白絹のような指通りの良い髪が、心地よかった。
「ふあ、恭平くん何を」
「あ、悪い、つい」
「いえ、少し、懐かしく思って。もっと撫でてもらってもいいですか……?」
微笑む詩歌に、赤くなり頷く。
はにかみ、照れたような笑顔が、たまらなく愛しい。
過去の記憶は無いが、喪失感を埋めるかのような彼女の温もりに、もっと触れていたいと思った。
しかし突如、眼前に破砕音。
「おっと」
「ひゃあ!」
先ほどと同じ音だった。
誰のものかは確認するまでもなかった。
抗議の視線を詠へ向けた。
しかし、彼女は何故か怒り心頭といった表情でこちらを見ていた。
「私を無視してイチャつくなんて、いい度胸じゃないうふふ」
詠の眼は笑っていなかった。
とてつもなく理不尽な怒りにさらされているような気がした。
俺の隣の詩歌は、可哀想なほど震えていた。
――こいつ、いじめられっ子体質だ……。
こんな時に不謹慎ながら、そんな事を考えてしまった。
「きき恭平くん」
哀れ、詩歌。
可哀想に。先ほどの虚勢はどこへやら。
俺は、なだめるように詩歌に話しかける。
「びびりすぎだ詩歌」
「だだだって、折部さん、さっきも私のパパパパン」
「ぱあん」
「きゃああああ」
しかし黙って見ている詠ではなかった。
何度目かの猫騙しを食らった詩歌は、可哀想に尻餅をついた。
彼女のフレアスカートが、ふわりと舞い上がる。
ニーソックスから覗く太腿。その白さに、流石に眼を奪われた。
しかし、まくれ上がった拍子に……、これは、その、あれ?
下着が、見えてこなかった、
ここまで凝視するのもどうかと思ったが、俺も男だ、仕方ない。
視線を上に上げると、詩歌と目があった。
顔は真っ赤になり、何も言うな、と目で訴えていた。
ああ、分かった。俺は何も見ていない。そうだろう? 詩歌よ。
「ああー。あれだね! ジャパニーズ”はいてない”ってやつだね! 詩歌ちゃん大胆うふふ」
見ないふりをしていた空気感ぶち壊しの詠。
ああ、馬鹿がいた。……というかお前のせいだ。
――詩歌。早広に替えの下着くらい貰っておけよおおお!
「ああああああ!!」
――だからなんで俺を殴るの詩歌さん。
奇声をあげ、おれに殴りかかる詩歌を手で制止しながら、俺は脳裏に焼き付けた先ほどの映像を、心のハードディスクへと保存していた。
詠を見やる。美人が台無しになるほど爆笑していた。
こいつ、本当に性格悪いわ。
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