五話「吟詠の夜に、詩歌ありて」④
「嘘つき。やっぱり煙草なんて吸ってないじゃないですか」
俺を回想から引き戻したのは、涼やかな声だった。
やはり幼なじみに嘘は通じない。
マンションの階下で、何をするわけでなくたむろする俺に、詩歌は微笑む。
意図せずして、二人が並ぶ形となった。
「詩歌……。どうしてここへ?」
愚問だった。彼女の性格を鑑みれば。
俺の問いに、詩歌は臆すこと無く静かに答えた。
「恭平くんの側にいたいからです」
「っっ、何を」
ストレートな言葉に自分の顔が紅潮するのがわかった。情けない。
ドライヤーもほどほどに少し濡れた彼女の髪。
自惚れているわけではないが、詩歌がすぐに俺を追ってきたのが分かった。
「遅刻、しますよ……?」
彼女が着ているサイズの合わないカッターシャツは俺のものだ。
上目遣いと、襟元から見えた肌の白さにどきりとする。
「ああ、すまない。すぐ戻る」
零れたのはそんな言葉だった。
誤魔化すように、言葉を紡ぐ。
「頭、ちゃんと拭けよ。風邪引くぞ」
「恭平くんが戻ったら、わたしも戻って、身支度します」
少し、詩歌がむきになっているような気がした。
おそらくではあるが、俺が戻るまで、ここに居る気だ。
「……わかったよ。降参だ、一緒に戻ろう」
嘆息し、帰宅の意志を見せる。
彼女が俺の手を握ったのはその時だった。
「……なんだよ、この手は」
「恭平くん、すぐどっか行くから」
少し懐かしい言葉だった。
ああ、昔にもそんなことを言われていたな。
過去を懐かしむ。断片的ではあるが、詩歌の思い出は色濃く残っていた。
「逃げねえよ、別に」
「……本当ですか?」
真っ直ぐな鳶色の瞳。その煌めきを、とても直視できなかった。
「嘘はつかない」
もう、その言葉が嘘だった。
いつからこんなに息を吸う様に虚言を吐く人間になったのか。
自分に嫌気が差した。
「恭平くん」
部屋へ戻るエレベーターの中で、詩歌はぼそり呟く。
「恭平くん。やっと、会えたんです。わたし、離れたくないです」
縋るように彼女は握った手に力を込めた。
そこに嘘は感じられなかった。
どこへも行かない、とは言えなかった。
だから、咄嗟についた言葉は。
「ああ、俺も、離れたくない」
「っ、え、ふえ」
詩歌はみるみる赤面して。
その可愛らしい表情を見るや、俺も自分の言葉の意味に気がついた。
少し焦るが、もう遅い。
「あああ、あの、あり、ありあり、ありあと、ございます」
可哀想に目をそらした詩歌の言葉は、もはや意味を成していなかった。
エレベーターが12階に止まった。
慌てるようにして、彼女は出て行った。
握った手はそのままに。
釈明の余地はなかった。
案外それもいいな、と思う自分がいた。
◆
スーツに着替えた。
身支度が終わり、玄関先にて俺の横に立つ詩歌。
その顔はまだ赤い。
「で……」
「うふふ」
「なんでお前がついてくるんだよ」
詩歌の表情をみるなり、にやにやしていた詠に向かって告げる。
グレーのチェスターコートにショートパンツと黒のタイツ。
露出はフレアスカートの詩歌のほうが大きいはずなのに、やはり人目を奪う可憐さがあった。
金よりも落ち着いた、亜麻色の髪の毛が、肩のすぐ下で揺れる。
俺の不機嫌そうな声に答えるように、首を傾げる姿は、小動物を連想させて、たまらなく愛らしかった。
「……あざといなお前」
「恭平くん、いま見惚れてましたよね」
「気のせいだ」
睨むような詩歌の視線を誤魔化し、再度詠を見据える。
彼女はその笑みを崩さず。
「いやだから護衛だよ。いまからお仕事だよね、だからついていくの」
「必要ありません、恭平くんは私が守ります」
詩歌は俺を守るように、詠との間に立ちはだかった。
――いやだから普通立場逆だよね?
しかし詠は怯むことは無かった。
「守る? あなたに? 笑わせないで。ただの女の子のあなたが、どうやって?」
「そりゃもう、命がけで。……というか、あなたもただの女の子じゃないんですか」
いや、命はかけないでくれ。
それに詠は一般人じゃない、と言おうと思いとどまった。
そうか、詩歌は詠の正体を知らないのか。
いや、俺も偉そうには言えないが、詠にまとわりつく異質なものは感じ取れた。
こいつは、俺と同じ匂いがするのだ。
ねめつく、死の匂い。
「うふふ、試してみる?」
瞬間、空気が変わった。
詠の周囲に漂う濃密な気配。
明らかな殺意の奔流。
「え、ええ。どうぞ」
咄嗟に言葉を返した詩歌は立派なものだ。
しかし、言葉尻は少し震えていた。
ああ無理もない。詠から零れ出る殺気は、俺ですら肌を焼くようなものだった。
「おい、止め……」
慌てて二人の間に立つ。
詩歌がただじゃすまない。
彼女を庇うように、両の手を広げた。
しかし。
詠は俺の制止を無視した。
巧妙に隠した、攻撃への予備動作。
詠の身体が蜃気楼を溶かしたかのように、薄く霞む。
――まずい、判断が遅れた……!
小脇を抜けるような風が奔り、遅れて甘い香りが鼻をついた。
遅れて左横を抜けられたと気付いた。
最悪の想定が頭をよぎった。
しかし、詠が発したのは間抜けな声で。
「えい」
気が付くと、詠は俺の前に立っていた。
ただ後ろに下がったように見えただろう。
実際俺にもそう見えた。
しかし、確実に。
詠と詩歌の間に立っていた俺は、かすかな振動を感じた。
詠は一度静止した俺をすり抜け、詩歌のもとに寄った。
その後、同じルートを戻り、今この場所に立っている。
瞬きひとつの速度で。
「……はは、あはは」
詩歌の乾いた笑い声。
かわいそうなくらいビビっていた彼女は、精一杯の虚勢をはろうと膝をふるふるさせ詠を指さす。
「ハッタリですか! あはは! どうしました! あなたがこないなら、こっち……」
詩歌の言葉が止まった。
音を止めた彼女の視線は詠の右手にそそがれる。
ああ。
俺も気付いた。
なんて、恐ろしいことを。
「あら、可愛い」
二人分の視線をたっぷり集めた詠は手に持った”布切れ”を見て、そう言った。
ひどく愉快そうに。
それは、ただの布切れでは無かった。
可愛らしい装飾とフリル。
正面にはちいさな薄紅のリボンがついていた。
どうみても女物の下着だった。
――誰のものかは言うまでもない。
「きゃああああああああ! 見ないでくださいいいいい!」
「やめろ! やめ、やめ! 殴るな! 痛い!」
「あははは! うふふ、あは、あはは!」
状況を理解して俺に殴りかかる詩歌を見て、詠は満足そうに笑っていた。
こいつ、性格悪いぞ。
「あはは! 詩歌! そんなに動いたら、可愛らしいお尻が、うふふ」
「見るなああ! ふえええええん!」
半泣きになりながら、部屋に戻る詩歌を見て、俺は詠を睨んだ。
「お前のせいで遅刻だよおおお!!」
「ごめんごめん。これで許してよ」
そう詠は笑い、俺の手にまだ温かい下着を握らせた。
「どう見ても変質者だよおおお!!」
「うふふ」
詠の憎たらしい笑みを横目に、時計を確認する。
どう考えても間に合わなかった。
――榊に電話するか。
そう腹を括り、詩歌を待った。
着替え直した詩歌に、彼女の下着を持った俺が殴られたのはそのすぐ後だった。