幕間「焼くや藻塩の身もこがれつつ」
「どうだった?」
父は何か物思いにふけっていた。
たびたびこうなることはあったが。今日は特別な感じだった。
「詩音か。怪我はなかったか」
「恭平くんに私を傷つける度胸はないよ。優しいもん、あの子」
「辛くはないか」
「もう慣れたよ。相当泣いて、もう枯れた。別に今更なんとも思わないし、約束だもんね。私の正体を明かさないって」
「すまんな。これしか方法はなかったんやわ」
「知ってるよ。別に恨んでない」
そう言いつつ、胸が痛むのを感じた。
心などとうに消えてしまったと思ったのに、彼の姿を見て泣きそうになった。
狂気に朽ちていく自分を抑えようとはしなかった。
「借り物だしね、この体は」
「言うなや。こっちが悲しくなるわ」
本当に悲しそうに言う父を見て、いたたまれなくなった私は、取り繕うように誤魔化す。
「で、どうだったの? 合格?」
「まあな。問題はないわ。女も囲っとるし、情にも厚い。あの調子やったら後ろから刺されることもないやろう」
「早広も結局裏切らなかったしね」
「ああ。今回はそこを見とったんや。あいつは優しいからな。簡単に利用されるやろ」
あれは凄かった。よほど手懐けているのか、早広は落ちなかった。
やはり少し心がチクリと痛んだ。
「やけどな」
「折部ね」
「ああ、そうや。俺も色んな奴を見てきたけど、あいつはヤバイわ」
「捕まえるのにえらく苦戦したって聞いたけど」
父は逡巡して答えた。
「八人や」
「へえ」
「屈強な男が四人がかりで背後から襲った。ものの見事に返り討ちにあった。丸腰の相手にや。二人は頭蓋骨陥没で治療中。二人は昨日までICUにおったんやけど、死んでもうた。首の骨が折れてたんや」
片倉が手配した男だ。
当然素人ではない。
「あとから慌てて増員かけた四人で、なんとか確保した。最後には熊用の麻酔銃まで持ち出しよったわ。あほちゃうか」
おどけたようにいう父だが、眼は笑っていなかった。
少し興奮しているのか、汗ばんだ頬が光っていた。
「何者なの?」
「わからん。何も上は教えてくれん。わかるのは、前回の選別の生き残りということ。今回の選別の対象者ということ」
「そして、なぜが恭平くんと組みたがっていると」
「そうや」
溜息を付いた。
まあいいだろう。もう私には関係のないことだ。
「詩音」
「なに?」
少し不機嫌そうに返す。
「今でも、好いとるんか」
「まさか」
鼻で笑う。
否定出来ない自分がいた。
もう終わった恋だ。
「あん、なやつのこと」
頬を温かいものがつたった。
泣いているのだ、と遅れて理解した。
久方ぶりに味わった胸の痛みだった。
「すまんな」
父は、それ以上言わなかった。
涙は止まらなかった。
「なまえ、よんでくれなかった」
ぽつり、ぽつりとこぼれだした思いは、抑えど、止めどなく溢れてきた。
こんなにも悲しい。
こんなにも苦しい。
いいのだ。
これが自分への罰だ。
「きょうへい、くん、わたしの、なまえ、よんで、くれなかったよお……」
悔しかった。
詩歌が憎かった。
なぜああも平然とあの人の側にいれるのか。
自分にはその権利が永遠に失われたというのに。
「しおり、って、よんで、くれなかったあ」
彼は自分のことを詩音と認識している。
社会的にもそうだ。
私は瑞原詩音。
「うああああ、ああ、あ」
詩織は、もう死んだ。
「覚えとるで」
「……え、」
「あいつは覚えとる。わしと工場で殴りあった時も、さっきも。お前の名前覚えてたわ」
「うあ、ああ」
嬉しい。
堰を切ったように、涙が溢れる。
「ただ、あいつの中で詩織はもう死んでる。お前は詩音や。それを忘れるな」
「うん、わかってるよお」
それだけでいい。
記憶の片隅にでも、私の名があればいい。
どうか元気でいて。
私はあなたをずっと好きでいます。
幕間「焼くや藻塩の身もこがれつつ」完