四話「泡沫の夢をかなえ」⑬
「おい」
野太い声が広い室内に響く。
「変な気は起こすなよ。そっから一歩でも動いてみい、小娘の腕、落とすで」
脅しではない。おそらくこの男はやると言ったら絶対にやる。
しかし、確信に近いものがあった。
賭けよう。一縷の望みに。
「ああ、やれよ」
早広が息を呑んでいた。目線は抗議するように震えていた。
瞬間、刀が躍った。
刃先は少女の肩口へ。衣服と薄皮一枚を切り裂いた。
白磁の肌へ、赤い鮮血が流れ落ちていく。
とさり、と可愛らしい音がした。
早広が崩れ落ちていた。
刺激が強すぎたのか、気絶してしまったらしい。
好都合だった。
「正気か、お前」
俺は眉一つ動かさず、光景を見ていた。
そうして、言った。
「どうした。殺せよ、その女を」
平静に、淡々と、無慈悲に。
「お前、その女どもに人質の価値があると、本気で思ってんのか?」
「ほう、殺していいと?」
「やれよ。そのかわり刺し違えてもお前を殺す」
本気だった。
もはや自分の命に頓着などなかった。
「それは困るなあ」
郁夫が喉を鳴らす。笑っていた。
それをみて、推理が正しかったと確信した。
「何が狙いや、言うてみい」
「お前らの意図を教えろ」
それは、俺の立ち位置について。
俺の存在価値について。
「……くははははは! 面白い事いうなあ」
「くそが。詩歌の時から、お前らの狙いがブレブレなんだよ」
違和感は多量にあった。
「まず、詩歌を殺したいのか、俺を殺したいのか、榊を殺したいのかはっきりしない。あの場では結局誰も死ななかった」
郁夫は楽しむように黙って聞いていた。
「あれほど大掛かりな設定を用意して、最後には家燃やして終わりだ。最初はぴんとこなかったよ」
”選別”とは何なのか。
記憶を辿り、理解できた情報のみを早広に説明した。
”王の器”。
片倉が何を求めているのか理解した時、俺は戦慄した。
「全て、演出なんだよ。試しているんだ、俺を」
一店舗の運営ができるか。
メンバーとの信頼関係が構築できるか。
命を賭した遣り取りができるか。
窮地を脱出する判断はできるか。
仲間を助け出せるか。
仲間に裏切られはしないか。
心は頑健で折れはしないか。
残酷な現実を受け入れる器はあるか。
段階はそれぞれだが、片倉が望む人材であるかの見極めの意図は、透けて見えていた。
だから、安易に殺さない。
「半分正解やなあ」
しかし郁夫は嗤い。俺を見上げる。
違うぞ。お前は気づいていない。
そう、言っているようだった。
「何がおかしい」
「朧やろう、記憶が。わからんかったよなあ、俺のことも」
選別も、直近まで、忘れていた。
詩歌と出会った時も、すぐには気付けなかった。
俺の記憶は断片化していた。
郁夫は俺の表情を嘲るように。
「詩歌がお前の何を恨んでるかわかるかあ? わからんやろうなあ」
「そ、れは。詩織の」
「その名を気安く呼ぶなゆうたやろが、殺すぞ」
かつて工場内で見せた怒りだった。
こいつは何に激怒しているのか。
「詩織ちゃうわ。詩歌が妹、妹、ゆうてるのは、お前の妹のことや」
「……俺は、一人っ子だ」
「よく言えたな。親の顔も思い出せんくせに」
そのとおりだ。
いつから記憶がおかしくなっていたのか。
「六年前の選別で、お前は生き残った」
記憶が戻ってくる。
かつての地獄が。
やめろ。
言うな。
「数多の犠牲のもとにな。そん中に、お前の妹もおったんや」
記憶が濁流のように押し寄せた。
何を、大切なことを、忘れていたのか。
こんなに、大切なことを。
「……ああああああああああああああああ」
慟哭が止まらなかった。
今、肉親を失ったかのように、呻いた。
「……片倉の血族のなかで、お前は特別心が弱かった。誰もが選別で淘汰されるやろうと、思うてた。が、違った。結局想定外にお前は生き残り、心を壊した」
ああ、やめろ、やめてくれ。
「しかし片倉は諦めきれんかった。その回の選別の結果が全滅やったら、跡継ぎおらんようなってまうからのう」
「いわばこれは敗者復活戦や。お前がこんなに過酷な環境にも耐えれるんやぞってゆうのを、上にアピールしとるんや」
「ええ判断能力やった。機転も問題なく、仲間の信頼も厚い」
俺を認めるような発言だった。
「誰が、参加する、か」
絞りだすようにやっと紡ぐ。
記憶の波に押しつぶされそうだった。
「拒否権なんかあらへん。ひと月後、ヨーロッパの離島で行う。安心せい。お前と同じように落伍者が集う。寄せ集めやから、上も本気で殺しに来る」
「ふざけるなよ……」
「瑞原詩歌、榊和人、早広叶。三名は、片倉から殺害許可が下りてるんや」
「――は」
「嘘やない。こればっかりはブラフちゃう。命令を取り下げるには、お前の選別への参加表明しかないんや」
郁夫の顔を見る。真剣だった。
「受けろ、恭平」
まぎれもなく、叔父の顔だった。
「そして、生き残れ」
肉親に注ぐ、眼差しだった。
「……わかった」
正直、正常な思考状態ではなかった。
妹の事実が、ぐるぐると回っていた。
郁夫は俺を見てニヤリと笑うと、早広と亜麻色少女の縄を切った。
「連れて行け。お前は記憶も取り戻したし、状況にも打ち勝った。後は生き残れや」
言葉は返せなかった。
郁夫はそう告げると、講義室を後にした。
残されたのは、早広と、亜麻色の少女と、絶望に暮れた俺。
思考が渦巻いて吐きそうだった。
◆
妹の名は静玖と言った。
幼い頃から片倉の英才教育を受け、めきめきと頭角を表していった。
「にいさん」
静玖は甘ったるい声で、俺をよくそう呼んだ。
普段の凛々しさとはかけ離れたその姿は、二人の時しか見せなかった。
彼女は人の心が読めた。
それは王となるにあたって、圧倒的とまで言えるアドバンテージだった。
静玖曰く。
「全ての人の思考はパターンなの。わたしも、にいさんも数千、数万の思考パターンを状況に応じて選択しているにすぎないの」
「わたしはエスパーじゃないから心は読めないわ。でも、誘導することはできるの。例えば理知的な人を怒らすことができたのなら、その人の思考パターンは数万から数百に減るの。後は全てのパターンを思考するだけ。簡単なの」
おおよそ、常人にはできない真似事を、彼女はいとも簡単にやってのけた。
その能力は、圧倒的なマルチタスク処理からきていた。
洗濯機を回している間に、掃除機をかける。そんな生易しいものではなく。
ドイツ語のリスニング教材を回している間、音楽を聞き、テレビを点け、本を読み、メールを打ち。
そうして今、俺と会話している。
普通の会話ではない。
俺の何気ない質問から、俺の機嫌を見抜き、悩みを聞き、本当に知りたいことをこうして懇切丁寧に教えてくれている。
……実践できるかは別問題だが。
さて、渦巻く思考を切り替えた。
過去への回想はこれまでだ。
ああ、こんなにも鮮明に思い出せるのに。
思い出の中の静玖にはモヤがかかっていて。
声は機械の様に不気味で。
まるで心が拒否するかのように、選別の出来事は思い出せなくて。