四話「泡沫の夢をかなえ」⑪
しかし、早広の口から出た言葉は。
「ごめんなさい、詩音さん。できません。店長を、殺すなんて、できません」
言葉はたどたどしく、幼い。
それでも必死に紡いでいた。
怖いのだろう、悲しいんだろう。震える唇で、それでも親友を守るため、俺を助けるため、言葉をつないでいた。
「すみません、役立たずですみません、でも、選べないんです、どちらも、私にとっては、大切なんです」
泣きながら、必死に訴える。
「詠ちゃんを、助けてください、私は、何でも、しますから……どうか、詠ちゃんを、たすけ、て、あげてくだ、さい」
俺の脇を通る、ナイフは地に落ちる。
早広は、詩音の元へ。
「お願いします、わたしが、かわりになります……」
ただ、泣きながら懇願する。
馬鹿野郎、やめろ、死ぬぞ。
「……なんだよ、お前」
詩音は言葉を失っていた。無理もない。俺も同じ気持ちだ。
見捨てればいい、俺のことなど。
見捨てればいい、親友など。
それが、なにを返してくれるというのか。
何が、自分にとっての利になるのか。それだけではないのか。
「なんなんだよ、お前……! 気持ち悪いよ!」
詩音は声を荒げる。おそらくこの行動は、彼女の想像の埒外。
思考の外に在った。
「おねがい、します、おね、がい、しま、す」
ただただ縋る。憎むべき敵に向かい。
自分の唯一の武器を地に置き、頭を垂れる。
涙と鼻水に濡れたその表情。体裁など気にしない。
ただ、仲間の為を思う、義がそこにあった。
疑って、しまった。
人を、弱き生き物だと、舐めていた。
――魅せつけられたな。
思わず、嘆息した。
自分が、どれほど偉いというのか。
傍観していた己に、殺意すら芽生えた。
この娘は、俺の想像と違う人間だ。
今まで見てきた誰より。
愚鈍で。
純粋で。
親切で。
単純で。
愛らしく。
朗らかで。
尊く。
高貴で。
愚直で。
慈愛に溢れ。
感情豊かで。
人の痛みがわかり。
人を信じ。
人を愛し。
そして、気高い。
ああ。
愚かなのは自分だった。
自分の命を切り貼りするように粗末に扱っていた。
それが美徳だと勘違いしていた。
早広が、俺を裏切るなら良いか、と。
あっさり結末を決めつけ、容認していた。
足掻かなかった。
神にでも成った気分でいた。
あの涙は。
早広が、流した涙は。
いったい幾程の葛藤と、後悔と、逡巡と、絶望と、憐憫に溢れた物だったか。
考えもしなかった。
「すまなかった」
知らず、言葉が漏れた。
後は湯水のようだった。
「ありがとう、早広。後は、俺に任せて、少し休め」
似たような台詞を過去にも吐いた。
何と、薄っぺらいものだったか。
しかし、今は違った。
比喩ではなく、彼女のために命すらなげうてた。
「てん、ちょ」
「着いて来い」
ふわり、と。早広を抱いた。
片手間で、地に落ちたナイフを蹴りあげ、左手に掴む。
察したのか、接近してきた詩音のダガーを、打ち落とす。
「待、て!」
詩音の声。構う道理など無い。
後三分。
どこだ。彼女の台詞に思いを巡らす。
――別室、と言ったな。
これでどこか名も知らぬ廃墟に監禁されていたらアウトだったが、憂慮している暇はなかった。
確信とは程遠い、か細い蜘蛛の糸のような推理を、辿る。
「早広! 13階の灯りが付いている部屋を虱潰しに当たれ! 俺は15階を探す!」
この科学棟をを見据えた時、灯りが付いている部屋は全て記憶しておいた。
木を隠すなら森の中。
少数の灯りは排他し、多く灯りが点いている階。それもまばらに灯っている所を選んだ。
8階、9階。そして13階と15階。
総当りしている猶予は無かった。だからここより下の階は捨て置いた。
ヘリで乗り付けもしない限り、ビルは下から昇るものだ。
俺が詩音なら、監禁場所は上階に構える。
頼りない、雲をつかむような推理。
それでも、あの早広を見た後では、縋らずにはいられなかった。
「わかりました!!」
早広は威勢よく駆けた。凄いスピードだった。
全く理由も尋ねず。ただ、ただ。俺の指示を信じて。
後ろを振り返らず駆けた。
――間に合え。
切にそう願った。
心臓が暴れだしそうになるのも構わずに、階段を駆けた。
エレベーターを待っている時間は無かった。
15階の廊下に出た。灯りは3つ灯っていた。
「ああ」
全て調べるまでもなかった。
据えたような臭いが、雄弁に居場所を語っていた。
その場で、何が行われているのかは明白だった。
「すまない……」
謝罪は早広に向けてか。
それとも、折部さんにか。
どちらにせよ、最悪の結末が容易に想像できた。