四話「泡沫の夢をかなえ」⑩
「早広」
彼女の名を呼ぶ。返事は無かった。
しかし、やはり息を呑むような音と、首筋に触れたナイフから震えが伝わってきた。
おそらくは、人質か。
苦渋の決断だったろう。出会って間もないが、彼女の性格は痛いほど分かっていた。
”片倉”にいらぬことを吹きこまれた。そして折部さんの命と天秤にかけた。
悩みに悩み抜いた末、俺を裏切ることを決意した。
別に責めはしない。恨むべき元凶は別にいるから。
それよりも。
先ほどの嗚咽が耳にこびりついていた。
助けださなければ、と思った。
「全部終わったら、また旨い紅茶を淹れてくれよ」
「っ……、う……」
声にならない声。
ただ、ただ、彼女を苦しませてるのが苛ついた。
――お前は笑顔でなくちゃいけない。
怒りの矛先は、眼前の詩音へ。
「おいおい、なんだよその眼は。お前は裏切られたんだよ、わかるか?」
「そうみたいだな、とても困った」
「……その余裕そうなツラ、ムカつくわ」
どうやら彼女は俺の態度がお気に召さないらしい。
額に青筋を立て、しかし目線は俺の背後へ。
「おい、早広叶」
「っ、ひ……」
「もういいわ、こいつ殺せ」
ああ、ああ、と呻きながら、カタカタと歯を鳴らす早広。
俺の首元のナイフは、可哀想なほど震えていた。
直視しないでよかった。おそらく今の彼女の姿を見てしまえば、正気を保っていられた自信がない。
怒りで、血管が破裂しそうだった。
比喩ではなく、全身の血液が沸騰しそうになる錯覚をおぼえた。
「……無理、無理です、できません、ほんとむりです」
「折部詠はね」
「っ!」
「今別室にいるんだよ、薬を飲ませて昏睡中なの。あまりダルいと連絡して、酷い目に会ってもらう」
「……ひ、酷い目って」
「別室には男が二人。適当に町歩いてるガキに声かけてきたの。ただでヤレるよ、おいでーってね」
早広は絶句していた。
え、あ、え、と言葉にならない音を紡ぐ。
こういった闇と縁のない日々を過ごしてきたのだろう。
理不尽な悪意など、経験したことが無かったのだろう。
残念ながら、俺はそれが日常とされる場所にいた。
それでも、早広に光を求めたかった。
「そ、それ、って、どう、いう」
「二時になったらね、この女の子と生でヤッてていいよーって言ってるの。多分処女だから上等だよーって。二人共すっごい喜んでたよ。折部さん可愛そうだね、ホント理不尽」
時計はそろそろ二時をさそうとしていた。
そうか、命は助かるのか。
そう考えている自分に吐き気がした。
異常な悪意に慣れすぎていた。
「あああああああああああああああ……」
遅れて意味を理解したのか、早広の慟哭が響いた。
小さく、か細い慟哭だった。
彼女は今、この瞬間、何かを察し、何かを諦めた。
詩音を見た。
愉しそうに、嗤っていた。
「やれよ、早広。多分あの娘のことだ、眼が覚めたらショックで自殺しちゃうぜ」
「後五分で二時だ。早くこいつ殺さないと間に合わないよ」
「折部さん、助けたくないの?」
「ねえ、やれよ」
「さあ」
「早く」
早広の呼吸は荒く、吐息が俺の髪にかかるのが分かった。
――まずいな。
正常な判断を下せる状態にはとても思えない。
無理もないか。
親友が、名も知らぬ暴漢に、昏睡状態で犯されそうになっているのだ。
おそらく、詩音は、早広が想像できる範囲で、もっとも残酷な私刑を選択した。
効果は見ての通り。
俺の頸動脈を掻っ切ることに、もはや何の躊躇もないだろう。
「ごめんなさい……、ごめん、なさ、い」
嗚咽混じりの声が耳元で。
この世の全てを呪うかのような、怨嗟。
ひどく胸がざわついた。