四話「泡沫の夢をかなえ」⑨
暗闇の果て。目的の場所は其処に。
扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
瞬間、闇から漂う殺気。遅れて頭上を通過するダガー。
数コンマ遅れていれば、頸動脈を掻っ切られていただろう。
咄嗟に屈めたのは僥倖にすぎない。
後ろに飛び下がり、暗闇の奥を見やる。
朧気な狂気。緋色の瞳。
「久しぶりだな、詩音」
「おっしーい。なんで分かったのかなあ」
「無警戒で入るか馬鹿。最初から予測済みだわ」
眼は虚ろ。美貌はただただ醜悪に歪み、純粋な殺意に満ち満ちていた。
しかしながら、詩音の動きはやはり鈍い。
二十歳そこそこの女性の運動能力。真っ向から当たれば負ける道理は無い。
――今の一撃狙いではない。
それは即座に理解していた。真っ向から当たれば敗北は必至ならば、姑息な手段に訴えるだろう。俺が逆の立場ならそうする。
早広を背後に庇いながら、郁夫の姿を探す。奴も片倉の血族。あの身体能力は厄介である。
しかし、暗がりの中、部屋の奥は一寸とて見えやしない。
「おっさんはどこに隠れてんだ?」
「さあね」
図星を当てられた風もなく、詩音は飄々と嗤う。
この余裕はどこから。
しかしまあ、幾度もこいつのフィールドに飛び込むとは、自分も懲りないものである。
「て、店長」
「案ずるな、機を伺え早広。今はまだ時期尚早だ」
「はい、隙あらば」
早広はそう頷き、唇を舐めた。
緊張のせいか、手足は可哀想なほど震えていた。
――慣れないこと、するなよ。
そう言ってやりたいが、状況が状況だ。
眼前の詩音から意識を切れば、死は容易に想像できた。
「ちょこまかと俺の前に現れやがって。お前は試験官か何かか? ああ?」
「”選別”のことかしら? 面白そうなイベントね、とても私好み」
このサイコパスが。ちっとも答えになっちゃいねえ。
そういえばこの女の行動原理は何なのか。
なぜあの場であのタイミングで現れたのか。
なぜ詩歌を目の敵にするのか。
昔から変わった奴だったが……。
いや、それが答えだろう。異常者に動機などない。
思考するだけ、底なし沼だ。
しかし……。
なぜこうも断片的なのか、俺の記憶は。
大事なものがごっそり抜け落ちているような。
「店長、あぶないっっ!」
「ちっ」
舌打ちは俺と、そして詩音の口から。
詩音が俺と距離を一気に詰め、再度攻撃してきたのだ。
早広が後ろに引いてくれなければ、危なかった。
「邪魔しやがって」
詩音がぼそりと呟く。そうして、早広を見やる。
早広はビクリと震えた。
しかし、詩音は早広に目標を変えるわけでなく、俺を向いていた。
まるで彼女が脅威ではないというように。
やはり違和感はつのる。
ここまでの積極性はどこへやら。
早広の顔は青ざめ、ふるふると震えていた。
「ありがと、助かった」
「あ、ううう」
早広の顔を見ずに告げる。
遅れて言葉にならないか細い泣き声が背後から。
もういい、ここは俺に任せろ。
その仕草だけで、お前が折部さんをどれだけ大切に想っているかわかった。
俺は、全部、わかっているから。
もういいんだ、早広。
「あああ、糞が」
詩音は苛立ちを隠さずに、悪態をつく。
物事が思い通りに運ばないと、駄々をこねる餓鬼のようだった。
言葉の攻撃性とは裏腹に、こちらに攻め入るようなことはしない。
動いたのは、先ほど俺がわざと見せた隙につられた一瞬だけ。
確定だ。間違いないだろう。
ああ、自分の推理が間違っていると思いたい。
おそらく、折部さんは、もう……。
しかし救わねばならない。
「早広。大丈夫だ、必ず助け出す」
早広が息を呑むのがわかった。
遅れて聞こえる嗚咽。
なあ、いったいこの小さな背中に、お前らは何を背負わせた?
怒りがこみ上げる。
「お、おい」
一歩進む。
詩音がダガーを片手に牽制する。
構わない。二歩目。
眼前の敵が、ひどく小さな少女に見えた。
眼は怯え、俺を見ていた。
「く、来るなあ」
ああ、怒っているのか、俺は。
久しく忘れていた感情。詩歌の時とで二度目だな。
三歩目。もう詩音の攻撃の圏内だ。
しかし彼女は攻撃してこない。
ああそうだ、お前の判断は正しい。
「た、助け」
「武器を降ろせ。手を後ろに組んでうつ伏せになれ」
しかし。
現実はそう甘くない。
首筋に触れる、冷たい感覚。
視認せずとも、それが何であるかは明白だった。
おそらくはナイフ。
詩音のダガーが刺突に特化したものとすれば、これは切断を目的として製造されたもの。
それが俺の、首筋に。
誰が突きつけているのかは、考えるまでもない。
「は、早広おお、遅えよおおお」
子犬のように震えていた詩音が、生気を取り戻した。
おそらくは、紆余曲折を経て、思い描いていた通りの展開になったのだろう。
俺の指示に従うまでもなく、彼女もダガーを構え直す。
「ごめんなさい、店長」
早広の声はやはり背後から。
ああ、分かっていたさ。
それでも分の悪い賭けに出てみたかった。
折部さん、そして早広を救い出すにはこの方法しか無かったからだ。
しかしまあ、今の現状では夢物語ではあるが。