四話「泡沫の夢をかなえ」⑧
海厨大学躑躅キャンパス。
市の郊外に佇む大学である。
眼前の正門は通りに面していて、ここからの侵入は避けるべきだ。
そう思い、裏手の通用口にまわる。
深夜のキャンパス。今は冬休みでもあるが、警備員室、宿直室、科学棟の明かりは見てとれた。
「店長、やっぱり鍵がかかってますよう……」
二十時を過ぎたあたりから、キャンパス内に残っていいのは事前の活動申請を出したサークルか、研究のための科学棟一部機器の使用のみ、と原文化されている。
正門、東門ほど立派ではないが、通用口もご多分に漏れず施錠されていた。
調理用のエンボス手袋を装着し、クリップを変形させたもので幾度か前後させる。
単純な錠前だった。数分もしないうちにシリンダーの感触がわかった。
上向きにかるくつつき、ノブを数回弄る。
かちゃり、と小気味いい音がして、扉が開いた。
「なんか泥棒さんみたいですね……」
「急ぐぞ早広よ。ここから入っていることがバレたら面倒だ」
「わかりました隊長殿っ」
びしっとおどけたように敬礼する早広。
しかし表情には隠し切れない緊張が滲んでいた。
「俺が来たからには大丈夫だ。何があっても救い出す」
「詩歌ちゃんのときもそう言ってましたよね……」
「ぐう」
痛いところをつくなよ。
あれは本当にやばかった。
しかし早広は先ほどの言葉とは裏腹に。
「……でも、格好よかったですよ」
顔を赤らめながら、そう言った。
「やめろやめろ照れくさい」
「……そういう恥ずかしい反応しないでくださいよお」
自分も顔が熱を帯びているのに気づく。
冷たい夜風がそれを認識させてくれた。
「ここから道がわからん、案内を頼むぞ」
「了解ですとも! でも、私普段は科学棟なんか入らないんですけどね……」
◆
二十階の大きなビル。いわゆる大学院生御用達のその棟は、圧倒的なまでの存在感で俺達を出迎えた。
医学部、薬学部などであれば、詳しく棟内がわかるんですが――、と早広。
無いものをねだっても仕方ない。
ご丁寧に入り口近くに案内板があった。
一四階か……、これは少々億劫だな。
「見つかりました? 早速いきましょうよー」
「……十四階だ。大丈夫か?」
「楽勝ですとも! ささ、エレベーターに乗って痛ああ!」
エレベーターのボタンを押そうとする早広をはたく。
あぶねえ、聞いてよかった。
「アホか、こんなものつかったら、俺らが来たの丸わかりだろ。第一、この箱のなかで誰かと鉢合わせしたらどうするんだよ」
「あ、そうか。みんな白衣着てますもんね……、て、まさか」
「ダイエットだわ早広」
「……そんなに太ってないですよう」
俺は階段を顎でしゃくる。
退路が無いエレベーターはなるべく避けたかった。
上部のランプで到着が分かる点もいただけない。
おおよそ、選択肢はそれしかなかった。
「見つからないうちに行こう」
「うう……」
◆
しかし早広の身体能力には、やはり眼を見張るものがあった。
明らかに常人のそれではない。
スカートなのも構わず、階段を二弾飛ばしで駆ける姿は、思わず見惚れるほどだった。
「変態店長! わざと下に陣取ってるでしょ!」
「自意識過剰も甚だしいな。お前が早過ぎるんだよ、あとあまり騒ぐなよ、人が集まると困る」
「嘘だ、絶対嘘だ……」
もちろん嘘である。
しかし早広が早過ぎるのは本当だった。
自分もそれなりに鍛えている。おおよそ一般人に遅れをとったりしない程には。
――柔道、か。
何か違う気がする。まず第一、筋肉のつき方がおかしい。
柔道の練習は恒常的に、投げたり、投げられたり。数十キロのエネルギーをコントロールし続ける過酷なものだ。
必然的に体つきは太く、逞しく筋肉がつく。耳は日常的に受け身を取ることでひしゃげ、平らに近い形となる。
眼前の早広を見やる、細く、スラっとした体型は、どう見てもそれを想像出来なかった。
腿、脹脛のあたりこそ、同世代の女性より、筋肉が見て取れるが、それならばどちらかというとアスリート系の体格といったほうが正確だ。
――お互いに隠し事だらけだな。
とはいえ、やはり早広には明かせない事も多い。
今この場でそれを指摘するほど、彼女に踏み込む気も無かった。
「……着きましたっ」
「おうよ」
少し息が切れる。早広も微かにひゅうひゅうと喘いでいる。
やはりどこか焦っているような、そういうふうに思えた。
早広は階段脇のフロアマップを目ざとく見つけ、目的地を確認したらしい。
声を出さず、こっちこっちと手招きする。
「科学準備室……見当たらないですね」
「いや待て、ScienceRoom……ここを探してみるか」
「わかりました。フロアの一番奥ですね、行きましょう」
外から見た時はチラチラと明かりが見えた科学棟も、このフロアに至っては明かり一つ無い。
廊下の冷たくか細い照明が、不気味に光っていた。
「なんか不気味ですね……」
「どうした、怖いのか」
「ここ怖くないですし」
思いっ切りびびっていた。
仕方ない、と腹を括る。
「ひゃい!」
「うるさい、静かにしろ」
早広の手を握ったのだ。
少しひんやりとした指先が、妙に心地よかった。
「ななな何を」
「何かあったら助けてやる。俺から離れるな」
「は、はい……」
早広は頬を紅潮させながら、俺の手を握り返す。
じわり、と胸に温かいものがこみ上げてくる。
信頼と、微かな躊躇。彼女の声色から、それは感じられた。
長く、暗い廊下。お互いに無言になる。
しかし繋いだ手は確かで。温もりは本物で。
早広を安心させよう、という意図もあった。
しかし、彼女から香る濃密な死の匂いに。
どこか、彼女が遠くに行ってしまうような気がして、俺が縋ったのだ。
彼女を近くに寄せることで、少しは安堵した。
しかし、気づいた。気付いてしまった。
気のせいかもしれないが、彼女から、その一挙手一投足から滲み出る、不吉な香りに。
握った手に力を込める。
しかし、不安は拭えなかった。