二話「夢幻泡影」①
二話「夢幻泡影」
綺麗な子だな、と思った。
自分も人並みに女性に興味はある。こんな可愛い子となればなおさらだ。
お近づきになりたい、と当然思った。
しかし、声、仕草、表情、息づかいまでもが、彼女を彷彿とさせた。
「気づくの遅すぎだろ、馬鹿」
名乗っていたではないか、瑞原詩歌、と。
お互い、あの時に気付いていたのだ。しかし、心のどこかがそれを認めなかった。
詩歌もそうだったのだろう。
嫌だった。とてつもなく。
いっそ突き放してほしかった。
だからあんな態度をとった。
――恭平くん。私は貴方のことが、嫌いです。
よかった。これで……
しかし彼女は待っていた。
2月の寒空。吐く息は白く、指先は真っ赤になっていた。
「今更、何をしに来たかなんて聞きません。言いたいのは、私とあなたは今日出会った。それだけです」
「それを伝える為に、待ってたのか?」
馬鹿な。自分は責められなければいけない。
決して許されてはいけない……!
知らず、俺は泣いていた。
◆
「寒……」
大学はしばらく休むことにした。幸い単位にはまだ余裕があるし、どうせ前任が回復するまでのつなぎだ。なんとかなるだろう。
それに今は冬休みだ。履修申請だけ済ませば問題あるまい。
「早広と顔合わせたくもないしな」
といっても広いキャンパスだ。まずないと思うが、同じ大学なのはバレたくない。
というか、大学生ということも、叔母には黙ってもらっているのだ。
特別、自分は老け顔というわけでもないが、あと二年で新卒の年齢だ。
一歳か二歳誤魔化したところで、どういうことはないだろう。
「意外と家から近いな」
徒歩二十分だった。毎日通うところだ、近いに越したことはない。
アザレアカフェ。散髪屋と居酒屋の間という、こじんまりとしたスペースに店舗はあった。
植え込みに、綺麗に刈り込まれた新緑があった。これがアザレアなのだろうか。
「……おはようございます、店長。早いんですね」
涼やかな声に振り返る。漆黒の制服に、漆黒の髪、鳶色の目、白磁の肌。
息を呑む。美しい少女がそこにいた。
「……おはよう詩歌。名前では呼んでくれないんだな」
「勤務中ですから」
ぴしゃり、とあしらわれた。冷たい。
そういえば彼女は長箒と塵取り、といういかにもな清掃スタイル。
「朝清掃か? 手伝わせてくれよ」
マニュアルで見た知識しかないのは、店長として心もとない。
「嫌です、忙しいので教えている時間はありません」
「ひどい! いいじゃんべつに!」
まあ、想定していたが即答だった。しかし、このくらいで諦めるわけにはいかない。
「あなたが嫌いなので、教えたくはありません」
「知ってるよ! でも好き嫌いで仕事するなよ!」
こうなったら力づくだ。無理やり箒を奪う。
「あっ」
手と手が触れる。
「ご、ごめん」
「……変態」
どんだけ貞操観念が強いんだこの女は。
少し上気した頬が可愛らしかった。
◆
箒は当然ながら返さなかった。
詩歌はしぶしぶといった感じで、塵取りを俺に投げつけると、自分は雑巾を持って窓ガラスを拭きに言った。
ひでえ。仲良く掃除したかったのに。
開店までまだ二時間ちょいあるが、あまりサボっている訳にはいかない。
「目線怖えよ」
ギロリ、と睨む詩歌。
はいはい、お仕事お仕事。
とはいえ、店舗前はさして広いスペースではない。感覚にして十メートルもないだろう。
吸い殻や、コンビニのビニール袋、缶コーヒーなど様々なゴミをかき集めていく。
おっエロ本だ。
植え込みの隙間にお宝を発見した。詩歌は見てない。チャンスだ。
箒を器用に使い、ページをめくる。
「なになに、熟れた悩殺BODYが……」
「……何してるんですか」
「こっちくんの早えよ!」
涙声だった。若き青年のロマンをよくも。
「……変態ですね。彼女さんが悲しみますよ」
「彼女は彼女だ。エロ本はエロ本だ。別腹だよ、ほら、女の子も言うだろ? デザートは別腹って」
「言いませんよ」
言うだろ! サークルのちょっとポッチャリ系の女の子が言ってたよ!
とまあ一悶着あって。
「詩歌隊長! 終わりました!」
「わかりました。あとは自分でやっておくので大丈夫です」
「えええええ!? 教えてくれる流れかと思ったよ!」
「今の会話のどこにそう思える要素があったんですか」
付け入る隙が無いな。だいぶ昨日ので警戒されているらしい。
「……詩歌」
「……なんでしょうか」
詩歌の目を見る。綺麗な瞳だ。
朱がかかった、鳶色。不思議と引き込まれそうになる。
「彼女はいないよ」
「聞いていません」
そう興味なさそうにこたえながら、彼女が目を軽く擦ったのを俺は見逃さなかった。
――興味はあるが、それを悟られまいとごまかしているな。
詩歌の眉は、俺との会話で二度上がった。
それは無意識化での興味のサイン。
目を擦るのには、誤魔化し、嘘つき、様々な解釈がある。
詩歌の声のトーン、抑揚、息遣い、表情から察するに、ほぼ間違いあるまい。
彼女は、俺に興味を抱いている。
「ああそうか、悪かった。勘違いされたままじゃ嫌だと思って」
こんな能力、なければよかった。
嫌われている、と信じ込めれば救われたのか。
「なにを勘違いするんですか」
紅潮した頬。こちらを責めるような眼。
押し倒したい衝動に駆られながら、ふざけるように。
「いや、彼女いるのにエロ本に興味津々だと思われたら……」
「そっちですか!」
じゃあ、どっちのことよ。というのは意地悪すぎるのでやめた。
◆
詩歌は俺が後ろで見ている分には特に何も言わなかった。
入り口扉を綺麗に拭き上げ、照明に薄くかかった蜘蛛の巣を、箒で器用に溶かす。
足元の煉瓦の部分に水と薄めた洗剤をかけ、ガム痕、足跡をデッキブラシで擦る。
水切りゴムで粗めに煉瓦の水分を切り、モップで仕上げ拭きをする。
一挙手一投足に無駄がなく、洗練されていた。時間にして十五分程か、ありえない密度の作業が詰め込まれていた。
「……すごいな」
「毎日やってれば誰でもできます。扉、開けてもらえますか」
詩歌の両手はバケツとモップでふさがっていた。
あれ? 手伝ってほしいって言ってる?
「お安いご用だ!」
なんかテンション上がってきた。
はしゃぐ俺を見て詩歌が溜息をついていた。
おい、傷つくからやめろ。
「私は道具を片付けてきますので、着替えと手洗いが終わったら、客席テーブルの拭き掃除をお願いします」
しかし、これは大きな進歩だ。
詩歌が俺に仕事を振ってくれた。
「了解だ!」
「あと、そのキャラ不愉快なのでやめてもらえますか」
「はいわかりましたすいません」
今機嫌を損ねてはならない。
そそくさと更衣室に向かう。
入り口からは、客席の左側に従業員作業スペースがある。
サービスエリアの奥にバックヤード、その奥に店長室兼控室。
その中の小さなスペースが更衣室だ。
◆
BYに出たところでそいつはいた。
「……おまえ誰?」
ヤンキーだ。ヤンキーがいた。
金髪でロンゲでウンコ座りでタバコをふかしている姿はどうみてもヤンキーだった。
しかしヤンキーは漆黒の制服を着ていた。
ああ、こいつ、従業員だ。
「お初にお目にかかります。片倉恭平と申します。昨日より、このアザレアカフェの店長として着任させていただきました。どうぞよろしくお願いします」
とっさの判断で自己紹介ができた俺は褒められてもいいと思う。
知ってるなら、詩歌教えてくれよ!
「榊和人だ」
えっ、自己紹介終わり?
「てめえが新しい店長か、噂は聞いてるぜ。とんだ若造じゃねえか」
ああ、こういうキャラでしたか。とても、面倒くさいです。
「は、はい。若輩ではございますが、精一杯頑張ります」
「ちっ、気に食わねえ」
気に食わねえのはこっちだよ。
とても、先行きが不安だった。