四話「泡沫の夢をかなえ」③
控室で着替えを済ましていると、ランチを終えた早広と榊が入ってきた。
榊と目が合う。お互いに挨拶を交わす。
「ありがとな、店長」
「こちらこそだ」
短い言葉に万感がこもる。死線をくぐり抜けたからか、えも言われぬ思いがあった。
しかしこいつにも謎は残る。何故あの場で昏倒していたのか。あの場の血痕は誰のものなのか。
すべての疑問に応えるように、彼は言った。
「店長、携帯鳴ってるぜ」
「ああ、少し席を外す、悪い」
もちろん鳴ってなどいない。
しかし俺から離れた早広、着替え中の詩歌には真贋を見ぬくことはできない。
バックヤードに出た。遅れて本当にメールが届く。
――二十三時に、躑躅駅4番出口に。
文面はそれだけだった。全てを察した。
返信はせずに控室へ戻る。榊と眼は合わせない。
早広は飲みものを淹れているのか、席を外していた。
「榊さん、ありがとうございました。ディナーは私がやります、今日はもう上がってください」
「いいのかよ、瑞原さんもおっさんにボコられてボロボロだし、店長もナイフで切られてなかったか?」
「……問題ない、このまま勤務できるよ、ありがとう」
榊は嘆息し、こう告げる。
「実は親方が結構切れててさ、もうカンカンなんだわ。悪い、今日は甘えて帰るわ」
「ああ、すまなかった、ありがとう」
そういって榊は開いた更衣室に潜り込む。
即座、詩歌と目があった。彼女も違和感に気づいた顔をしていた。
――おかしい。
小さく芽生えた違和感。
それはどんどん大きくなってきて。
「店長」
「……あ、ああ。お疲れ様」
「本当に大丈夫か。心ここにあらず、といった感じだぜ」
「気のせいだよ、あとはまかせろ、榊」
いつの間にか着替え終わっていた榊と言葉をかわす。
榊は訝しげに、それでも店を出て行った。俺を心配するような素振りを見せて。
ああ、仲間を信じるのでは無かったのか。
しかし。
脳裏に響くのは。
――自分以外の誰も信じては駄目。疑って、疑って、疑って。汚く、醜悪に、貪欲に、生き残りなさい。あなたは死んではいけない人なのだから。こんなところで決して朽ちてはだめ。
夢で聞いた少女の声。
間違いない、俺はあの娘とどこかで――。
「お疲れ様でした! 榊さん、帰っちゃいましたよう。店長、二杯飲めます?」
戻ってきた早広の屈託ない笑顔。
手元のトレンチには湯気香るカップがよっつ。
……ディナーまではまだ長い。
少し、一服するか。
「ああ、いただくよ。いつもありがとう」
ああ、この笑顔までも疑わなければならないのか。
◆
思えば何も解決していなかった。
詩音と郁夫はどこへいったのか。
俺が早広と詩歌を安全圏まで連れて行く際、あの場で何が行われていたのか。
そして、榊はどこで、なにをしていたのか。
思えばあいつが助けに来たのは、終盤も終盤、そこまでに絶体絶命のピンチは幾度もあった。
準備に手間取ったのかと、思った。
何かあった時の証拠のフィルムを、避難させてきたのかと。
しかし、榊は知っていたのだ。
俺が、ナイフで、斬られたことを。
そして、その後の詩音の言葉も聞いているはずだ。
俺はこの国に存在しない人間であり、六年前に死んでいる、と。
思えばふたりとも物分かりが良すぎている。
なぜ、警察が介入しないのか? 俺の言葉ひとつで通報をしていない?
そんなわけがあるか。ここまでの非日常を越えて、それはない。
やはり、”片倉”の介入があるのだ。
警察まで抱き込んでいるか。
二人に脅しをかけているか。
もしくは。
榊と早広は、あらかじめこの状況を説明されていたか。
温かいチャイが喉を潤す。
しかし心は冷えたままだった。
「……店長」
「どうした?」
「少し、お話があります」
沈黙を破ったのはしかし、早広だった。
逡巡するように、躊躇するように、後悔するように。
詩歌を助けて、と俺に言ったあの日と同じ表情をして。
それを受けてか、傍らの詩歌は俺と目を合わせてこういった。
「私は外に出てきますので、どうぞごゆるりと」
「詩歌ちゃん、すみません」
「大丈夫ですよ、終わったら、メールしてくださいね」
詩歌はそう告げると、控室から出て行った。
残るは俺と、早広。
しかし彼女の口から出たのは、俺の予想を超える現実だった。
「……店長。いえ、片倉恭平さん。どうか私の友達を助けてもらえないでしょうか」
「……は?」
真剣な懇願に面食らいながら、二の句を返そうとした時。
早広は被せるように続けた。
「――”選別”の生還者様。地獄はまだ終わっておりません。次なる試練は拉致された私の親友を命あるうちに、助け出すことです。タイムリミットは三日間、それがあなたに残された猶予期間であり、彼女の命のリミットです」
声は、嗚咽で震えていた。
顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「――それでは、第二の試練を初めさせていただきます。”片倉の王”となるべく。邁進してくださいませ」
「早広おおおおおおおおお!」
強く肩を揺する。
平静でいられるわけが無かった。
早広は涙に濡れた瞳で、俺のことを憎むように。
「あなたが、あなたがこの街に戻ってきて、全てが狂いだしたんです。詩歌ちゃんは虐待され、私の親友は殺されかけているんです。なんなんですか”選別”って。”片倉”って。私達に何の関係があるんですか……」
最後の方は言葉になっていなかった。
強い強い憎しみだけがそこにあった。
俺はもう、何も言えなかった。