三話「アザレアの花言葉」㉒
ようやく! 30話目です!
六万字まで来ましたー!
次は十万字目指して頑張ります!
状況は最悪であった。
燃え盛る炎と熱に、部屋の唯一の出口は塞がれていた。
今となっては推察することしかできないが、おそらく畳という畳、壁という壁に揮発性の燃料が染み込ませてあったのだ。
音と光によって、部屋の外の惨状も伝わってくる。
「こいつはやべえわ……」
榊が歯噛みする。
ふらつきながら立とうとする彼を制止し、低い姿勢を促す。
火災の時に真に憂慮すべきは炎でなく、煙だ。
煙に含まれる一酸化炭素は、血液中のヘモグロビンに異常な速度で結びつき、酸素の吸入を阻害する。
結果、酸素不足により脳細胞は正常に機能しなくなり、意識混濁、昏倒を引き起こす。
そうなってはもう、迫り来る火の手から逃れる術はないのだ。
上着を脱いでハンカチ代わりに口に当てる。
榊は厚手のニットカーディガン。おれはジャケットと多少不安は残るが、無いよりマシだ。
「姿勢を低くして進め。一気に突っ切るぞ」
「突っ切るって、この炎の中をか……?」
「他に方法はない。時間がたつごとに、状況は刻一刻と悪化していく、判断は早い方がいい」
白く立ち上っていた煙は徐々に黄ばみ、もはや猶予はない。
これが黄色から黒煙になってしまうと、もうアウトだ。
視界は狭まり脱出を阻害され、生きたまま炎に巻かれる羽目になる。
「……わかった店長。どっちが先に行く?」
「言い出しっぺは俺だ。俺から行くが、お前は手を握れ。脱出経路は頭に入れてある」
こうなる事も想定のひとつにはあった。
一刻を争う事態のため道具は一切持ってこれなかったが、庭先のホースで服を濡らす時間くらいはあった。
榊を見る。シャツとチノパンといったシンプルな服は、先ほどの液体によりぐっしょり濡れていた。
「榊、まさかそれ、ガソリンじゃないよな……」
「違げえよ! どんな自殺志願者だ! ……水だよ水、スタンガンの相打ち覚悟でぶっかけたんだが、まさかこんな形で役に立つなんてな」
「馬鹿だろお前……」
思わず苦笑いするが、実際はそんなに悪くない。
スタンガンの電流というのは、対象に触れていたとしても自分に流れ込んでくることはない。対象の体内の水分のほうを、電気が好むためだ。
しかし、お互いが極端に水に濡れていれば話は違ってくる。
通常、そのような使用は想定していないが、使用者にも感電の可能性があるのだ。
自分の危険を顧みない、愚策だった。
俺達を守るため、彼はその策を選んだのだ。
胸に温かいものがこみ上げてきた。
「店が潰れたら困るんだよ、生活できねえだろ」
「お前、現場があるじゃん」
「格好つけさせろよ! お前いつも一言余計なんだよ!」
榊がわめく。もう元気みたいだな。
さて、ふざけている場合ではない。万が一にそなえ、早広にメールを送っておいた。
即座着信の嵐。すまない、心配をかけてばかりだ。
電源を切り、榊と向き合う。
さあ、脱出開始だ。
「……行くぞ!」
「おう!」
手を握り、前傾姿勢のまま、呼吸を止め走る。
炎がちりちりと肌を焼く。構わない、突っ切る。
走る。走る。
部屋を出て右。
廊下をまっすぐ。
玄関はうねる炎に阻まれていた。
こっちは無理だ。
右手に襖。
あいにく両手がふさがっている。蹴破り、奥へ。
呼吸が苦しくなってくる。
もう少しだ。
先ほど詩音と相対した部屋へ出る。
庭が見えた。
ラストスパートだ。
月光。
アザレアの深緑。
地面をじゃり、と踏みしめる。
「脱出おめでとう、片倉恭平くん」
居る筈のない人が、そこに。
後ろを振り返る、ぜえぜえと息を吐く榊。
畳に広がる血液。
炎に巻かれる詩歌の母さん。
違和感はずっとあった。
なぜ郁夫は何もしてこなかった。
演技をするメリットはなんだったのか。
そうして、詩音は。
自宅を燃やす事こそが、彼と彼女の狙いだったのか。
違う。
六年前の悲劇は、まだ何も終わっちゃいない。
最初から、仕組まれていたのだ。
俺と詩歌の再会も。
この、シナリオも。
「片倉……郁代……!」
怒気をはらませ、眼前の叔母を見上げる。
醜悪な笑みが、そこにあった。
全てを見下す、王者の余裕がそこにあった。
全ての元凶が、そこにいた。
どうみても、榊ルートです。
本当にありがとうございました。