三話「アザレアの花言葉」㉑
「店長、ここまでで、だいじょうぶ、です」
瑞原家から数件離れた路地で、唐突に早広がそう言った。
頬は少し赤く、冬空の中、彼女の吐く息は白く空気を濁らせていた。
表情を見て悟る。
俺は今早広の背中と腿に手を回し、あまつさえ彼女の顔は俺の首元にある。
仕方ないとはいえ、異性には無粋な距離だった。
改めて意識すると、早広はとんでもなく可愛い。
肩口で切りそろえた栗色の髪が冬風に揺蕩うと、淡い香りが鼻孔をついた。
微かに吐息がかかる。首筋に触れたそれは、一瞬でも気を許せば、理性が飛びそうな、そんな魅力を持っていた。
長い睫毛。そこから覗く宝石のような、琥珀色の瞳。
心まで吸い込んでしまうかのような、その双眸に、釘付けになる。
抱く体は、驚くほど軽い。まるで幻でも掴んでいるかのように。
それでいて、柔らかさ、触れた肌から感じる温もりは、本物だった。
ああ、いけない。
この緊迫した状況下でも、異性を魅了させる魅力が、彼女にあった。
「て、店長?」
腕に力を込めすぎていたことに気づく。
「あ……、すまない」
「い、いえ! ありがとうございました、も、もう! 大丈夫ですから!」
真っ赤になってぷるぷる暴れる早広。
傷つけないよう、そう、と降ろす。
「恭平くん……、えっちです……」
一連のやりとりを見ていた詩歌が、拗ねたようにぼそり呟く。
「いやいやいや! 不可抗力だから! もっと触りたいなんて思ってないから!」
「あはは……、店長、変態さんだったんですね」
ひどい、これは冤罪だ。
さあ、巫山戯ている場合ではない。
彼女たちはもう安全だ。
なら今、何をすべきか。
決まっている。
「榊を助けに行ってくる」
詩歌。早広を、頼んだ。
目で訴える、有無は言わせない。
「わかりました……、詩歌ちゃん、肩、貸してもらえますか」
早広は察したように、詩歌を促す。
しかし詩歌は動かない。
「……詩歌、あまり俺を困らせないでくれ」
「約束、してください」
鳶色の目から伝う雫。
詩歌は俺の手を握り、言った。
「生きて、帰ってきてください。二度と、私の前から、居なくならないでください……」
言葉尻はしぼみ、嗚咽が混じっていた。
ああ、もちろん。
「約束する、詩歌。だから、俺の帰りを待っていてくれるか」
「……はい」
しっかりと彼女の手を握り、そう言った。
今度は違えたりしない。決して。
◆
再び舞い戻った瑞原家。
玄関口は驚くほど、静かだった。
腐臭だけは変わらずそこにあって。
あるはずのものが、そこにはなかった。
「どういうことだよ……」
思わず一人呟く。
「どういうことだ!!」
そこには。
誰も。
いなかった。
郁夫も。
詩音も。
そして、榊も。
あるのは血だまりだけ。
これは、だれの血なのか。
庭先から土足で畳の部屋へ。
腐臭に思わず顔をしかめた。
「おばさん……」
虫がわいたそれにむかって、頭を下げる。
「戻ってきました。今度は、詩歌を守り抜きます」
一礼し、家の奥に向かい、走る。
台所、便所、バスルーム、玄関、押入れ……。
いない。
どこだ、榊。
部屋を開ける。
襖を開く。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
「榊……!」
いた。
部屋の中央。
彼一人、うずくまっていた。
急ぎ近寄る。
強烈な薬品臭。
有機溶剤の匂い。
強制的にかがされたのか、嘔吐した痕があった。
「榊! おい、榊! しっかりしろ! 意識はあるか!?」
軽く体を揺する。
呻き声。
よかった。意識はある。
しかし、朦朧とした目は焦点が合わず、酩酊しているのか、唇は震えていた。
微かに呟く。
「に、……に」
「どうした? よく聞こえん」
鼻を突くような、薬の匂い。
榊から香るは、やはり有機溶剤系の香りだ。
なら、さっきの匂いは……?
部屋に入った時、嗅いだ香りは一つじゃなかった。
違和感が強くなる。
郁夫は、薬物摂取をしていたのではないのだ。
詩歌を殴るのに手加減をしていたこと。
昏倒した演技をしていたこと。
榊と相対していた詩音を見ての笑み。
榊からのメールを思い出す。
――瑞原さんの親父が、仕事終わってそっちに向かう。両手になにか入ったビニール袋を持っている。
ベンゼンかシンナーの類だと思っていた。
しかし、ビニールに入れて運べるのか?
それほど容易に?
違う。
有機溶剤の匂いはブラフだ。
別の臭いをごまかすためのカモフラージュだ。
母親の死体の匂い?
ああ、それもあるだろう。
しかし、本命は。
「に、げろ、店長」
榊を抱え込んで伏せる。
顔はできるだけ地面へ。
榊の耳を両の手で塞ぎ、眼球を守る。
自分は大きく息を吸い、細く細く吐く。
畳に鼻が折れそうなほど目蓋をつけ、片耳は自分の左の二の腕で塞ぐ。
右の耳は榊の手を借りる。
肩口で挟むように、鼓膜を守った。
刹那。轟音。
この世の全ての光が収束したかのような閃光が、瞑った目から流れ込んでくる。
肌を焼くような熱気。
ガラスの破砕音。
続けて障子が軋む音。
地面が揺れる。
ありとあらゆるものを破壊しつくす轟音と熱波。
瞬時、音が止まる。
鼓膜が破れたのかわからないが、あたりは静寂に包まれた。
しかし熱気がそれを錯覚だと告げる。
ちりちりと肌が焦げるような激痛。
痛みに耐え、ゆっくりと息を吐ききる。
目を開けた。
オレンジ、赤、朱。
ゆれる空気と熱。
ありとあらゆるものが燃えていた。
遅れて失っていた音が戻ってくる。
パチパチ、という無慈悲な熱の声。
「ガソリンか……」
おそらくはこの爆発、それだけではあるまい。
知識のない俺にはそう推察することしかできなかった。
ふらつく榊を揺り起こす。生きてるのか、こいつ。
「あちい……、死ぬ……」
ようし、無事だ。
「おい、脱出するぞ。そろそろ店に戻らないとオープンが間に合わん」
「正気かよ……」
呆れたような言葉は、しかし先程よりは力強く。
俺達は手を取り合った。