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夢幻泡影のアザレアカフェ  作者: ナナカセナナイ
クーデレ美少女 瑞原詩歌ルート
29/56

三話「アザレアの花言葉」㉑

「店長、ここまでで、だいじょうぶ、です」

 瑞原家から数件離れた路地で、唐突に早広がそう言った。

 頬は少し赤く、冬空の中、彼女の吐く息は白く空気を濁らせていた。

 表情を見て悟る。

 俺は今早広の背中と腿に手を回し、あまつさえ彼女の顔は俺の首元にある。

 仕方ないとはいえ、異性には無粋な距離だった。

 改めて意識すると、早広はとんでもなく可愛い。

 肩口で切りそろえた栗色の髪が冬風に揺蕩うと、淡い香りが鼻孔をついた。

 微かに吐息がかかる。首筋に触れたそれは、一瞬でも気を許せば、理性が飛びそうな、そんな魅力を持っていた。

 長い睫毛。そこから覗く宝石のような、琥珀色の瞳。

 心まで吸い込んでしまうかのような、その双眸に、釘付けになる。

 抱く体は、驚くほど軽い。まるで幻でも掴んでいるかのように。

 それでいて、柔らかさ、触れた肌から感じる温もりは、本物だった。

 ああ、いけない。

 この緊迫した状況下でも、異性を魅了させる魅力が、彼女にあった。

「て、店長?」

 腕に力を込めすぎていたことに気づく。

「あ……、すまない」

「い、いえ! ありがとうございました、も、もう! 大丈夫ですから!」

 真っ赤になってぷるぷる暴れる早広。

 傷つけないよう、そう、と降ろす。

「恭平くん……、えっちです……」

 一連のやりとりを見ていた詩歌が、拗ねたようにぼそり呟く。

「いやいやいや! 不可抗力だから! もっと触りたいなんて思ってないから!」

「あはは……、店長、変態さんだったんですね」

 ひどい、これは冤罪だ。

 

 さあ、巫山戯ている場合ではない。

 彼女たちはもう安全だ。   

 なら今、何をすべきか。

 決まっている。

「榊を助けに行ってくる」

 詩歌。早広を、頼んだ。

 目で訴える、有無は言わせない。

「わかりました……、詩歌ちゃん、肩、貸してもらえますか」

 早広は察したように、詩歌を促す。

 しかし詩歌は動かない。

「……詩歌、あまり俺を困らせないでくれ」

「約束、してください」

 鳶色の目から伝う雫。

 詩歌は俺の手を握り、言った。

「生きて、帰ってきてください。二度と、私の前から、居なくならないでください……」

 言葉尻はしぼみ、嗚咽が混じっていた。

 ああ、もちろん。

「約束する、詩歌。だから、俺の帰りを待っていてくれるか」

「……はい」

 しっかりと彼女の手を握り、そう言った。

 今度は違えたりしない。決して。


 ◆


 再び舞い戻った瑞原家。

 玄関口は驚くほど、静かだった。

 腐臭だけは変わらずそこにあって。

 あるはずのものが、そこにはなかった。

「どういうことだよ……」

 思わず一人呟く。

「どういうことだ!!」

 そこには。

 誰も。

 いなかった。


 郁夫も。

 詩音も。

 そして、榊も。


 あるのは血だまりだけ。

 これは、だれの血なのか。

 庭先から土足で畳の部屋へ。

 腐臭に思わず顔をしかめた。

「おばさん……」

 虫がわいたそれにむかって、頭を下げる。

「戻ってきました。今度は、詩歌を守り抜きます」

 一礼し、家の奥に向かい、走る。

 台所、便所、バスルーム、玄関、押入れ……。

 いない。

 どこだ、榊。

 部屋を開ける。

 襖を開く。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


「榊……!」

 いた。

 部屋の中央。

 彼一人、うずくまっていた。

 急ぎ近寄る。

 強烈な薬品臭。

 有機溶剤の匂い。

 強制的にかがされたのか、嘔吐した痕があった。

「榊! おい、榊! しっかりしろ! 意識はあるか!?」

 軽く体を揺する。

 呻き声。

 よかった。意識はある。

 しかし、朦朧とした目は焦点が合わず、酩酊しているのか、唇は震えていた。

 微かに呟く。

「に、……に」

「どうした? よく聞こえん」

 鼻を突くような、薬の匂い。

 榊から香るは、やはり有機溶剤系の香りだ。

 なら、さっきの匂いは……?

 部屋に入った時、嗅いだ香りは一つじゃなかった。

 違和感が強くなる。


 郁夫は、薬物摂取をしていたのではないのだ。

 詩歌を殴るのに手加減をしていたこと。

 昏倒した演技をしていたこと。

 榊と相対していた詩音を見ての笑み。

 榊からのメールを思い出す。


 ――瑞原さんの親父が、仕事終わってそっちに向かう。両手になにか入ったビニール袋を持っている。


 ベンゼンかシンナーの類だと思っていた。

 しかし、ビニールに入れて運べるのか?

 それほど容易に?


 違う。

 有機溶剤の匂いはブラフだ。

 別の臭いをごまかすためのカモフラージュだ。

 母親の死体の匂い?

 ああ、それもあるだろう。

 しかし、本命は。


「に、げろ、店長」

 榊を抱え込んで伏せる。

 顔はできるだけ地面へ。

 榊の耳を両の手で塞ぎ、眼球を守る。

 自分は大きく息を吸い、細く細く吐く。

 畳に鼻が折れそうなほど目蓋をつけ、片耳は自分の左の二の腕で塞ぐ。

 右の耳は榊の手を借りる。

 肩口で挟むように、鼓膜を守った。

 

 刹那。轟音。

 この世の全ての光が収束したかのような閃光が、瞑った目から流れ込んでくる。

 肌を焼くような熱気。

 ガラスの破砕音。

 続けて障子が軋む音。

 地面が揺れる。

 ありとあらゆるものを破壊しつくす轟音と熱波。

 瞬時、音が止まる。

 鼓膜が破れたのかわからないが、あたりは静寂に包まれた。

 しかし熱気がそれを錯覚だと告げる。

 ちりちりと肌が焦げるような激痛。

 痛みに耐え、ゆっくりと息を吐ききる。

 目を開けた。

 オレンジ、赤、朱。

 ゆれる空気と熱。

 ありとあらゆるものが燃えていた。

 遅れて失っていた音が戻ってくる。

 パチパチ、という無慈悲な熱の声。

「ガソリンか……」

 おそらくはこの爆発、それだけではあるまい。

 知識のない俺にはそう推察することしかできなかった。

 ふらつく榊を揺り起こす。生きてるのか、こいつ。

「あちい……、死ぬ……」

 ようし、無事だ。

「おい、脱出するぞ。そろそろ店に戻らないとオープンが間に合わん」

「正気かよ……」

 呆れたような言葉は、しかし先程よりは力強く。

 俺達は手を取り合った。 


       

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