三話「アザレアの花言葉」⑲
◆
詩歌の顔を見ることができなかった。
聞かせたくはなかった。
だが、事実だ。
夢幻泡影の危うい均衡の日常が、ただ、崩れ落ちたまで。
自分には過ぎたほどの望みだった。
帰って来るべきではなかったのだ。
逆らえない叔母の指示であり、仕方はなかったとはいえ。
ただ、一目見たいと思った自分を呪う。
「恭平くん」
詩歌だった。
唇は震え、表情は青白い。
なぜ、とその顔が語っていた。
しかし、彼女は。
「わたしは、あなたを信じる」
凛、と。
彼女は言った。
鳶色の瞳を潤ませて。
「あなたは戻ってきた。わたしは、その現実を信じる」
俺を見つめた。
――馬鹿野郎。
違うだろう。恭平。
お前は、誰を助けに来たんだ?
「詩歌」
彼女に告げる。
「俺は、お前を守る」
思いの丈を。ただ。
それだけだ。
「あああああおうえええええええ」
醜悪な声。
えづく詩音。
「うあああああ気持ちわりいいい、なんだよなんだよおおお! お前ら気持ち悪いよおおおおおおおおおおおお!」
わからないだろう、お前には。
絶対に、この思いはわからない。
全身に力が漲っていくのがわかった。
痛みはとうに消えていた。
「反撃開始だ、詩歌」
「はい」
万感の思いを込めて。
短い言葉だが、確かに心は通じ合った。
なによりそれが、嬉しかった。
状況を確認する。
眼前にはダガーを構えた詩音。
左手にスタンガンを持った郁夫。
そして、倒れた早広。
スタンガンは電池式だろうか。何回動作した? 改造で電力を上げているのなら、もう切れているか、残り少ないはずだ。
しかし、わかったところで、試すのは危険すぎた。
こちらは丸腰という事実が、圧倒的なまでの劣勢を作り出していた。
庭先側に俺達は立っている。
逃げるという手もあったが、早広が倒れた今、それもできない。
相打ち覚悟で一人を潰すか。
だめだ、危険を通り越して、無謀だ。
もう詩音は遊ぼうとしていない。
殺意が眼に宿っていた。
左手の郁夫を見る。
その眼にはなにも映していない。
――おかしい。
違和感に気づく。
先ほどこいつは有機溶剤を摂取していたのではなかったのか。
なぜこうも平然と演技できた?
酩酊、陶酔、幻覚。
こうも容易に抗えるものなのか。
詩音の腫れ上がった頬を見る。
あきらかに異常者に加えられた暴行の痕だった。
しかし、あれだけの殴打を受けて……?
「おい、詩歌」
「……はい?」
「傷、大丈夫か」
「痛みますが、なんとか」
声に苦痛の色が見えるが、わりかし平然と彼女はそういった。
ああ、異常者も、演技か。
この状況に、とても作為的なものを感じた。
この気付きが、何か状況を好転させるわけでもないのだが。
違和感は大きく育っていった。
「恭平くん」
今度は詩歌から。
彼女の眼は、ある一点を。
ハンマーだ。
釘打ちには大きすぎるサイズ。
それが、部屋の隅に転がっていた。
思い出す。
早広が、詩音を倒した時、彼女の手からこぼれ落ちたのだ。
「ああ、俺も今気づいた」
「私が囮になります。恭平くんはその間に」
「駄目だ」
そんなことを言っている場合じゃないのは、判っていた。
ただ、もう彼女を傷つける可能性を選択したくなかった。
抗議の声を塞ぐように、続ける。
「逆で行こう、詩歌。俺なら素手でも奴らを牽制できる。その間にお前はハンマーを奪取しろ。後は挟撃で各個撃破だ」
「だめです、危険です……」
顔を歪ませ、本当に心配そうな顔でそういう。
心が揺れそうになる。
彼女の手を引いて、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
――駄目だ。早広は死ぬ。
わずかに残った理性で、拒否する。
早広は、素性も開かせぬ俺の頼みを聞き、俺の穴だらけの作戦を信じ、危険を顧みず、突入してきたのだ。
見捨てることはできない。
損得ではない、人としての仁義に反する。
これだけは、譲れない。
「聞け詩歌、このままじゃ全員死ぬ。お前を助けに来てくれた早広もだ」
感情を殺し、そう言う。
正直、無傷で押さえ込める自信は無いのに。
自らの命を賭して、二人を守ろうとしていることを、できるだけ悟られないように。
心を凍らせて。
「お前が特攻してみろ、返り討ちにあって全員死ぬのがオチだ馬鹿野郎。俺なら押さえ込める」
嘘を。
彼女たちを守るための嘘を、つく。
「正直女子供なんて足手まといなんだが仕方ない、俺は生きて帰りたいからな。作戦に加えてやるよ」
わざと、冷たく。
突き放すように。
「五秒後に決行だ。文句は言わせない。俺が突っ込む」
四秒前。
三秒前。
「恭平くん」
二秒前。
突如、緊迫感のない、涼やかな声。
詩歌の、聞き慣れた声。
「嘘つき、意地悪。いっつも私をからかって」
一秒前。
何を、言ってるのか。
馬鹿、もう行くぞ。
「だから……」
ああそうか、大嫌いなんだろ。
聞き飽きたよ。そう振る舞ってきたからな。
詩歌は俺に微笑む。
滅多に見せない笑顔で。
白い歯を見せて。
「恭平くんが、大好きなんです」
静寂を切り裂くような、声。
「な、何を」
俺の疑問に応える声は無かった。
走りだしたのは詩歌だった。
唯一の武器であるハンマーではなく、郁夫と詩音に向かって。
「……馬鹿!!」
自殺行為だ。
止められなかった。
丸腰でかなうわけがない。俺の嘘はバレていたのだ。
「ああああああああああ!」
絶叫し、追う。
駄目だ。
追いつかない。
「さよなら、詩歌ああ。死ねええええええ!!」
詩音が振り上げたダガーは。
詩歌の首筋に吸い込まれるようにして。
飛沫が散る。
「詩歌あああああああああああああ!!」
間に合わなかった。
俺が詩歌を殺したのだ。
「ああああ、うあああああああ!!」
絶叫。慟哭。
暗転する視界。
絶望が、俺を襲う。
唯一の希望が、守るべき者が、斃れた。
俺の生きてきた意味が、ついえたのだ。
涙が、止まらなかった。
隙に、ハンマーを拾い、反撃すべきだ。
早広だけでも、助けるべきなのだ。
そう思うのだが、身体が、動かない。
とうに限界など迎えていたのだ。
彼女を守るという気力だけで立っていた。
膝をついた。
心が、折れた音がした。
「ごめんな」
誰に向けての言葉なのか。
贖罪の資格など、ありはしないというのに。