三話「アザレアの花言葉」⑯
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身体の弱い詩織は、外であまり遊べなかった。
このアザレアの庭で子供の頃駆け回ったのは、俺と、詩歌と、詩音だった。
瑞原家の長女である詩音は、少し変わった子供だった、と記憶している。
はじめは、些細な悪戯だったのかもしれない。
詩音が、詩歌にしていたのは、子供同士のじゃれ合いにしては陰険な嫌がらせだった。
かくれんぼで、詩歌が鬼の時、そのままほっぽり出して帰ったり。
詩歌が大切にしていた日記を燃やしたり。
遊んでいるときに、急に池に突き落としたり。
しかし、その時から詩歌は、あまり感情を表に出さない子供だった。
何をされても、慌てるまでも、泣くまでもなく、ただただ無感動に、課せられたものを処理していった。
その詩歌の様子に業を煮やしたのか、詩音の嫌がらせは次第にエスカレートしていった。
見てられなくて、詩音の腕を掴み、やめさせようとした事があった。
彼女が大切にしていた、朝顔を踏み荒らされそうになった時だ。
やめてくれ、と頼んだ。
しかし、彼女は嗤い、花を踏みつぶし、植木鉢をひっくり返した。
俺は叫んだ。
詩歌が毎日水をやっていたのを知っていた。
花が咲いた時、乏しい感情の隙間から嬉しさが滲み出ていた。
朝顔よりも綺麗な、笑顔だった。
ああ、やってしまった。
なぜ詩歌は無感動だったのか。
この姉がいるからだ。
詩音は、人が哀しむのを見て、喜びを覚える子供だった。
だから、詩歌は姉を退屈させようと、痛む心を殺したのであった。
まだ二桁の年齢にもいかぬ少女が、である。
そうした俺の感情を見て、詩音は方針を変えた。
今までは、俺の目の届かぬところで行っていた彼女への私刑を、全て、俺に分かる形にした。
結果的に、彼女が受ける仕打ちは更にエスカレートした。
俺は詩歌に泣いて詫びた。
すまない、俺のせいでお前が傷ついている。
当時は拙い語彙で、精一杯謝った。
詩歌は焦り、俺を慰めた。
私は大丈夫だから、と。
気にしないで、と。
詩歌は珍しく感情を出し、一生懸命俺を励ました。
情けなくも、とても救われた。
俺も詩歌の為に頑張る、と言った。
詩歌は顔を赤くし笑った。
ひと月ほどが過ぎた。
詩音も反応を無くした俺たちに飽きたのか、別の楽しみを探すようになっていた。
もう、三人で遊ぶこともなくなった俺たちは、詩歌と二人で遊ぶことが多くなり、そこにやがて、詩織も混ざっていった。
それからやがて、一年ほどが過ぎた。
自分の年齢が、両手の指を使っても数えられなくなる頃、ある事件が起きた。
町内には猫おじさんと呼ばれる人がいた。
いつも白いランニングと白い短パンで、小肥りの中年男性。
禿げ散らかした頭が印象的だった。
文字通り、猫を大量に飼っている、動物好きの変わったおじさんだった。
両親や、先生は、彼に近寄るのをあまり良い顔はしなかったが、俺と詩歌はよくおじさんの庭に遊びに行った。
このおじさんはいい人だと、本能的に分かっていたからだろう。
自慢じゃないが、俺も詩歌も、生まれて十数年で数限りない悪意に晒されてきた。
きっと無意識下で、自分に害を与える人を判断できた。
おじさんは、純粋なのだ。
信じても大丈夫。
俺と詩歌の共通見解だった。
その日も、詩歌と二人で猫おじさんの庭に遊びに行った。
最近の日課となっていた。
見渡す限りの、猫、猫、猫。
十匹、いや二十はいるだろうか。
猫と戯れる俺たちを、おじさんは優しく見守っていた。
詩歌も、自分にじゃれつく猫達に、顔をほころばせていた。
――動物は、嘘をつかない。
――自分を傷つけない。
猫おじさんは俺にそう言った。
――だからおじさんは動物が大好きなんだ。
猫おじさんには家族がいなかった。
庭に住まう猫達が、おじさんの家族の代わりだったのだ。
野良猫を世話し、捨て猫を拾っているうちに、いつの間にか、こんなに増えていったのだという。
猫は我が侭で正直だ。
少し、詩歌に似てるな、と思った。
優しく笑う詩歌を久しぶりに見た気がする。
俺も少し、楽しい気分になった。
ある日事件が起こった。
通学路から一本外れた路地。
そこに向かう赤いライン。
それが何かわからなかった俺と詩歌は、探検気分で路地裏へ入った。
――赤。
夥しい数の、赤い血だまりができていた。
ひとつじゃなかった。
ふたつ、みっつと血の海は広がっていた。
地獄だった。
ああ、思い出しても吐き気がする。
コンクリートに広がる紅色の上。
点々と、白いものが置いてあった。
運動会の玉入れみたいだな、と思った。
白玉と、目が合った。
その顔を俺は知っていた。
詩歌は隣で震え、息を飲んでいた。
そのまま、力尽きたようにへたり込んで、さめざめど泣きはじめた。
遅れて俺は白玉の正体を知った。
いや、すぐに分かってはいたのだろう。
ただ、現実を認識できなかっただけ。
十、いや二十か。
猫の頭部だけが、路地に散乱していた。
詩音の耳障りな嗤い声が、聞こえたような気がした。
誰かが通報したのだろう。
すぐに警察が来た。
駆けつけた警官が息を呑んだ。
新人と思しき若い隊員が嘔吐していた。
白髪の警官に俺たちは幾つかの質問をされた。
詩歌はとても喋れる状態じゃなかったので、俺が答えた。
犯人が俺たちじゃない事がわかると、すぐに解放された。
遅れて、猫おじさんが蒼白な表情でやって来た。
おじさんは、わなわなと崩れ落ちると、大声で叫んだ。
長い、慟哭だった。
俺は生きてきてはじめて、大人が泣くところを見た。
もう、人目をはばからず、わんわん泣くその姿に、俺もとても悲しくなって泣いた。
猫おじさんは、次の日、自宅の庭で首を吊って死んだ。
おじさんのまわりには、首のない猫たちがたくさんいた。
猫殺しの犯人はすぐに分かった。
詩音だった。
猫おじさんが飼っていた猫たちは、やはり、正規のペットではなかった。
保健所への手続きもしていなかったらしい。
大量殺傷の非常に残虐な事件だが、対象が動物の為に、罪状は器物損壊となった。
また、犯人が未成年であること、充分な証拠が無かったこと――本人は嗤いながら否定していた――そして、猫おじさんには家族も、身寄りもなく、誰も訴えなかった事で、この件は有耶無耶になった。
詩歌は、そして、その日から一切、笑う事が無くなった。
たまに、見せてくれた乏しい感情も、全く無くなった。
俺は決意した。
この子を一生掛けて守り抜くと。
彼女が再び笑える日まで、そばにいると。
しかし、六年前に起きた事件で、俺と詩歌は離れ離れになった。
しかし、俺は今、この街にいる。
この街へ戻ってきた。
そうして、詩歌と再び出会った。
彼女の姉、詩音とも六年ぶりに、再会した。
◆
眼前の敵を見る。
早広に組み伏せられた、身体。
詩歌とよく似た体つき。
しかし、決定的に何かを違えていた。
眼は死んでいなかった。
薬の効果だろうか、異様なぎらつきを持つそれは、俺に過去の恐怖を思い起こさせた。
まずい、全く感情が読めない。
所詮心理学は統計論だ。
こういう行動をする人は、こう思っていることが多い、というだけの話。
それを多元的な解釈、多要素からの分析で確実なものとするのが俺だ。
しかし、未だかつて、このような異常者とは相対したことがない。
心理学は異常者用の学問ではない。
対象は大衆なのだから。
突如、刹那、閃光。
弾ける火花と火花。
崩れ落ちる早広。
「早広!」
おそらく改造スタンガンのようなものを使ったのだ。
詩音の左手に黒いものが見えた。
早広は昏倒していた。
やられた。
しかし、有段者に関節を決められ、どうやって。
――瞬時、理解し、驚愕した。
詩音の右腕がありえない方向に曲がっていた。
おそらく、抜いた。
薬で痛みが麻痺しているのか。
それとも、驚異的な精神力か。
ただ、異常なだけなのか。
きっと、全部だ。
痛みで鈍くなっている身体が恨めしい。
「もう一人いたよなあ。どこいったんだよお」
榊、よくやった。
おそらく会話の隙をついて、姿を隠した。
……逃げたのではないと、思いたい。
――警察を呼ぶのは安易だが、それだけは絶対に阻止しなければならない。
信じるぞ、榊。
ここにいない仲間に祈る。
「遺言くらいは聞くぜええ、恭平くんよおお。
お前は最後に殺す。
まず私を投げた、この茶髪。
こいつを殺す。
両手両足切り落として殺す。
次に詩歌、お前を殺す。
まず私と同じでムカつく眼を潰す。
指を一本一本落とす。
腹掻っ捌いて、殺してやる。
最後に恭平くん。お前はやっぱり殺す。
二人が死ぬのを見せ付けてから、殺す」
榊は不在。
早広は気絶。
詩歌は意識朦朧。
俺は、まだ、身体が動かない。
「絶対絶命だな」
そう、つぶやく。
「終わり? あれ、遺言終わり? もういい? こいつ、殺すね」
晩御飯を待ちきれない子供のような無邪気さで、死刑宣告を済ます。
だが。
「……え、……あ」
呆けたような声は、しかし詩音の口から出たものだった。
遅いよ。
今頃気付いたのか。
驚愕に目を見開く詩音を見据える。
瞬時に勝利を確信した。
当然、此処までは想定内だった。
「チェックメイトだ。詩音」
嘲るように、俺は言った。