三話「アザレアの花言葉」⑮
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「往生際が悪いですよ、恭平くん。動けないでしょう、そういうふうに殴りましたから。
妹を見捨てて、のうのうと生きてるなんて、烏滸がましいんです」
そう、嘲るように、彼女は言う。
拳大のハンマーは郁夫の仕事用具だろうか。
動けない人間にとどめを刺すには、充分すぎる殺傷能力だろう。
ぼやけた視界が少し戻る。
震える唇で、はっきりと呟いた。
「榊。もういいぞ」
アザレアの影から、気だるそうな返事が聞こえた。
寒さに震えるようにして、しかし眼は詩歌を捉えていた。
整った顔立ち。
肩口まで広がる金髪。
眉を隠すような前髪。
触れるもの全てを威圧するような瞳。
榊、和人。
手にはビデオカメラ。予備のICレコーダー。
何を写しているのかは明白だった。
「オーケー。ばっちりだ。メモリギリギリだったわ」
あくまで飄々と。
普段と変わらぬトーンで。
「だから高いの買えって言っただろ」
「うるせー、給料上げろブラック経営者」
悪態をつき合う。
しかし、今は榊がこの上なく頼もしかった。
当然無策で来たわけではない。
限られたメモリの中、榊に下した指示は二つ。
俺が郁夫を殴った直後を撮れ。
ただし、絶対に殴ったところは映すな。
榊は、何も言わず、頷いてくれた。
おそらく、彼の手元の機材には、彼女が俺を殴った姿がバッチリ映っている。
ただ、まあ問題はある。
「……でも、あなたは私の……父を、殴り、昏倒させました。私には過剰であろうと、自分の身を守る権利があります。あなたにとどめを刺したとしても、罪には」
ああ、そうだな。
お前の言うことはいつも正しい。
しかし、妹はもっと捻くれていたぞ。
「殴られたな、俺だって」
「そ、それは、父を襲撃したあなたが」
「違う」
彼女は聡い。
そこで、初めて自分の過ちに気づいた。
「き、恭平くん、まさか」
「ああ、夕方に、お前の親父に殴られてきたんだ。工場で。一方的に。痛かったぜ。だから、今、報復に来たんだ」
一つ目の準備。
彼女は俺を殺せない。
その土俵作りのため、躑躅工業まで足を運んだ。
言葉は選んださ。悪い方向でな。
心を読む俺にとって、対象の怒りを誘発させることも容易だ。
案の定、まあ、それは、ボコボコにされたが。
撤退にはかなり手間取って焦った。
ヤク中は相手にするもんではない。
ただ、これで、ただの過剰防衛。
同じ土俵だ、詩歌。
「……相変わらずイカれてますね、恭平くん。少し、妹を思い出しました」
ただ、彼女の表情に焦りは無い。
醜悪な笑みだけが浮かんでいた。
彼女がさも愉快そうに、口を開く。
「それが何だと言うんですか。私は、その事実を知りませんから。ただ、自宅に不法侵入した暴漢に対し、然るべき鉄槌をくだしたまでです」
文字通り、鉄槌か。
小洒落た真似をする。
ただ、彼女の言うことにも一理ある。
だから、警察を呼ばなかったのだ。
この件は内々で解決する。
警察の介入こそ、避けるべきだ。
俺は”立場上”とても不利になってしまう。
だから、彼女に気付かせてはならない。
警察を呼ぶことが最善だと、気付かせてはならない。
「おい」
「あら、命乞いですか。駄目です、許しません、死んでください」
「違う、受け身は、しっかりとれよ」
彼女の体が宙に浮く。
空をとぶように、情けなく浮いた体は、重力と、遠心力と、筋力によって、無慈悲に地へ叩き落とされる。
早広、叶。
彼女が柔道黒帯だったのは意外だった。
しかし、技の決まりを見て納得する。
惚れ惚れするような一本背負い。
敵が自ら地に伏すかのような流麗さ。
「……、……っ」
続く言葉は、言葉にならなかった。
受け身は満足に取れなかっただろう。
肺から漏れ出た息が、痛々しかった。
二つ目の準備。
早広には、俺と一緒に侵入してもらった。
俺は庭から。
早広は、もちろん、玄関から。
「どうや、って、入っ……」
苦しそうに呻く声。
力が抜けた手から、鉄槌が落ちた。
しかし、眼だけは異様にぎらついていた。
郁夫と、同じ目をしていた。
「開けてもらったんですよ」
早広は、淡々と語る。
今までに見たことのないような冷たい目で。
今までに聞いたことのないような冷たい声で。
静かに、早広は怒りを滲ませていた。
「もう、大丈夫ですよ」
そして、やさしく声を掛ける。
倒れて、殴られ。
”俺の横で”気を失っていた彼女に向かって。
「助けに、来ました。詩歌ちゃん」
「ありがとう、ナイスタイミングだ、早広」
彼女に礼を言い、見る。
早広に投げられ、痛みに呻く、それを。
本当に詩歌そっくりだった。
違うのは、醜悪な目。
違うのは、俺への殺意。
違うのは、可憐さ。
違うのは、純真さ。
違うのは、弱さ。
違うのは、愛しさ。
ああ、自分はこんなにも詩歌をよく見ていたのか。
見れば、全然違うのだ。
「みんな、来てくれたぞ。おまえの為にだ」
そっと頭を撫でる。
鳶色の目が開く。
「あ、恭平、く、ん……」
そうか、眼の色も違うな。
鳶色の可憐な瞳。
彼女は意識を取り戻す。
「な、んで……。ひどいこと、いっぱい言ったよ? なんで、助けに来たの……?」
「約束したからだ。お前を守ると」
六年前からの、俺の生きる意味。
それはこの腕の中の温もりだけだ。
「糞がああああ!! ああああ、鬱陶しいいいいい! だから、お前はカスなんだよおおお! 糞詩歌ああああああああああ!!」
緋色の眼がぎらつく。
やはり血は争えないのか。
郁夫そっくりの咆哮は。
しかし、詩歌そっくりの身体から。
「お姉ちゃん、もう、やめよう……」
詩歌が涙声で呻く。
声は悲痛の色をしていた。
「会うのは久しぶりだな」
俺は、しかと戦うべき敵の姿を視界に収める。
そうして、名前を呼んだ。
「瑞原、詩音。詩歌は、俺が貰う」
守るべき者の、姉、に向かって。
俺ははっきりと、そう伝えた。
まさかの三姉妹オチ
な、なんだってー(棒)