三話「アザレアの花言葉」⑭
仕事上がりの執筆が、癒やしの時間です。
走る。縁側に踏み込む、土足で、奴の眼前まで接近した。
虚ろな目に驚愕の色。
助走を込めた、全体重を右腕にかけ、殴った。
右腕に激痛。骨が折れているかもしれない。
かまわない。奴にそれ以上のダメージを与えられたのなら。
衝撃で部屋のおくまで転がる郁夫。
クリーンヒットだ。
圧倒的な先制が決まった。
「があああああ」
叫び声。激痛でのたうち回る獣は、怒りに身を震わせ、こちらを向いた。
殺意の奔流。
奴が俺に向けたのはまさしくそれだった。
詩歌に目をやる。
はだけた衣服から覗く痣が痛々しかった。
怒りで痛みは消えた。
「おおおおおおおおおお!!」
慟哭とともに、踏み込む。
正面より戦えば敗北は必至。
このまま畳み掛ける。
次は左手を壊す覚悟で殴る。
奴との距離、二畳半。
二畳。
一畳半。
衝撃。
脳天をかち割るような激痛。
「っか、は、っ」
意識が飛ぶ。
間抜けな声は、俺の口から出たものだった。
いや、声とすら呼ぶのも烏滸がましい。
肺に詰まった酸素が、勢い良く抜けただけだ。
今、何をされた……?
あと一歩というとこまで踏み込んだ。
左手を振りかぶったところで衝撃が来た。
足か、足を使ったのか。
しかし、奴を見た。
咆哮のあと、死んだように微動だにしない。
別に、殺してもいいと思った。
しかし、呼吸があることに少し安堵している自分もいた。
なら、俺は、誰に、何を、されたのか。
血に滲んだ視界が戻る。
ああ、そうか。
お前か。
お前なのか。
「詩歌……!」
自分が救う「はずだった」彼女の名を呼ぶ。
月光。
星明かり。
煌々と、揺蕩う黒。
爛々と、煌めく緋。
緋色の瞳には、殺意と失意。
幻想的な絵画には不釣り合いな、手に持った金槌。
そこから滴る血液。
俺の、血だった。
「そうかよ、……伝わらなかったんだな」
「ええ、わたしの思いはずうっと一緒よ。最初から」
ああそうだ。
彼女は気付いていただろう。
再会した時から。
俺が忘れていた。
しかし、彼女は忘れていなかった。
忘れたふりをし、俺と語らい。
忘れたふりをし、思い出したふりをして。
思い出したふりをして、傷ついて。
でも、俺の性格は彼女に筒抜けで。
救おうとしているのも、お見通し。
助けようとしているのも、お見通し。
哀しんでいるのも、お見通し。
怒りに震えているのも、お見通し。
今日、ここに来ることだって。
お見通しだったのだ。
会話は無い。
ただ。
ただ、彼女の表情が、雄弁に。
俺の愚かさを嘲るように。
語っていた。
六年前。
詩織を奪ったあの日から、彼女には俺への殺意しか無かった。
最低の父親。
唯一縋った母も他界し。
何に彼女は縋ったのだろう。
決まっている。
俺への憎しみだ。
「この時を、待っていた」
誰に告げるでもなく、ぼそりと彼女が言う。
ああそうか、郁夫は詩歌の父だ。
不法侵入した男が、父親を襲った。
娘は、抵抗し。
――偶然。
犯人を殺してしまった。
過剰防衛ではある。
ただ、それだけ。
なんなら、そこで転がっている郁夫に彼女自らとどめをさせばいい。
正当防衛にランクアップだ。
これこそ、彼女の用意したシナリオ。
ああ。
当然。
「お見通しだよ」
だから、二人も協力者が必要なのだから。
だから、警察の介入を阻止したのだから。
彼女の顔が歪む。
夜は、まだ終わらない。
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