三話「アザレアの花言葉」⑬
「店長、頑張ってください」
一筋の、光。
手を、優しく包む温もり。
「っっ、早広??」
馬鹿な。なんで来たのだ。
あれほど止めたのに。
俺の表情を見て、察したのか早広は申し訳無さそうに笑う。
「……ごめんなさい、店長が、少し、気になって」
「馬鹿野郎」
セミロングの茶髪を小突く。
ふわり、シャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
早広は泣きそうな顔で。
「ごめんなさいいい、でも、別れるときの店長、少し儚げで……、今にもいなくなりそうで」
「俺は消えない、絶対に」
そう伝える。
確信を持って言えないが、今はそれが最善のような気がした。
彼女はこちらを見上げ。
「みんなで、アザレアカフェで、笑いあいましょう。誰も欠けることなく、みんなで」
泣き笑いのように。そう言った。
もたもたしてられない。
騒ぎを起こせば警察が来る。
それは最後にしなければならない。
今、来られてはまずいのだ。
「店長」
「静かに、書斎を見ろ」
郁夫だった。詩歌の父が、書斎から出てきたのであった。
「ここにいろ、早広。何かあれば頼るから、今は任せろ」
榊には郁夫の監視を指示した。
今日が遅番であることは調べあげていた。
確かめたかったのは、腐臭の中の、あの匂い。
微かに、しかし強烈な存在感を持つ香り。
そこに不快感はなく、ただただ人を虜にする香り。
有機溶剤。
シンナー、またはその吸引方法からアンパンと呼ばれるそれは、工業地帯では日常的な香りである。
塗装に主に使用される溶剤であり、躑躅工業も例外ではなかった。
工場では手に入れるのも容易だ。管理責任者を置いておけば、まず問題なく使用できる。
詩歌の父が管理責任者というのだから、なおさらたちが悪い。
腐臭のなかに、なお圧倒的な存在感を持って立ち込めるそれは、書斎から。
おそらく、郁夫が持っていたビニール袋の正体だ。
ビニール中に、幾重にも重ねたポリ袋、そこに詰めていたのだろう。
郁夫の瞳孔は開ききっており、唇の端からは涎が走っている。
大柄な肩幅を揺らせ、ふらつき、脚つきは不安定だ。
その異常は、この距離からも、見て取れた。
俺は少なからず、動揺していたが、隣に佇む彼女は、平静としていた。
知っていたのだ、はじめから。
その葛藤はいったい幾程のものだったろうか。
唇は震え、それでも眼をそらさない。
「早広」
すう、と抱き寄せる。
何を感じるわけもなく、ただ、本能的にそれを選んだ。
「……あ」
彼女の体が震えているのがわかった。
無理もない。
あれは、地獄だ。
この世の光景ではない。
「……俺に、任せろ」
彼女の視界を隠すように。
抱きしめた身体は震えていた。
収まらない震えを止めるように、抱く腕は、強く。
「ああ、あああああああああああああああああああああああ」
呻き。
遅れてそれが、郁夫の口から出たものだと気づく。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおええええええええええええええああああああああああああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
意味のない言葉の羅列。
しかし、奴の異常性を認識するにはそれで充分すぎた。
「とう、さん、どうしたんですか」
呆けたように、詩歌が問う。
馬鹿、早く逃げろ。
「あ、ああ……。お、女やあああ」
昔友達に貸してもらったホラーゲームを思い出した。
ゾンビ蔓延る洋館から脱出するという、あれだ。
今の郁夫は、まさにゲームの中の、ゾンビだった。
そこに理性も、知性も、良識も、道徳も、尊厳も、慈愛も、全く無かった。
あるのは暴力にまみれた欲望。
瞬く間に詩歌は殴られ、組み伏せられていた。
衣服を破られ、白い肌があらわになった。
「え、あ、とうさん」
逃げろ。そいつはもう人ではない。
詩歌はしかし、逃げない。
「とう、さん、おちついて、もういちど、かあさんと、なかよく」
頬を張る音。
一回ではない。
何度も。
何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度 も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度 も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何 度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何 度も何度も何度も何度も 何度も何度も何度も 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
何度も。
詩歌は頬を打たれた。
「あああ、親孝行やあああ」
カチャカチャとベルトを外す音。
早広が息を呑む。
郁夫の顕になった下半身から醜悪な物が覗く。
奴が何をしようとしているのかは明白だった。
「や、やめ、て、ください、とう、さ」
こめかみに拳。詩歌の抵抗が止まった。
「奉公せい、詩歌」
殺す。
ああ。
こいつを。
殺す。
全身の血が沸騰する。
早広の静止も聞かず、俺は飛び出す。
「誰の従業員に手を出してやがる……! 糞野郎……!!」
声は、自分でも驚くほどの怒気をはらんでいた。
最近は、寝るか、呑むか、書くか。
それだけの生活です。
ただ、とても充実しています。