三話「アザレアの花言葉」④
三話長えよ……
「とはいっても、俺もたいしてあいつの事わかっているわけじゃねえ」
まだ薄暗い空。紫煙をくゆらせ、榊は語る。
「俺がここでバイトを始めたのは三年ほど前になる。瑞原さんとはその頃からの付き合いだ。当時俺は高校を出たばかりで十八歳。彼女は十七歳だったかな、高校は行ってなかったらしい」
「お前俺より年上だったのかよ……」
衝撃の事実だった。ちなみに詩歌と俺は同い年である。
榊は無視して、煙草をふかす。
「俺より少し遅れて入ってきた瑞原さんは、……あの容姿だ。すぐ先輩たちの色目に止まった。仕事はきちんとこなすし、覚えも早い。何より一生懸命だった。ただ、まあ、笑顔を全く見せなかったがな」
それには同意する。彼女から笑顔を奪ったのは俺だ。
「何人かは実際に告白したらしい。撃沈した、とよく先輩が控室で泣いてるのを見たよ。まあ彼女はよくあしらっていたと思う。特に問題もなく、一年、二年と過ぎた」
空は少し明るくなってきた。
「メンバーもだいぶ入れ替わり、早広もその頃に入ってきた。その時から少し瑞原さんの様子がおかしくなっていった」
空の色と反比例するように、話は重く、暗く。
「店にいてる時間が極端に長くなった。通常オープン三十分前に出勤するんだが、瑞原さんはいつも俺より早かった。俺が不審に思い、一時間、一時間半、と来る時間を繰り上げても、瑞原さんは俺より先にいた」
――まるで、何かから逃げるように。
「……半年前のある日、オープンしようと店に入ると、誰もいなかった。こんなことは初めてだったよ。
その日は休みだった店長を呼ぼうと思ったが、何か嫌な予感がしてやめた。
瑞原さんの携帯に電話をしても繋がらなかったから、契約書引っ張りだして、住所調べて、十分くらいの距離だったから、そのまま家まで行った」
榊は、苦いものを噛みしめるような顔をする。
「何度目かのインターフォンの後で、出てきたのは大柄の男だった。「うるさい」と怒鳴りつけられながら、理由を説明すると男は家の奥に消えた」
少し言い澱む榊。
「聞かせてくれ、俺は聞かなくちゃいけない」
背中を押すように、俺はそういった。
わかった、と目でそう言うように、榊は頷き、続けた。
「すぐ後に聞こえたのは、怒声と何かを投げるような音、何回か、その音は続いた。
俺は音を出しているものが何かを考えないようにしていた。何か、自分はとんでもないものに触れているのか、と思った。
遅れて、男が出てきた。
――兄ちゃん悪いな。うちの娘が寝坊してもうたみたいや。すぐたたき起こすから、先行っといてや。女の子には何かと準備ゆうもんがあるからのう。
そう男はカラカラと笑った。その顔が、何故かとても恐ろしく見えた」
煙草はすっかり燃え尽きていた。榊は舌打ちし、ポケットをまさぐる。
しかし、最後の一本だったようだ。目に見えて落胆する彼に、俺は煙草を渡す。
「吸うのか?」
「まさか」
と俺は言った。普段は吸わない煙草を持ち歩いているのが役に立った。
榊が煙草を吸っていたのを思い出し、出勤途中にコンビニで買ってきていたのだ。
サンキュー、と榊は俺の手から煙草を取り、火をつける。
煙を味わうように長く息を吐くと、続けた。
「結局瑞原さんが来たのは、オープン三十分ほど前だった。時刻的には全く遅刻じゃないんだが、瑞原さんは俺にひたすら謝った。
まだ暑い季節だったが、彼女は長袖を着ていた。おそらく今思えば痣をかくしていたんだろう。
オープンは順調に終わろうか、という時。瑞原さんが唸るようにして、屈みこんだ。
尋常じゃない気配を察知した俺は、すぐさま店長に電話した。不服そうに電話にでる店長を一喝し、瑞原さんを見た。
――彼女は痛みで気を失っていた。
すぐに救急車を呼んだ。十五分後に来た。オープンがあるので同乗はできなかったから、隊員に連絡先だけ渡し、病院名を教えてもらえるよう頼んだ」
「……それで、詩歌は?」
「すぐに彼女は退院した。もとよりあまり緊急ではなかったし、救急治療をうけたらポイという感じだったらしい。退院した瑞原さんに何事かと尋ねると、出勤前に階段から落ちたのだと、そう笑った。しかし彼女の家は一軒家だったし、ここに来るまでに階段が無いことを知ってた俺は、瑞原さんに詰め寄った。
――もう見てられない。警察に相談する。
瑞原さんは泣いて俺を止めた。初めて見る彼女の涙に俺は戸惑った。どうして、と俺は彼女に言った。
――母が、心を壊した母がいるんです。父が捕まってしまうと母が一人になってしまいます。もう母からなにも失わせたくありません。
瑞原さんには、六年前に亡くなった妹がいた。その時に母親は心を病んでしまったらしい。父親もそれからおかしくなってしまったと。
そういえば俺が見た父親の目は、正常な人間のそれではなかった。
泣き崩れる瑞原さんに、俺はそれ以上何もできなかった」
「……ありがとう、よくわかった」
振り絞るように、それだけ言った。怒りとやるせなさでどうにかなりそうだった。
「どうする気だよ。部外者が立ち入ってどうにかなるもんでもないだろ?」
わかっているさ。ただ、お前も我慢できないんだろう。
「力を貸せ榊、詩歌を取り戻す」
「……とんでもねえ店長が来たもんだぜ」
お互いに薄く笑い、拳を合わせた。
榊が俺を見る目つきが、少し変わった。
「誰の従業員に手を出したか、思い知らせてやるよ」
俺は、自らを鼓舞するように、強くそう言った。
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