雪が降れば良いのに
雨上がり。
雲一つない、澄んだ冬空には満天の星が広がる。
視界を煙らせる白い息も、刺すような冷たい空気も、それに伴って震えが収まらない身体も無視して夜空に浮かぶ光を鑑賞していた。背後に忍び寄る気配にも気づかずに。
くすくすと笑う声でようやく誰かが背後にいることに気づいて振り返る。
見覚えはない。私と同じ位の年頃の男の子で、この寒い季節に見合わない薄手の服を一枚着ている。黒い短髪はたしかに風で靡いているのに、寒さなど一切感じていないようで、その様子にこちらが身震いするようだった。
見ているだけで寒い。そして、それとは別の意味で薄ら寒い。
そんな思いをよそに、彼は楽しそうに口を開いた。
「空を見上げるの、楽しいですか?」
その声や喋り方に敵意は感じられない。初対面で敵意などもたれる方が不思議だが。また、害意や悪意も感じられないが、今の世の中油断したら突然刺された、なんてニュース、珍しくない。
自分の警戒心の薄さを呪いながら、少年と青年の境に立っている彼に応える。
「あなたも鑑賞ですか?」
その返答に彼は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに表情を困ったような笑みに変えて答えた。
「はい……流れ星に願い事でもしてみようかなって思ったんです」
「そうですか。もうすぐ流星群の時期だから、よく見えるかもしれないですね」
「そうですか、流星群……」
「……?」
流星群という言葉に反応する彼に怪訝な顔を見せると、彼はにこりと微笑んだ。
「いえ、なんでもないです。少しそばに寄ってもいいですか?」
「え?」
ドキリと胸が跳ねた。最初に彼を見たときに思ったことが事実になるのではないかと不安になったからだ。だが、ここで断れないのがこの国の国民性というやつだ。答えあぐねて視線を泳がせていると、そんな私の思いを正確に読み取った彼が笑う。
「大丈夫です、パーソナルスペースにまで踏み込んだりしないですから」
「あ、いえ、そんなつもりじゃ……」
慌てて否定するも、説得力など皆無だ。私自身自覚はあったし、彼も「説得力、皆無ですね」と腹を抱えて笑いだした。
寒さで赤くなった鼻や頬がさらに赤くなるのを感じた。
「もう、なら寄らないでください!」
憤慨したように顔を背けると、彼は「まあまあ」と宥めながら距離を狭めてくる。
しかし、言葉通り一人間に入れそうな程度の距離を空けて、それ以上は寄ってこない。その場に腰を下ろしてこちらを見上げた。
それはまるで私にも座るように促しているようで、その眼差しに言われるがままに、私も腰を下ろした。お尻が冷たい。
「最初の質問に答えてもらってないですけど」
「最初の質問?」
はて、最初の質問とはなんだっただろうか。記憶の倉庫が狭すぎる。彼と出会って五分ほどしか経っていないのに全く思い出せない。
「空を見上げるの、楽しいですか?」
脳内を大冒険していると、これから大海を渡ろうかというあたりで、笑い声がその海を見事にかっさばいて正解の道を示した。
ポンッと手を打ち納得する。それだ。
「冬の澄んだ空気で見上げる夜空は一年の中で一番綺麗な気がするんです。それにもうすぐふたご座流星群でしょう? 見上げるにはもってこいの夜空です」
「そうですか」
それだけ呟くと、彼は初めて私からも空からも視線を外し、虚空を眺めて何やら考え込んでしまった。
私は既に空を見上げる気分ではなくなっていたため既に星を見ていない。そのまま無言が包み込み、三分ほど経過したころ、私が先に無言の空間を引き裂いた。
「そういえば、あなたの願い事って何なんですか?」
流れ星に願い事をしたいのだと言っていたことをふと思い出して聞いただけだった。我ながら無粋な質問だとは思う。他人の願い事なんて。デリケートな問題だったら聞いた方も答える方も気まずいことになる。口に出した後でそんなことに思い当たるのだから我ながら残念な頭だ。
だが彼は嫌な顔一つせずにその質問に答えてくれた。
「実は、元いた場所に帰れなくなってしまいまして。どうやっても帰れないものだから、もう神頼みかなー、なんて」
恥じらうように笑う彼の表情は何故だかとても私を安堵させた。最初の警戒心など薄れきっていた。
「……ちょっと寒いのでもう少しそっちに寄ってもいいですか?」
断られない。彼はきっと断らないだろう。その確信のもと尋ねると、彼はやはり笑って「どうぞ」と手で示してくれた。礼を述べて近寄る。
「貴女も何か願い事が?」
願い事。そんなものはなかった。ここに来るまでは。だけど。
「……ええ、あります」
私はそっと彼の肩にコートをかけた。