薄紅色の季節
毎年春になると思い出す
あの日の空の色
満開だった桜
そしてあなたの笑顔……
ある晴れた春の日の午後、私はバスに飛び乗って幼い頃に住んでいた町に向かった。きっかけは、そう、毎年この時期になると見る夢……というか幼い日の記憶だった。
「わあ~、桜の花キレイだねぇ」
桜が満開に咲き誇っている桜並木道を、私はあなたに手を引かれて歩いていた。散った桜の花びらがふわりふわりと舞っていて、まるで薄紅色の雪の中にいるようだった。
「ねぇねぇ、地面に桜の花がいっぱい落ちていて、桜色の絨毯の上を歩いているみたいだよね」
私は、少し前を歩いているあなたに話し掛けた。でも、振り返ることもなければ返事をする気配もなく、ひたすらどこかに向かっている様だった。その行動がいつもと違っていて、私は不思議に思った。
「どこ行くの?」
「この先の、大きな桜の木がある空き地だよ」
きっとまた返事がないだろうと思っていた私は、あなたが返事をしてくれたという事にすごく嬉しくなった。
「その桜の木、ここのよりも大きい?」
「う~ん、大きいんじゃないかな」
ものすごく大きい満開の桜の木を想像して、私は早く見たい衝動に駆られた。
「早く行こうよ~」
私はあなたの手を引いて走り出した。
本当は、走ったりしたらいけなかったのにね……。
その空き地にあったのは、桜並木道の桜なんて足元にも及ばないような巨大な桜の木だった。
「大きいねぇ」
私が一頻り桜を見上げ、あなたを見ると、あなたは見たことがない程悲しそうで、それでいて真剣な顔で桜を見ていた。ううん、違う。あなたは桜なんて見ていなかった。その瞳はどこか遠くを見つめていた。
「……どうしたの?」
私が問いかけると、あなたはハッとした表情をして私を見た。その瞳はもう、遠くは見ていなかった。
「何でもないよ」
いつもと同じ、優しい顔。それなのに、私は嫌な予感がしてならなかった。
「ただ、桜は儚いものなんだなって……」
「ハカナイモノ?」
「桜の花は、春のほんの少しの期間しか咲かないだろ? そういうあっけなく終わってしまうものを、儚いって言うんだよ」
「そうなんだ~。すごいね、そんな難しい言葉知っているなんて」
私の言葉に、あなたは少し困ったような笑顔を返してきた。その笑顔を見て、また私の胸に嫌な予感がよぎる。
暫くそのまま、私たちは桜を見上げていた。
ぽっかりと浮かんだ雲がゆっくりと動いて、ちょうど桜の木と重なった時、あなたが口を開いた。
「……もしも、僕が桜の精になったとしても、いつかまたこの場所で一緒に桜を見ようね」
「桜の精って何? 桜の花を咲かせる人?」
私は、最近読んだ昔話に出てくる枯れ木に花を咲かせたおじいさんの話を思い出しながら聞いた。
「……内緒」
「えぇ~、教えてよ~」
「ダメ。そんなことより、約束だよ?」
「……うん」
それは、七歳と十歳の約束だった。
今でも忘れない、たった一つの約束。
「……さん。お客さん」
私は誰かに揺さぶられて目を覚ました。
「え?」
「お客さん、もう終点なんだけど」
目の前に、困った表情をしたバスの運転手の顔。
「あ、す、すみません」
……あちゃ~、ついつい寝ちゃってたよ。しかもあの日の夢まで見てたし。
「まあ、こんな暖かい天気だから眠くなっちゃう気持ちも分かるけどねえ」
運転手の声に苦笑いをしながら、私は約九年振りに町に足を踏み入れた。
あの約束を交わした日から暫く経って、あなたは私の前からいなくなった。私はそれがどうしても信じられなくて、暫くの間食事も喉を通らなくなり、笑い方を忘れてしまった。そしてその姿を見て痛々しく思ったのか、両親は私とあなたの思い出がたくさんあるこの町を出ると決めた。
それから、一度もこの町に来たことはなかった。
町の景色は、まるでこの町が変化を拒絶しているのではないかと感じてしまうほどに、記憶の中にあるそれと同じだった。あなたと手を繋いで歩いたあの桜並木道も……。
満開の桜並木道を通り過ぎ、決して鮮明とは言えない記憶を頼りに歩き続け、私はあの公園に辿り着いた。
「なつかし~。本当、ここも何も変わってない」
一瞬、あの日に戻ったような錯覚に陥る。でもそれは、やっぱり錯覚でしかなかった。だって、ここにあの時のあなたはいない。
町が全くと言って良い程変化していないのに対し、私とあなたの関係は驚く程変化してしまった。
「ねぇ、約束、守りに来たよ」
私は、あの桜の木を見上げながら呟いた。
「あの時言ったよね? たとえ僕が桜の精になったとしても、また桜を見ようって……逢おうねって……。あなたは、毎年その約束を守っていてくれていたのに、私勇気がなくて来れなかったんだ」
ゆっくりと、桜の木に向かって話す。
「それに、約束の意味も分からなかったし……あ、今は解っているから、あの時の約束の意味。だからこうしてここに居るんだ」
桜の花びらが、風に舞う。
「あなたは、この桜の木になったんだよね。ごめんね、気付くのに九年もかかっちゃって。でも、普通気付かないよ、桜の精になるなんて言われても。実際私も、あなたのお母さんに君がここに眠っているって聞かなかったら分からないままだったかも」
あなたのお母さんに出会ったのは、あなたがいつまでも来ない私に痺れを切らしたからなのかな。
また風に吹かれて、花びらが舞う。
なんだか、それが返事のような気がしてならない。
「……あなたは、私に忘れてほしくなかったんだよね?」
“僕がいなくなっても、僕はここにいるから逢いに来て”
それが、あなたが私に言った約束の意味。
あの時、すでにあなたは自分の運命に気付いていて、でも幼かった私にそんなことを言うわけにもいかなくて、あんな桜の精なんていう意味不明なものを出したんだよね。
桜を見て遠い目をしていたのも、桜の花に自分を重ねて見ていたから。
私、全然気付いていなかった。思えば、あなたはよく入院していたのに。
「……じゃあ、私もう帰るね。また、来年……」
来年も、再来年も、ずっとあなたに逢いに来るよ。
私がいつかこの世界の一部になるその時まで。
だって、私はあなたを忘れないから。
それが、あなたとの約束だから。
大学生時代に書いたショートストーリーズ5部作の『春』です。