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世界を変える女・改訂版  作者: 此花サギリ


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第7話 美濃の影

清洲城の朝は早い。


夜明けの薄闇が東の空から押し流されると同時に、ずしりと重い木音を立てて城門が開け放たれる。途端に城下町は一日の息吹を吹き込まれ、人々が活発に動き始める。大八車を引く商人が息を荒らげ、近郊の農民が瑞々しい朝採れ野菜を籠に担ぎ込んで市へ向かい、足軽や武士たちが研ぎ澄まされた槍を手に巡回を開始する。


だが、その日――清洲城下の空気は、これまでの朝とは明らかに違っていた。


理由はただ一つ。


『楽市楽座』である。


望月梓もちづき あずさが提案し、織田上総介信長が「使ってみよ」と即座に全権を委ねて始まった新制度。それは、特定の特権商人による利権(座)を打ち砕き、市場を誰にでも全面開放するという、戦国の常識を根本から揺るがす構造改革であった。


そして、その劇的な変化は、早くも目に見える「数値」と「熱気」となって現れ始めていた。


市場には、見慣れない装いの商人が激増していた。


かつての清洲であれば、決められた「座」に冥加金を納めた地元の限られた商人しか店を広げられなかった。だが今や、その参入障壁は完全にゼロだ。尾張国内のみならず、隣国の三河、そして北の美濃……果ては遠く伊勢や駿河から流れてきた行商人や海運業者までもが、噂を聞きつけて雪崩れ込んできていた。


「商売が自由になり、余計な税を取られない場所には、自然とヒト・モノ・カネが集まる」


これは時代や国境を超えた、普遍的な経済の基本法則レバレッジである。


市場の中央、今回の改革に合わせて新たに拡張された石畳の広場で、梓は手帳を手にその光景を静かに眺めていた。スーツのジャケットを軽く羽織り、メガネのブリッジを人差し指でクイと押し上げる。


視界の端には、ChronoShopのホログラム画面が青く光っている。流動性の高まりとともにチャージ残高の数値がリアルタイムで増加し、いまや一千六百万円の台を指し示していた。


「思ったより早い展開ですね……。市場の認知速度が、私の事前の試算モデリングを上回っています」


隣に立つ木下藤吉郎が、懐に両手を押し込んだまま、猿のような顔を崩してニシシと笑った。


「そりゃあそうですぜ、梓殿! 殿の城下に行けば、厄介な関所代も取られず、座の奴らにいびられることもなく、自由に商売ができるって話ですからな! 商人どもの嗅覚を舐めちゃいけませんや!」


藤吉郎は腕を組み、感心しきりに周囲を見回す。


「それにしても……たった数日でここまで町が変わるとは。権六(柴田勝家)様のあの渋い顔を、もう一度見せてやりたいくらいですな!」


実際、市場の規模は数日前とは比べものにならないほど膨らんでいた。


新設された屋台や露店が所狭ましと立ち並び、持ち込まれる商品も多種多様を極めている。塩、干魚、三河の布、播磨の鉄、伊勢の薬草、上質な木材、そして美濃の陶器……。威勢の良い掛け声が飛び交い、あちこちで手形や現金を交えた価格交渉ディールが行われている。


殺伐とした戦国の城下町とは思えないほど、生気と活気に満ちあふれていた。


梓は小さく頷いた。


(順調……。市場の流動性リクイディティは確実に確保できたわ)


だが、彼女の冷徹なアナリストとしての頭脳は、浮足立つことなく次のリスクと機会を計算していた。


(これはまだ第一段階(初期フェーズ)に過ぎない。本当に織田家を天下最強の資本国家に変えるのは、これから導入する『手形決済による金融網』と『物流インフラの高速化』……そして、周辺大名からの経済的防衛よ)


その時だった。


城の方向から、一人の足軽が草履の音も荒々しく走ってきた。


「藤吉郎様! 梓様!」


息を切らせ、汗をぬぐいながら足軽が膝をつく。


「殿がお呼びです! 至急、評定の間へお越しくださりませ!」


藤吉郎が眉をひそめた。


「なに、殿が? また何か面白いことでも起きたのか?」


「はっ! 美濃の斎藤家より、急ぎの知らせが届いたらしく……!」


藤吉郎は梓と顔を見合わせた。


「美濃の蝮(斎藤道三)か……。噂をすれば、ですな。梓殿、行きましょうや」


「ええ。どうやら、あちらの『最高経営責任者(CEO)』も、こちらの市場改革に気づいたようですね」


二人は足を速め、清洲城の天守へと向かった。


清洲城の重厚な門をくぐり、一回り広い評定の間へ通されると、室内には既に張り詰めた緊張感が漂っていた。


柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興……織田家を支える名だたる重臣たちが、深刻な面持ちで座を占めている。そして広間の上座、片膝を立てて座していたのは、織田上総介信長であった。


信長は入ってきた梓と藤吉郎を鋭い一瞥で捉えると、低い声で言った。


「来たか」


「はっ。ただいま戻りました」


梓が深々と頭を下げて正座すると、信長は三方に置かれた一巻の書状を、長骨の長い指でトン、トンと叩いた。


「美濃からの報せだ」


その一言で、広間の空気が一気に冷え込んだ。


美濃国。尾張の北に君臨する大国であり、そこを治めるのは戦国屈指の策略家、油売りから一国の大名にまで上り詰めた『美濃の蝮』こと斎藤山城守道三である。


勝家が苛立ちを隠さずに身を乗り出した。


「殿! 蝮がいよいよ痺れを切らして、国境を越えて攻めて参りますか!?」


信長は不敵な笑みを浮かべ、首を横に振った。


「いや。戦(兵の動員)ではない」


「……は?」


勝家や重臣たちがポカンと首をかしげる。戦ではないとすれば、何だというのか。


信長は投げ出すように書状を畳の上に滑らせた。近くにいた丹羽長秀がそれを受け取り、内容を目で追うと、驚愕に眉をひそめた。


「これは……美濃国内の関所および主要都市に対し、『清洲城下へ向かう商人の通行を固く禁ずる。破る者は財産を没収し、追放に処す』との通達……!?」


長秀の読み上げを聞き、武将たちは顔を見合わせた。


「商人を止める……? 武士の戦に、商人止めて何の意味があるのだ?」

「解せぬ。道三は何を考えておるのだ?」


理由が理解できず困惑する武将たちを余所に、梓はメガネの位置を直し、即座に合点がいった。


(やっぱり……! 斎藤道三は気づいたんだわ)


梓は胸の中で密かに感嘆した。さすがは歴史に名を残すカリスマ経営者だ。刀を交える軍事戦ではなく、目に見えない『経済戦争マーケット・ウォー』の本質を瞬時に見抜いている。


『楽市楽座』によって清洲に圧倒的な自由市場が誕生すれば、美濃の商人はこぞって利益と自由を求め、尾張へと流入する。そうなれば美濃国内の市場は空洞化し、関所や座から得ていた道三の税収は激減する。つまり、道三は尾張の経済改革を「自国の富を吸い上げる攻撃」と捉え、経済封鎖(ブロック経済)で対抗してきたのだ。


信長は腕を組み、鋭い漆黒の瞳を梓に向けた。


「梓。おぬし、この通達をどう見る?」


試すような、鋭利な視線。広間の武将たちの視線が一斉に梓へと注がれる。


梓は背筋を伸ばし、淀みない声で答えた。


「――当然の反応です」


武将たちが息を呑む中、梓は言葉を続けた。


「市場とは、国家という生き物の『血液』です。血液(資金と物資)が逃げ出せば、どんな大国であっても内側から貧血を起こし、弱体化します。斎藤道三様は、我が織田家の『楽市楽座』が美濃の経済動脈を切り裂く刃であることを正しく理解しておられる。だからこそ、なりふり構わず禁令を出したのです」


信長は口元を歪め、ニヤリと笑った。


「フッ……その通りだ。蝮め、わしが兵を動かさずとも、喉元にナイフを突きつけられた心地がしたのだろう」


すると、柴田勝家が豪快に自らの膝を叩いて立ち上がった。


「殿! 敵がそうして怯えておるのならば好機! 道三が経済などという小細工に固執している隙に、我が織田の軍勢をもって美濃の国境を破り、力ずくで踏み荒らしてやりましょうぞ!」


武闘派の武将たちが「応!」と声を上げかける。


しかし――


「いいえ。戦を仕掛けるのは、まだ早すぎます」


梓の静かな、しかし通る声が、広間の熱気を打ち消した。


勝家が鬼の首を取ったような顔で梓を睨みつける。


「何だと!? 女子おなご! 敵が退き腰になっている今を逃して、いつ攻めるというのだ! 武士の戦を舐めるなよ!」


「舐めてなどいません、柴田様」


梓は動じず、勝家の怒声を受け止めた。


「今、美濃へ兵を出せば、相手は防衛戦となり、かえって美濃国内の団結を強めてしまいます。莫大な兵糧と戦費を消費し、兵を減らすのは、企業経営(財務管理)として最悪の選択肢コストパフォーマンスです」


「ではどうするのだ! 放置すれば美濃の商人は清洲に来られなくなるのだぞ!」


「放置などしません」


梓は信長に向き直り、きっぱりと言い放った。


「武力で戦う前に……『経済の力』で美濃を完全降伏させます」


広間が再び、しんと静まり返った。


信長は興味深そうに目を細め、身を乗り出した。


「ほう……。経済で勝つ、か。面白い。どうやって美濃を落とす?」


「簡単です。『インセンティブ(利益の誘惑)』で美濃の商人と民を内側から引き抜きます」


梓は指を一本立て、不敵なアナリストの笑みを浮かべた。


「道三様がどれほど厳しい通行禁止令を出そうとも、人間は『より儲かる場所』『より暮らしやすい場所』へ流れる生き物です。水が高いところから低いところへ流れるのを止められないのと同じです。

美濃の商人が清洲の手形を使えば、密かに何倍もの利益が得られる仕組みを作ります。さらに、美濃で製造された陶器や布を、清洲のネットワークを使って全国へ高値で買い叩くルートを提示するのです」


梓は一歩前へ出て、宣言した。


「道三様が禁止すればするほど、闇ルートで清洲へ流れる物資の価格は跳ね上がり、美濃の商人や農民は密かに織田家へと内応し始めます。法で縛れば縛るほど、美濃の国内は不満で充満し、自壊していく……。清洲を戦国一の『巨大ブラックホール(市場)』に仕上げることで、美濃の富も、人材も、すべて吸い寄せてみせます!」


「……密輸と……内部崩壊か……!」


丹羽長秀が戦慄したように呟いた。刀を一筋も抜かず、血を一滴も流さずに相手の国力を奪い去る。武士の発想にはない、恐るべき「資本主義の猛毒」であった。


信長は大広間の天井を仰ぎ見ると、腹の底から豪快に笑い飛ばした。


「ハハハハハハハハハ! 素晴らしい! 毒を以て毒を制すとはこのことだ! 刀で斬るより遥かに惨く、遥かに確実に敵を殺す手段ではないか!」


信長はドスンと立ち上がると、黒い着物の裾を翻し、梓を指差した。


「良し! 梓、その『美濃買取計画』……全面許可する! 清洲の金蔵にある資金を好きなだけ使え! 丹羽長秀、木下藤吉郎! この女の指示に従い、美濃の商人どもを裏から手懐けよ!」


「「ははーっ!!」」


長秀と藤吉郎が平伏する。勝家も悔しそうに歯噛みをしながらも、信長の絶対の決定に頭を下げるしかなかった。


信長は梓の前まで歩み寄ると、ニヤリと口元を歪めた。


「戦はまだだ。まずは……美濃の血(金)を最後の一滴まで吸い尽くしてやれ」


「御意にございます、信長様」


梓は深々と頭を下げた。


こうして、戦国史上初となる、大規模な『暗黒経済戦争マーケット・ディスラプション』の火蓋が落とされたのだった。


評定を終え、城の廊下を歩く梓の隣に、藤吉郎が興奮冷めやらぬ様子で並んだ。


「凄まじいですな、梓殿! あの蝮の道三相手に、金と手形だけで挑もうとは! 俺もワクワクしてきましたぞ!」


「藤吉郎さん、浮かれている暇はありませんよ。さっそく美濃の国境付近に『裏の手形換金所』を極秘裏に設置します。美濃の商人が密かに持ち込んだ品物を、正規の倍の価格で買い取る闇市場の開設です」


「へい! 密売なら俺の得意分野ですだ! 尾張と美濃の裏ルートを通って、商人どもをドカンと引き込んでみせます!」


藤吉郎が鼻息荒く走り去っていくのを見送りながら、梓はふと足を止め、清洲城の天守の窓から北の空を見上げた。


(斎藤道三……。油売りから這い上がったあなたが、この『現代の資本主義理論』と『ChronoShopのテクノロジー』にどこまで耐えられるか……勝負ね)


だが、梓の脳裏には、もう一つの歴史の記憶が浮かんでいた。


史実において、斎藤道三はこの後、実の子である斎藤義龍よしたつとの反目により、『長良川の戦い』で悲惨な最後を遂げるはずだ。そして、信長に「美濃を一国譲り渡す」という譲状(遺言)を遺すことになる。


(もし、私が美濃の経済を破綻させ、道三を経済的に追い詰めたら……長良川の戦いのタイムラインはどう変化するの? 義龍が史実よりも早く挙兵するかもしれない……あるいは、道三が破れかぶれで織田家に全面降伏してくる可能性すらある……)


梓はメガネのフレームをそっと押し触れた。


「歴史のシナリオが変わる……。でも、私が目指すのは信長様を本能寺で死なせない未来。そのためには、美濃の獲得は絶対に避けて通れないチェックポイントよ」


【マスター梓。美濃経済侵略オペレーションの開始を確認しました。ChronoShopより『高精度密売用暗号手形』および『超小型量目計定器』の購入が可能です】


アイリスの声が頭の中に響く。


「購入を承認するわ、アイリス。資金なら、美濃から吸い上げる分でいくらでも回収できるから」


梓は不敵に微笑むと、新しい時代の足音が響く清洲の街へと、力強い一歩を踏み出した。


天下を買い取るための「戦国株主総会」――その次なる標的は、美濃の蝮・斎藤道三。


武力ではなく『資本』が世界を支配する時代が、今まさに、この尾張の地から始まろうとしていた。

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