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世界を変える女・改訂版  作者: 此花サギリ


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第30話 城動の兆

夜明け前の空は、まだ冷たく澄んだ群青色に沈んでいた。


金華山の山頂に聳え立つ稲葉山城の天守からは、朝靄に包まれた美濃の山々と、眼下を悠々と流れる長良川が遠くかすんで見える。遠目には未だ圧倒的な威容と堅牢さを誇る難攻不落の要塞。だがその高殿の一室では、若き城主・斎藤龍興が剥き出しの苛立ちを抑えきれず、激しく踏み鳴らしていた。


「まだ見つからぬのか! なぜ判明せぬ!」


朱塗りの重厚な机を叩く拳の音が、静まり返った広間に虚しく響き渡る。


前に膝を突き、平伏している勘定方の家臣は、額を畳にすりつけたまま全身をガタガタと震わせていた。


「も、申し訳ございませぬ……! 兵糧蔵の俵は確かに数が合わず……されど、見張りの目をすり抜けた盗人の形跡はなく、鍵も壊されておりませぬ……! 引き出してみると、俵の中身が確かに……目減りしているのです……!」


「形跡が無いだと! 妖怪変化の仕業とでも言うつもりか!」


龍興はバッと立ち上がり、血走った目で家臣を睨みつけた。


「では、兵どもが夜陰に紛れて米を食い散らかしたとでもいうのか!」


「い、いえ……そのようなことは……」


家臣の声は恐怖で細くなり、小さく消えた。


城内ではここ数日、兵糧の連続的な減少が致命的な大騒ぎとなっていた。蔵に積まれた俵の数は一見変わらないが、改めると確実に中身が減っている。しかし、外部からの侵入の証拠は皆無。誰かが日常的に抜いている。だが、それが誰なのかが分からない。


確たる証拠がないからこそ、誰の言葉も信用できない。陰惨な疑心暗鬼だけが、伝染病のように城内に広がっていた。


龍興は冷酷に吐き捨てるように言った。


「……城の中に裏切り者がいる。重臣の誰かが織田と通じ、米を売って私腹を肥やしているのだ」


広間の空気が一瞬にして氷のように凍りついた。


「探せ。怪しい者は身内であっても牢へ叩き込め。犯人を必ず見つけ出せ!」


家臣たちは深く頭を下げ、逃げるように去っていった。


だが、城主が家臣全体を「敵」として疑い乱暴に捜索を命じるほど、組織の不満と恐怖は雪だるま式に膨れ上がっていく。当主の怒りは、城の崩壊を食い止めるどころか、内部の破綻をさらに加速させる猛毒となっていた。


その頃、稲葉山城下。


東の空が白み始め、朝の市が立ち開き始めていた。


威勢のいい魚売りの声、新鮮な野菜を店先に並べる音、荷車の木輪が石畳を軋ませる音。活気あるいつもの賑わいの中に、旅装束に身を包んだ女商人――望月梓は静かに立っていた。


洗練された佇まいと眼鏡の奥の冴え渡る瞳。彼女の正体は、織田信長の密命を受け、美濃の構造的破綻を裏でプロデュースする最高財務アナリスト兼密偵である。


梓は露店で干し柿を買い求める振りをしながら、馴染みの店主に小声で問いかけた。


「……城の様子は?」


店主は周囲を警戒しながら、極めて低い声で答える。


「大騒ぎさ。殿様が毎朝のように役人を怒鳴り散らしてるらしい。重臣の家臣まで取調べを受けたって話だ」


梓は静かに頷いた。


「やはり、兵糧の件?」


「ああ。おかげで武士どもは互いに目も合わさねえ。家臣同士で疑い合って、城下へ買い出しに来る足軽の顔も死人みたいに真っ青だ」


梓は干し柿を丁寧に紙袋へ納め、代金の銭を置いた。


「そう……大変ね」


それだけ言って、梓は店を後にした。


(……シミュレーション通り)


梓のアナリティクス通りの成果であった。

兵糧の減少工作は、完璧な精度で機能している。俵の結び目を緩め、中身をほんの少しずつ抜き取る。それを数日間連続して実行する。すると蔵の帳簿と現高の数値が決定的に狂い出す。


だが、鍵は壊されておらず犯人の痕跡は皆無。ゆえにトップは「内部の内通者」を疑う。疑心が組織の神経を痛めつけ、相互信頼という資質アライアンスを内側から食い荒らしていくのだ。


梓は足を止め、朝日に鮮やかに染まる稲葉山城を見上げた。


金華山の険しい岩肌の上にそびえ立つ天険の要害。だが、城というシステムは石垣や土塁だけで維持されているわけではない。「人」という信頼のネットワークで保たれているのだ。


その人の心が破綻すれば――どんな巨大な城塞も、砂の城のように脆く崩れ去る。


梓は静かに歩みを進め、次の目的地へと向かった。


城下の外れ、静寂に包まれた古い寺院――瑞泉寺。


苔むした門をくぐると、老僧が静かに掃除を行っていた。老僧は梓の姿を認めると、深く語ることなく小さく首を振って頷いた。


「……お待ちしておりました。こちらへ」


この寺もまた、梓が張った極秘の情報・情報中継網の一拠点であった。

本堂の裏手に回ると、静まり返った離れの一室へと案内された。


重々しい空気の漂う部屋の中には、二人の貫禄ある武士が座していた。


西美濃三人衆が二人――曽根城主・稲葉良通(一鉄)と、大垣城主・氏家直元(卜全)。


梓は優雅に、そして深く礼をした。


「お呼びと伺い、参上いたしました」


良通は太い腕を組み、鋭い眼差しで梓を射抜くように言った。


「……城の騒ぎは知っているな」


「はい。城下の市場でも、その噂でもちきりでございます」


直元が苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。


「兵糧の件で殿の狂乱は増すばかりだ。我ら宿老にまで『内通の疑いあり』と遠回しに圧力をかけてこられる。……馬鹿馬鹿しくて付き合っていられん」


梓は静かに、心を寄せるようなトーンで答えた。


「それは……まことに理不尽で、困ったことでございますね」


良通は眼光を深め、梓の眼鏡の奥にある澄んだ瞳を直視した。


「……お前はただの旅商人と言ったな」


「はい。各地の産物を売り歩く商人に過ぎません」


「ならば聞く」


良通は重々しい声で尋ねた。


「……今、天下の潮流はどちらへ動いている?」


梓は数秒の沈黙を置いた。そして、過不足のない明確な声で答えた。


「……南でございます」


「南……?」


「尾張にございます」


二人の武将は言葉を失い、息を飲んだ。


梓はアナリストとしての客観的なデータを提示するように、滑らかに言葉を続けた。


「織田信長様。あのお方は今、圧倒的な勢いと合理性を備えておられます。兵糧の管理、流通の刷新、市場の開放……兵も金も人も、すべてが織田の元へと集積しております。時代の波は、確実にあの男を中心に回り始めております」


直元が低く呟いた。


「……噂には聞く。尾張の兵は装備が揃い、握り飯の心配すら流布しておらぬとな」


良通が、葛藤を押し殺した声で低く言った。


「……だが、我らは斉藤家の代々の家臣だ。今さら主家を捨てるなど……」


梓は静かに微笑み、深く首を振った。


「もちろんでございます。武士の義理立ては尊きもの。……ただ」


梓は二人の目を交互に見つめ、決定的な一言を置いた。


「……時代と市場ニーズの潮流は変わります。沈むと分かっている船に留まることだけが、領民と家臣を護る義理と言えましょうか」


その言葉は静かであったが、二人の武将の胸に重く突き刺さった。


寺の庭に春の冷たい風が吹き抜け、竹林がサワサワと揺れる音が静寂を破る。


梓はそれ以上追及せず、淑やかに頭を下げた。


「出過ぎたことを申しました。それでは、失礼いたします」


多くを語る必要はなかった。すでに種は蒔かれたのだ。美濃を支える宿老たちの胸の奥底に、「織田への寝返り」という明確な選択肢の芽が完全に芽生えた。


寺を出た梓は、城下の坂道を下りながらどこまでも広がる青空を見上げた。


(……始まったわ)


城内の疑心暗鬼。重臣たちの決定的な迷いと離反の意志。そして外からの圧倒的な圧力。

それらの変数が噛み合った時、美濃の歴史は一つの結末へと加速する。


その頃。


尾張・清洲城。


春の陽光が差し込む庭園を、織田信長は悠々と歩いていた。

その傍らには、小柄な体にギラギラとした野心を宿した木下秀吉(後の豊臣秀吉)が付き従っている。


「秀吉、美濃の様子はどうだ。梓からの報せ通りに動いているか?」


信長の問いに、秀吉は猿のような笑みを浮かべ、揉み手しながら答えた。


「ヘヘッ! お見事でございます殿! 美濃は割れます……間違いなく、内部から完膚なきまでに割れておりますぞ!」


信長は空を見上げ、不敵に目を細めた。


「……いつだ? 我が軍が木曽川を渡る刻限は」


「近いです。すでにカウントダウンは始まっております」


秀吉はニタリと笑い、身を乗り出した。


「梓様の見事な手回しにより、敵の当主と重臣の信頼関係はゼロ……いやマイナスにまで落ち込みました。城が崩れるのは外からの大砲や槍ではありません。いつだって『中から』でございます」


信長は満足そうに腹の底から笑い声をあげた。


「ハハハ! ならば待とう。熟した果実が手元に落ちてくる瞬間をな!」


同じ頃。


稲葉山城の大広間では、再び龍興の狂乱した怒号が響き渡っていた。


「まただ! また兵糧の俵が減っておるではないか! 今度は二石も消えているぞ!」


龍興の激怒はすでに限界を突破していた。

役人や近侍の武士たちは平伏しているが、その瞳からは完全に忠誠の光が消えていた。誰もが互いを疑い、誰もが言葉を発しない。信用できる人間は、この城の中にただ一人として存在しなかった。


そして、その夜。


城の奥深く、人目を忍んだ一室に、美濃三人衆の全員が集結していた。


安藤守就。

稲葉良通。

氏家直元。


暗い行灯の灯りの下、安藤守就が絞り出すような低音で言った。


「……この城は、もう持たぬ」


誰一人として、その言葉を否定しなかった。


長い、重苦しい沈黙が部屋を支配した。やがて、稲葉良通が諦念と決意の混ざった声で低く呟いた。


「……ならば」


その言葉の続きを、誰も口には出さなかった。

だが、暗闇の中で向き合う三人の胸の中には、全く同じ一つの名前が、はっきりと浮かび上がっていた。


――織田信長。


同じ刻、城下の宿の一室。


望月梓は窓辺に立ち、夜の闇に浮かび上がる稲葉山城を見上げていた。


揺らめく篝火の光に照らされた稲葉山城。

その堅牢なる壁の内側で、今まさに歴史を決定づける巨大な崩壊が起きていた。


梓は静かに眼鏡のふちを押し上げ、小さく呟いた。


「……もうすぐね」


兵糧の減衰。

組織の狂乱。

重臣たちの決別。


すべての準備プロセッシングは整った。

やがて訪れる、美濃を揺るがす戦国史上最大の寝返りと内応。


そして――難攻不落と謳われた稲葉山城陥落へと続く最終決戦の幕が、静かに落とされようとしていた。

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