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世界を変える女・改訂版  作者: 此花サギリ


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第28話 密議の夜


濃密な夜の帳が、静まり返る稲葉山城を覆い尽くしていた。


金華山の山頂に築かれた巨大な要塞は、昼間の騒乱が嘘であったかのように重々しい静寂を纏っている。急勾配の坂道に設けられた大手門や各曲輪くるわの門前には、赤々と篝火が焚かれ、槍を手にした見張りの足軽たちが警戒の目を光らせて夜間巡回を行っていた。


だが――その厳めしい要塞の最奥。


天守下の奥御殿へと続く曲輪の一角に、ひっそりと灯りのともる離れの一室があった。


畳敷きの六畳間。


静まり返ったその部屋には、三人の重臣が固い表情で車座になって座していた。


美濃斎藤家を実質的に支え続けてきた宿老――美濃三人衆みのさんにんしゅう


西美濃北方城主・安藤守就あんどうもりなり

大垣城主・氏家直元(うじいえなおもと/卜全)。

そして、曽根城主・稲葉良通(いなばよしみち/一鉄)。


部屋の隅に置かれた行灯の炎がゆらゆらと揺れ、三人衆の刻まれたシワと陰鬱な表情を不気味に浮かび上がらせている。


「……兵糧が、急激に減っている」


口火を切ったのは、年長の安藤守就であった。老獪な瞳を低く据え、声をひそめて吐き捨てる。


「昼間の大広間での騒ぎ……聞いたか? 龍興殿は怒り狂っておられる。勘定奉行を牢にぶち込み、重臣の俺たちにまで『誰が米を抜いた』と疑いの目を向けておられるのだ」


氏家直元が、噛み殺したような苦い顔で太い腕を組んだ。


「ふざけた話だ……! 我らが何のために何代も斎藤家に尽くしてきたと思っているのだ。己の不徳と無能で城下の商人や領民を追い詰め、挙句の果てに米が消えたとなれば、真っ先に我らを疑うとは……!」


稲葉良通は腕を組んだまま、じっと畳の目を睨みつけていた。そして、低く重い声で呟く。


「……疑われても、無理はない」


直元が不満そうに眉をひそめた。


「良通! なぜそうなる! 俺たちが米を盗むような真似をすると思うか!」


「そうではない」


良通は静かに首を振った。


「城の米が何百石という単位で煙のように消えたのだ。錠前も破られず、見張りも気づかず、引き出してみれば目減りしている……。そのような奇妙な芸当、内部の要職にいる人間が手引きせねば起こり得ぬと、龍興殿が考えるのは当然のことなのだ」


部屋に、重い沈黙が落ちた。


灯りの油がパチパチと弾ける音だけが、静寂を切り裂く。


その沈黙を破ったのは、安藤守就であった。


「……だが、本当に我らの仕業ではない。二人は絶対にやっておらぬな?」


「当たり前だ! 俺を誰だと思っている!」


直元が憤慨して吐き捨てる。良通も静かに頷いた。


「分かっている。……だが、龍興殿は我らの言葉に耳を貸さぬ。それどころか、あのお気に入りの側近ども――長井や日根野らに耳を傾け、我ら三人衆を『謀反の疑いあり』として排除しようとする動きすら見せている」


直元が舌打ちをした。


「まったく……情けない当主だ。亡き義龍様が生きておられたら、このような醜態は晒さぬというのに」


良通は目を閉じ、深くため息をついた。


「……この城は、もう危うい」


直元と守就がハッとして良通を見た。美濃随一の頑固者であり、義理に厚いことで知られる一鉄(良通)の口から、そこまで決定的な言葉が出たのは初めてであった。


良通は重々しく続けた。


「兵糧が減る。城主は狂乱して家臣を疑う。家臣は保身に走り、互いを刺し合おうとする……。戦が始まる前に、この城の『心』は完全に割れておるのだ。このまま龍興殿に付き従っていれば、我ら三人衆もろとも、美濃国そのものが滅びかねん」


重臣たちの間に、もはや消すことのできない亀裂と、新しい選択肢アライアンスへの暗黙の了解が芽生え始めていた。


裏路地の茶屋と、仕組まれた破綻デフォルト

一方、同じ刻。


稲葉山城下。


昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夜の町は、濃い川霧に包まれていた。

商人の店舗の格子戸は固く閉ざされ、人影もまばらである。


その暗がりを、足音を一切立てずに軽やかに歩く一人の女性の姿があった。


望月梓。


漆黒の忍び装束の上から地味な羽織を羽織り、眼鏡の奥の瞳で周囲の警戒クリアランスを確認しながら、裏路地の奥深くに佇む一軒の小さな茶屋へと滑り込んだ。


油の切れた行灯が細々と灯る小さな部屋には、すでに三人の男たちが息を潜めて待っていた。


米問屋の主人、塩問屋の頭取、油問屋の豪商。

梓が構築した『裏の財務ネットワーク』の中核をなす商人たちである。


「お待たせいたしました」


梓が静かに腰を下ろすと、米問屋が興奮を抑えきれない様子で小声を張り上げた。


「望月様! 城の中、大騒ぎになっておりますぞ! 今朝、本丸の勘定方が米の在庫チェックを行った際、数百石分の欠損が発覚いたしました!」


梓は整った口元に微かな笑みを浮かべ、優雅に温かいお茶を一口すすった。


「ええ……データ通りね。予定通りの進捗プログレスだわ」


油問屋がニヤリと不敵な笑みを漏らす。


「まさか、運搬用の俵の結び目を解き、中に籾殻を詰め込んで一割ほど米を抜き取るだけで、城内がこれほどの狂乱に陥るとは……! 見張りも泥酔しておりますから、誰も気づきませんよ」


塩商人も深く頷いた。


「ええ。しかも、外から侵入された痕跡が一切ない。となれば、城内の武士どもは『内部の誰かが米を売り払って横領した』と疑い合うほかありませんからな」


梓は静かに湯呑みを置いた。


「ええ……それでいいのよ」


梓の目的は、単に兵糧(物資)の絶対量を物理的に削減することだけではない。

最も重要なのは、「原因不明の内部損失スリッページ」を発生させることで、組織内の相互信頼ソーシャル・キャピタルを完全に破壊することなのだ。


犯人が特定できない損失は、人間を最も狂わせる。

城主は重臣を疑い、重臣は同僚を疑い、下級武士は上司を疑う。


「兵糧を減らし、だが盗まれた証拠は残さない。……疑心暗鬼という名の毒は、一度組織に注入されれば、内側から自発的に細胞を破壊していくわ」


米商人がハッとしたように身を乗り出した。


「……そういえば、望月様。今日、城の重臣たちが密かに集まって会合を開いていたという情報が入ってきました」


梓の眼鏡の奥で、知的な光がキラリと閃いた。


「誰が集まっていたの?」


「西美濃の三人衆……安藤守就様、氏家直元様、そして稲葉良通様でございます」


梓は満足そうに小さく頷いた。


(やはり……動いたわね)


史実に記録された「美濃三人衆の織田家への寝返り」。

その歴史の歯車が、梓の仕掛けた財務・心理工作によって、確実に、そして速やかに回り始めている。


だが――梓のアナリティクス脳は、冷徹に次のフェーズを計算していた。


(……けれど、まだ早いわ。今すぐ彼らが内応の決断を下すには、もう一押し……斎藤龍興側の『絶対的な失策(致命的破綻)』が必要よ。心理的心理障壁ハードルを完全にゼロにするまで、プレッシャーをかけ続けなければ)


梓は商人たちを見回し、静かだが力強い口調で命じた。


「兵糧の減衰工作は、このまま継続してください。……あと少し、城内の備蓄予測数値を削り取ります」


商人たちは力強く頷いた。


「ははっ! お任せください!」


CFOのアナリティクスと、信長の開戦前夜

深夜。


宿の自室に戻った梓は、部屋の超空間音響遮断フィールドを起動し、完全なセキュリティを確保した。


手元の空間に、青く輝くホログラム画面『ChronoShop』のアナリティクス画面が滑らかに展開される。


梓は繊細な指先で空間のインターフェースをフリックし、稲葉山城の「内部崩壊度リスク・インデックス」をリアルタイムでシミュレーションしていった。


――【稲葉山城・組織崩壊度および開戦タイミング解析】

・城内兵糧実質在庫:当初の68%(急速減衰中)

・当主(龍興)と重臣(三人衆)の信頼関係:不和率92%(致命的破壊)

・将兵の士気低下率:78%(逃亡・軍規違反が多発)

・買収・無血開城成功率:89.5%


梓は報告文を作成し、キーボードを滑らかに叩き込んだ。


――【送信先:尾張・那古野城本陣(織田信長直通)】

――【セキュリティ:最高機密(CFO専用暗号化回線)】


【美濃・稲葉山城・重臣層(美濃三人衆)内応準備完了報告】


一、城内疑心暗鬼の極大化:

兵糧の連続減衰により、斎藤龍興が重臣層(安藤・氏家・稲葉)への猜疑心を露わにし、組織のガバナンスが完全に破綻。三人衆は秘密裏に密議を行い、当主からの離反の意思を固めつつあり。


二、次の戦略目標ファイナル・アクション

兵糧減衰工作を最終段階まで推し進め、城内の兵士たちの不満を爆発させる。並行して、三人衆への正式な「買収提案(織田家での領地分益保証)」を打診する準備を完了せよ。


三、推奨行動:

織田軍本隊は木曽川沿いへの兵力集結デモンストレーションを維持し、敵への心理的威圧ストレッサーを最大化されたし。


――【送信完了】


同じ刻。


尾張・那古野城の本まる大広間。


織田信長は、暗闇の中で青く光る梓からの暗号化レポートを読み終えると、ニヤリと恐ろしいほどの笑みを浮かべた。


傍らには、漆黒の具足を纏い、出陣の刻を待つ柴田勝家が控えている。


信長は光の板を消すと、太ももをバシリと叩いた。


「……ハハッ! 聞いたか勝家! 龍興の奴め、ついに美濃三人衆まで『謀反人』として疑い始めたぞ!」


勝家が目を見開いた。


「なんと……! 安藤、氏家、稲葉といえば、斎藤家の屋台骨を支える重臣中の重臣! その者たちを疑い始めるとは……!」


「そうだ!」


信長は立ち上がり、大広間の壁に掛けられた巨大な関東・東海地方の地図の前へと歩み寄った。


「城主が家臣を疑い、家臣が城主を見限る……。城の壁はまだ一重も壊れておらんが、城の『心』はすでに木っ端微塵に割れておるのだ! これもすべて……梓が仕掛けた兵糧の仕掛け(トラップ)のおかげよ!」


勝家は深く感服し、平伏した。


「……梓殿の手腕、恐れ入りました。兵を送ることもなく、敵の最も強固な結びつきを断ち切るとは……。殿、いよいよ我が軍の出陣でございますか!?」


信長は北の空――美濃の方角をギラギラとした光を宿した瞳で見据えた。


「まだだ。焦るな」


信長は口元を凶暴に歪めた。


「梓が言っておる。『あと一つ、城を崩す最後の一手を決める』とな。……全軍に命じよ! 木曽川沿いに陣を張り、いつでも美濃へ雪崩れ込めるよう槍を磨いて待機せよ! 梓が合図シグナルを出した瞬間、一気に稲葉山城を呑み込むぞ!」


「ははっ!!」


稲葉山城下。


夜の冷たい風が吹き抜ける宿の窓辺で、梓は静かに眼鏡を外し、夜空に浮かぶ金華山を見上げていた。


闇の中に黒々と聳える稲葉山城。

昼間の威容は失われ、どこか哀しげな影を落としている。


(兵糧は減った。疑心は城内に充満した。重臣たちは離反の準備を始めた……)


梓の繊細な指先が、窓枠を静かに叩く。


(……あと一つ。この城を戦わずして完全に買い取る(併合する)ための、最後の決定的トリガー(引き金)を引きに行くわ)


歴史の巨大な歯車が、一人の女性密偵の知略によって、恐ろしいほどの加速をつけて回り始めていた。

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