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世界を変える女・改訂版  作者: 此花サギリ


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第22話 城内の影

朝霧のサプライチェーンと軍師の密談

稲葉山城下の朝は早い。


長良川から立ち上る深い川霧が、金華山の麓にひろがる段々状の街区をうっすらと包み込んでいた。まだ薄暗い通りには、夜明けとともに畑仕事へ向かう農民や、朝市に向けて大八車を引く商人たちの足音が湿った木駄の音とともに響き始めている。


城門へ向かう重厚な荷車、町へ降りてくる甲冑姿の武者、そして遠国から夜通し街道を歩いてきた行商人たち。


その朝霧と人々の雑多な流れの中に、まるで最初からその風景の一部であったかのように、自然に溶け込んでいる一人の女性がいた。


望月梓もちづきあずさ


洗練された洋風のジャケットに身を包み、知的な眼鏡をかけたその姿は、表向きは尾張や遠国から渡ってきた手広な女性商人。


しかし――その正体は、織田信長から美濃攻略のすべての「経済・情報戦略」を提示され、最高財務責任者(CFO)として直々に密命を帯びて潜入した織田家の最高幹部であった。


梓は昨日と同じ広場の一角に手際よく露店を広げ、陳列台に清潔なさらしを敷き詰めながら、鋭く澄んだ眼光で静かに周囲の「定量データ」を観察していた。


(……明らかに兵の動員密度が上がっているわね)


昨日と比べ、街道を行き交う足軽や馬上の武者の数が二割以上増加している。城門へ向かう大八車には、重そうに俵が積まれ、車輪が深くぬかるみを削っていた。


(単なる警備の増強じゃない。兵糧の輸送ピッチが加速している……城内で明確な意思決定(意思決定)が行われた証拠ね)


梓は荷車の陰で手荷物を整理するふりをしながら、自らの視界にのみ展開される半透明のホログラムボード『ChronoShop』のアナリティクス・画面を静かに起動した。


周囲の人々には一切見えない、淡い青光を放つ高度なインターフェース。

そこには、現代のデータベースと高度なAI解析が弾き出した「美濃・稲葉山城下リアルタイム情報メモ」が細かく整理されていた。


――【稲葉山城・防衛力解析データ】

・推密常駐兵力:約五千(動員可能最大兵力:一万二千)

・要衝兵糧庫:山麓・中腹・本丸の計三箇所

・城下主要豪商の不満度:測定値82%(度重なる臨時の関銭と軍役負担による)


(経済は感情とインセンティブで動く。商人たちの不満が限界点に達すれば、資本の『逃避キャピタル・フライト』が起きるわ。その買い叩きのタイミングをどう設計するか……)


梓の頭脳が目まぐるしくキャッシュフローと補給線の計算を重ねていた、その時だった。


「……おはよう、店主。朝早くから精が出ているな」


静かで、澄んだ水の流れるような声が背後から響いた。


振り返ると、薄手の羽織を羽織り、懐に手を差し入れた若い男が立っていた。


竹中半兵衛重治である。


昨夜、夕闇の中で梓の正体(織田信長配下のCFO)と「美濃買い叩き作戦」を聞かされ、不敵な笑みを残して去っていった天才軍師。その瞳は、朝霧の中でも恐ろしいほどに冴え渡り、梓の一挙一動を凝視していた。


「……竹中様。おはようございます。こんな朝早くから、お散歩ですか?」


梓は完璧なポーカーフェイスを保ちながら、優雅なお辞儀を返した。


半兵衛は店の前に置かれた木箱にすっと腰を下ろし、細い目をさらに細めた。


「散歩と言えば散歩だが……まあ、お主の顔が見たくなってな。朝一番で、あの素晴らしい『傷薬』を一つ分けてもらおうか。城の同輩が演習で手を切ってしまってね」


「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


梓は荷車の奥に手を差し入れた。

視界のホログラムボードを素早くフリックする。


――【購入確定:ナノ皮膜創傷軟膏・極小瓶×1】


カチャリと心地よい重みが麻袋の中で発生する。

梓は一切の無駄のない手際で小瓶を取り出すと、陳列台の上に滑らせた。


半兵衛はその小瓶を手に取り、日光にかざすように見つめながら、試すような低い声で切り出した。


「相変わらずの鮮やかな手際だ。……ときに、望月殿。表向きの『遠国の商人』として尋ねるが……これほど質の良い薬や鉄器を扱えるお主が、なぜわざわざ落日の気配が漂うこの美濃にまで脚を運んだのだ?」


昨夜、二人きりの秘密を共有したにもかかわらず、半兵衛はあえて公の場で「商人としての回答」を求めてきた。


梓はメガネのブリッジを親指で軽く押し上げると、知的な微笑みを浮かべて答えた。


「簡単な理由ですわ、竹中様。不満が溜まり、既存の流動性が滞っている市場ほど、外部からの良質なプロダクト投下によって『膨大な利ざや(利潤)』が生まれるからです。商売になるからこそ、私はここに居ます」


「……利ざや、か」


半兵衛はフッと口元を緩め、薬瓶を懐に収めた。


「相変わらず隙のない答えだ。……だが、ただの商売で済む時期は、もうすぐ終わるかもしれんぞ」


梓の眉がわずかに動いた。


(来た……一次情報の提供ね)


「と、おっしゃいますと?」


半兵衛は身を乗り出し、声を一段低く落とした。周囲の商人たちには届かない、密やかな声量。


「昨日……稲葉山城の本丸にて、我が主・斎藤龍興殿と美濃三人衆による緊急の『軍議』が開かれた」


「……軍議」


「そうだ。龍興殿は酒と小姓との遊興を削り、珍しく眼の色を変えておられたよ。『南の尾張が、木曽川の対岸で怪しい動きを見せている』とな」


半兵衛の鋭い瞳が、梓の表情の深層を探るように刺さる。


「城下の兵糧庫から、山上の本丸兵糧庫へと大量の米と塩が引き上げられ始めている。すでに城下の主要な穀物問屋には、斎藤家から『兵糧米の強制買い上げ(徴発)』の通達が回ったそうだ」


梓の脳裏で、金融アナリストとしての計算機が爆音を立てて回った。


(兵糧の強制徴発……! 既存の商人たちの資金繰りを破綻させる最悪の強権政治(強圧策)ね。これで城下商人の斎藤家に対する不満は確実なものになる。そして、近々の織田家との衝突を想定して動いている……)


「相手は……やはり尾張の織田信長様、でしょうか?」


「さあな」


半兵衛はとぼけるように首を傾げ、ゆっくりと立ち上がった。


「どちらが仕掛けるか、あるいは仕掛けられるか……。いずれにせよ、この稲葉山城下に『血の雨』が降る日はそう遠くない。……お主の買い叩くべき『市場』が蒸発してしまわねば良いがな」


半兵衛はそれだけ言い残すと、ひらひらと手を振りながら朝霧の奥へと消えていった。


梓はその背中を見送りながら、眼鏡の奥の瞳に鋭い決意の光を宿した。


(竹中半兵衛……貴重なインサイダー情報をわざわざ流してくれたのね。彼もまた、斎藤家のこの強引な兵糧徴発が、美濃の経済基盤を自ら破壊していることに絶望しているんだわ)


光の回線ネットワークと織田信長の歓喜

夕刻。

市場の喧噪が去り、夕闇が稲葉山城下を覆い尽くす頃。


梓は城下の端にある小さな商人宿の一室に戻っていた。


厳重に戸締まりを施し、部屋の四隅に盗聴防止の簡易センサーを設置する。

誰もいないこと、そして周囲に気配がないことを完全に確認した上で、梓は胸の前で両手を静かに重ねた。


(ChronoShop……広域通信モード展開。送信先:尾張・那古野城本陣)


梓の眼前に、淡い青光を放つホログラムの大型キーボードと操作画面が空間に浮かび上がった。


戦国時代というオフラインの世界において、梓の所持するインターフェースは現代の衛星通信を遥かに凌駕する暗号化超空間通信を可能にしていた。


梓は滑らかな指使いで、ブラインドタッチのように空間のキーを打ち込んでいく。


――【美濃・稲葉山城下リアルタイム戦略レポート】

・送信者:望月梓(CFO)

・受信者:織田信長


【現状分析およびインテリジェンス報告】

一、城内動向:斎藤龍興、尾張への警戒を理由に緊急軍議を召集。

二、兵站動向:城下穀物問屋から米・塩の強力な徴発を開始。山頂兵糧庫への集中移動を確認。近々の開戦リスク90%。

三、経済・人心動向:兵糧強奪に等しい徴発により、城下豪商の斎藤家に対する反発は危険水域に達す。資本の織田家への誘導(買い叩き)の準備完了。

四、キーパーソン動向:竹中半兵衛重治との暗黙的アライアンス(同盟)構築。内応および情報ルートとして極めて有効。


【推奨アクションプラン】

木曽川対岸でのダミーの兵力展開(威嚇)を継続し、美濃側に無駄な防衛コストと兵糧消費を強いること。美濃の内部経済が自壊した瞬間を狙い、資本と兵力で一気に併合すべし。


文字が光の粒子となってホログラム上で躍動し、確定キーとともに空間へ消えていく。


――【レポート送信完了】


同じ刻。

尾張・那古野城の本丸奥御殿。


暗がりの中で、織田信長は肘掛けに寄りかかり、手元に広げられた古びた美濃の地図を眺めていた。


その横の空間が、突如として仄かに青く揺らめいた。


信長の眼前にのみ現れる、半透明の光の板。

そこに、びっしりと印字された梓からの『リアルタイム戦略レポート』がスクロール表示された。


信長は漆黒の瞳をギラつかせ、記載された文字を一字一字、舐めるように読み進めていった。


読み終えた瞬間――。


「……ハッ! ハハハハハハハハ!」


豪快で、城の鴨居を震わせるような爆笑が部屋に響き渡った。


「殿!? いかがされましたか!」


廊下で控えていた重臣・柴田勝家が、不審に思って襖をバサリと開けて飛び込んできた。


信長は光の板を手で払って消すと(勝家には最初から見えていない)、愉快でたまらないといった様子で膝を叩いた。


「勝家! 美濃の龍興の奴め、木曽川の我が動きに怯えて、城下の商人から米を強奪し始めたぞ! 自ら国の首を絞めおったわ!」


勝家は目を白黒させた。


「は……? 龍興が兵糧を集めている……? 殿、何故そのような美濃の城の奥の決定を、今この瞬間に知ることができるのです!? 忍びの報告すら、まだ届いておりませぬぞ!」


信長は不敵に口元を吊り上げた。


「くくく……忍びなどという遅いものと一緒に突くな。我が尾張には、敵の城下に座りながら、敵の軍議の内容を即座に届ける『最高の密偵』……いや、『最高の頭脳』が居るのだ」


「……あ、梓殿でございますか!」


勝家は慄然とした。


美濃の厳重な警戒を潜り抜け、敵の心臓部からリアルタイムで軍議の情報を飛ばしてくる謎の女・望月梓。その恐ろしいまでの「情報収集能力」と「速度」に、武功派の勝家すら背筋に冷や汗をかかざるを得なかった。


信長は立ち上がり、壁に掛けられた太刀の柄を固く握りしめた。


「素晴らしいぞ、梓……! お前が美濃の血を止め、骨を断ち切っている。……良き密偵、良き鷹を得たものだ!」


信長は窓から北の空――美濃の方向を睨みつけ、低く命じた。


「勝家! 木曽川沿いの部隊に命じよ! 旗を増やし、夜も篝火を焚いて『明日にも攻め込む』見せかけを作れ! 龍興にさらに米を消費させ、商人たちを絶望させよ! 美濃を果実の如く熟させ、梓の手で摘み取らせてやるのだ!」


「ははっ!」


美濃・稲葉山城下の宿。


窓から差し込む静かな月光を浴びながら、梓は眼鏡を外し、疲れた目元を指先で優しく揉んでいた。


遠く、山頂に不気味に聳え立つ稲葉山城。


(信長様なら、このレポートの意味を完璧に理解して、美濃へのプレッシャーを最大化してくれるはず……)


戦国の歴史において、この稲葉山城は後に織田信長によって攻略され、「岐阜城」と名を改められて天下布武の拠点となる。


しかし、自分の介入によって――かつてのような泥沼の流血戦ではなく、『完璧な資本と情報のコントロールによる無血開城』という、新しい歴史のイノベーションが起ころうとしていた。


梓は再び眼鏡をかけると、冷徹で知的なCFOの瞳を取り戻した。


「さて……明日は美濃最大の穀物問屋の豪商と『融資ファイナンス』の交渉ね。斎藤家に見捨てられた彼らを、織田家の資金で救済し、物流の主導権を完全に掌握する」


戦国の歴史の裏側で。

刀も槍も持たない一人の女性が、現代の経済知略とテクノロジーを駆使し、巨大な大国・美濃を静かに、確実に解体していた。

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