第18話 美濃潜入
暗雲と黎明
那古野城の朝は、あまりにも早い。
まだ東の空が淡い群青色から薄桃色へと移ろい始める前、城下全体が冷たい朝霧のヴェールに深く包まれている刻限のことだった。
大手門の重厚な木扉の前に、二頭のたくましい引き馬と、頑丈に組み上げられた一台の荷車が静かに用意されていた。
荷車の輪の横で、旅装の羽織を羽織り、きりりと帯を締めて立っているのは――望月梓。
織田家の最高財務責任者(CFO)兼・総産業奉行として織田信長に仕える、二十五歳の現代人女性である。
昨夜、信長の奥の部屋にて下された厳重なる最高機密――密命。
その内容は、織田家の覇道の最大の障壁であり、尾張の北に君臨する大国・美濃への単身潜入であった。
表向きは「遠国からやってきた腕利きの女大商人」。
その正体を秘して稲葉山城下の巨大な市場へと深く入り込み、領内の物流と経済の構造を解析し、情報を精査すること。
そして何より――利権と金の力をもって、美濃の市場を牛耳る豪商や重臣たちを織田家側へと抱き込み、戦う前に敵国を経済的に自壊させること。
戦国の世において、一度露見すれば即座に打ち首、あるいは凄惨な拷問が待っている極めて危険な極秘任務であった。
梓が荷車の縄を締め直していると、朝霧の奥から軽快な足音が近づいてきた。
城門の陰から現れた男が、ひょうきんな手つきで軽く手を振る。
「おやおや……これはこれは梓殿。こんな朝早くから、どこへお出かけでござりますかな?」
そこに立っていたのは、木下藤吉郎であった。
まだ織田家の中では若手の一武将に過ぎないが、その類稀なる機転と行動力で信長から重用され始めている男。後の天下人・豊臣秀吉その人である。
梓は手元を止め、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、ふっと口元に静かな微笑を浮かべた。
「おはようございます、藤吉郎さん。……ちょっとした『遠方への新規市場開拓(マーケット開拓)』ですよ。信長様からの密命を受けましてね」
藤吉郎は左右の気配をさりげなく伺うと、すっと肩をすくめ、ひそひそ声で声を落とした。
「なるほど……。昨夜、殿が奥の間へ梓殿を呼び出されたのはその件でござりましたか」
藤吉郎は細い目をさらに細め、声音に真剣な色彩を宿らせた。
「……行き先は、北の『美濃』ですな?」
梓は一切否定せず、ただ静かに一回だけ頷いた。
藤吉郎は「やれやれ」と言わんばかりに頭を抱え、苦笑いを漏らした。
「殿もずいぶんと無茶な差配をなさる……。あそこは今、斎藤龍興が家督を継いでからというもの、国中がピリピリと警戒を強めておりますぞ」
「承知しています」
「龍興自身は暗愚な若造と噂されておりますが、その脇を固める『美濃三人衆』をはじめとする重臣どもは一筋縄ではいかぬ百戦錬磨の化け物ばかり。どうか……どうかお気をつけてくだされ」
藤吉郎の言葉には、道化の面の下にある真摯な気遣いが溢れていた。
梓は自慢の荷車へと視線を向けた。
厳重に菰で覆われた荷車には、極上の手触りを誇る綿布や、昨夜『ChronoShop』から引き出したばかりの最高品質の鋼鉄製農具、包丁、そして感染症を劇的に抑え込む奇跡の錠剤や消毒液が入った木箱が所狭しと積み込まれている。
「大丈夫です。私の『サプライチェーン』と商品力があれば、美濃の商人たちの胃袋と懐を掴むのは難しくありませんから」
藤吉郎は荷車に積まれた刃物や農具の完璧な出来栄えを指先で確かめ、ため息をつくように感心した。
「……しかし、いつ見ても凄まじい質の品々ですな。一体全体、どこの国の鍛冶や薬師がこれほどの物を仕立てるのやら」
「さあ? 『遠国の秘密の工房』とだけ言っておきましょうか」
梓は煙に巻くように答えた。
藤吉郎もそれ以上は深く追及してこない。信長が全幅の信頼を置くこの奇跡の女性奉行に対して、野暮な疑いは無用だと弁えているのだ。
「では、藤吉郎さん。留守中の尾張の財務と清洲の病院の予算管理、よろしくお願いしますね」
梓はしなやかな動作で馬の鞍へと身を躍らせた。
藤吉郎はニシシと鼻の下をこすり、威勢よく手を振った。
「お任せくだされ! 戻られた折には、極上の美濃の土産話と……できれば美味い酒でもご馳走してくださいな!」
「ええ、約束します」
ギギギ……と重厚な音を立てて、那古野城の大手門が開かれていく。
朝霧の向こう側に伸びる一本の街道。
それは、尾張の平和な城下町を抜け、険しい国境の山々を越え、未だ見ぬ敵国・美濃へと続く道であった。
梓は手綱を握り直し、馬の腹を軽く蹴った。
パカッ、パカッ……と蹄の音が朝霧の街並みに規則正しく響き渡る。
境目の峠と山賊の群れ
那古野の城下を完全に抜けると、風景は一変した。
両脇には見渡す限りの田畑が広がり、朝早くから腰を曲げて泥にまみれながら作業をする農民たちの姿があった。
馬上でその光景を静かに見下ろしながら、梓の頭脳の中ではアナリストとしての計算が自動的に展開されていた。
(……この時代の農業生産性は、あまりにも低すぎるわね)
木製の脆い鍬で必死に硬い土を掘り返す農民たち。
品種改良もされていない作物は病害虫に弱く、ひとたび天候が崩れれば数万の人間が飢え死にするリスクと隣り合わせだ。
(農具の規格化、肥料の科学的投入、そして市場への物流効率化……。この三つを改善するだけで、この国のGDPは数倍に跳ね上がる。美濃を攻略した後は、農政改革にも本格的に着手しないと)
そんな未来のロードマップを思い描いているうちに、太陽は頭上高くへと昇り、街道は次第に勾配を増していった。
尾張と美濃の国境を分かつ、険しい峠道。
道幅は馬一頭と荷車が一台やっと通れるほどに狭まり、鬱蒼と茂る原生林が日光を遮って、あたりには不気味な薄暗がりが立ち込めていた。
この時代、国境の峠道は警察権力が届かない無主の地であり、落ち武者狩りや山賊が横行する極めて危険なデッドゾーンであった。
梓は手綱を握る手に少しだけ力を込め、周囲の気配に警戒を強めた。
――その時である。
「ハハハハ! 待て待てぇい!」
鬱蒼とした茂みから、ガサガサと音を立てて数人の男たちが飛び出してきた。
頭に薄汚れた手ぬぐいを巻き、錆びついた槍や太刀を手にした男たち。顔には泥と煤がへばりつき、目は飢えた狼のようにギラギラと光っている。
山賊だ。数は5人。
先頭の巨漢が、錆びた槍の穂先を梓の鼻先へと突きつけて下卑た笑いを浮かべた。
「おやおや、なんとも景気の良い女商人様じゃねえか! 馬に立派な荷車まで引かせてよぉ!」
「おい、あの女の顔を見ろよ! めちゃくちゃ器量良しだぞ!」
「ヘッヘッヘ、荷物も馬も、その身ぐるみも全部ここに置いていってもらおうか!」
典型的な街道のならず者たち。
普通の商人や町娘であれば、この時点で腰を抜かして泣き叫ぶか、命乞いをするのが関の山だろう。
しかし――望月梓は馬上で一切動じることなく、冷ややかな眼差しで山賊たちを見下ろした。
(……ハァ、全く。時間のロス(ロスタイム)ね)
梓は溜息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げた。
相手は5人の武装した男。護衛を連れずに単身で山を越えようとしたのは、この『ChronoShop』の防衛機能をテストするためでもあった。
(インターフェース、展開)
梓の思考と同期し、視界の中央に青光を放つホログラムボードが滑らかに立ち上がる。
――【カテゴリー:個人防衛・戦国互換武具】
――【検索:軽量高剛性・最新チタン合金製長槍】
梓は思考のタップで、インベントリ内にプールしてあった現代技術で作られた特殊仕様の長槍を指定した。
『転送確定:高純度チタン・カーボン複合柄長槍』
次の瞬間――
梓が何もない空間へ静かに右手を差し伸べると、光の粒子が収束し、漆黒の美しい柄と、鏡のように研ぎ澄まされた銀色の穂先を持つ一本の長槍が、突如として彼女の手の中に現れた!
「な……っ!?」
山賊たちが目を見張った。
「い、今……何もないところから槍が出現しやがったぞ!?」
「手品か!? 妖怪の類か!?」
山賊たちが動揺したその一瞬の隙を、梓は逃さなかった。
梓は馬から軽やかに飛び降りると、槍の柄を脇にしっかりと抱え込んだ。
彼女は現代において、護身術として古流の槍術を完璧に修めていたのだ。外資系アナリストとしての明晰な頭脳だけでなく、自分の身は自分で守るという徹底したリスク管理の一環であった。
「な、舐めやがって! 女一人が槍を持ったところで何ができる――」
先頭の巨漢が死角から襲いかかろうとした瞬間!
シィィィンッ!
疾風のごとき槍の突き。
梓の放った鋭い一撃は、山賊の突き出した錆び槍の穂先を完璧な精度で捉え、カンッ! という甲高い金属音とともに一瞬で弾き飛ばした!
「がはっ!?」
手元を痺れさせ、武器を失った巨漢が呆然と立ち尽くす。
次の瞬間には、梓のチタン製の鋭い穂先が、寸分の狂いもなく巨漢の喉元からわずか一ミリの距離でピタリと停止していた。
空気を切り裂くような洗練された槍捌き。無駄のない武芸者の踏み込み。
「ひっ……!?」
喉元に冷たい死の感触を突きつけられ、巨漢は膝をガクガクと震わせた。
後ろに控えていた残りの山賊たちも、恐怖のあまり後ずさりする。
「こ、こいつ……ただの女商人じゃねえ!」
「武将の身内か……!? 槍のキレがヤバすぎる!」
梓は漆黒の長槍を構えたまま、氷のように冷たい声で静かに告げた。
「……道を、開けてください」
その声には一切の感情が籠もっておらず、だからこそ断りを出せば次の瞬間に喉を穿たれるという絶対の死を予感させた。
山賊の頭目は唾をゴクリと飲み込み、震える声で叫んだ。
「ひ、ひえぇぇっ! と、とおせ! 道を開けろぉっ!」
山賊たちは蜘蛛のの子を散らすように慌てて茂みの奥へと逃げ出していった。
梓は槍を静かに下ろすと、何事もなかったかのように『アイテムボックス』へと格納した。空間に槍が消えていくのを確認し、服のホコリをポンポンと叩いて払う。
「ふう……余計な運動をさせないでほしいわね」
鞍へと乗り直し、再び手綱を握る。
トラブルを即座に処理した梓の顔には、再び冷徹で知的なアナリストの表情が戻っていた。
難攻不落の巨城
峠道を下りきると、突如として視界が劇的に開けた。
目の前に広がるのは、豊かな水量をたたえる長良川と、どこまでも青々と広がる広大な濃尾平野の北半球――美濃国である。
そして、その平野の中央に聳え立つ切り立った岩山・金華山の頂に、まるで天を突く要塞のように君臨する巨城が見えた。
――稲葉山城。
かつて「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三が築き上げ、現在はその孫・斎藤龍興が居城とする、難攻不落と謳われる天下の名城である。
梓は馬を止め、美濃の大地と、遥か山頂に聳える稲葉山城をじっと見つめた。
城の下には、長良川の水運を利用した広大な城下町が広がり、無数の船や大八車が行き交っているのが遠目にも確認できた。
(……あそこが、今回のターゲット(市場)ね)
史実において、織田信長がこの稲葉山城を攻略し、名を「岐阜」と改めて天下布武への決定的な一歩を踏み出すのは、まだ少し先のことだ。
だが、今この瞬間から――
望月梓という一人の現代人女性の手によって、その歴史の裏側で決定的な構造改革が始まろうとしていた。
武力で城を囲み、数千の兵を死なせるような無骨なやり方はしない。
市場の価格を支配し、
不純物のない高品質な物資で民と職人を魅了し、
潤沢な資金で豪商たちを味方につけ、
斎藤家の財政ラインを根底から締め上げる。
(斎藤龍興……あなたがどれだけ頑丈な城に閉じこもろうと、経済の血流を止められたら国は一ヶ月も持たないわ)
梓は眼鏡のブリッジを押し上げ、不敵で知的な笑みを浮かべた。
「さて……市場調査と、最初の買収工作(M&A)を始めましょうか」
梓は馬の腹を軽く蹴り、美濃の活気あふれる城下町へと向かって、静かに、そして確実に歩みを進めていった。
戦国の世を動かすのは、刀の切れ味だけではない。
資本とテクノロジーと知略が織りなす、新しい時代の戦いが、いま幕を開けようとしていた。




