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世界を変える女・改訂版  作者: 此花サギリ


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第12話 兵糧策動

夜の清洲城は、昼のあの荒々しい熱気と hammer の重低音が嘘のように、静謐で深い沈黙の顔を見せていた。


城内の灯明はところどころに揺れ、廊下の木床を踏み鳴らす遠くの見張りの足音だけが、かすかに、だが規則正しく響いてくる。


尾張の初夏の夜風が格子窓から吹き込み、清涼な畳の上を静かに撫でていった。


その一室で、望月梓もちづき あずさは腕を組み、正座して考えにふけっていた。


「……やっぱり、まだ完全に日常として慣れたわけじゃないな」


小さく呟き、梓は自分の着ているスーツの袖口に視線を落とした。


数日前まで、自分は現代の東京で外資系証券会社のアナリストとして、数字とディスプレイの群れに囲まれて暮らしていたのだ。


だが、今彼女がいるのは過酷な戦国時代――それも織田上総介信長が治める尾張国、清洲城。

そして運命のいたずらか、梓は昼の評定を経て信長から直々に「織田家最高財務責任者(CFO)兼・総産業奉行」という破格の役職を与えられ、正式に家臣として召し抱えられている。


普通なら夢物語か狂気の沙汰だ。

だが、それ以上に信じがたい現実が、梓の身には起きていた。


それは――彼女の視界にのみ展開する、システムと売買の力。


梓が静かに右手を出して空間を撫でると、空中に淡く光るホログラムウィンドウが浮かび上がった。


それは透明感のある板のような形をしている。完全な物質ではない。光の粒子で構成されているかのように、向こう側の畳や柱が透けて見える。

人前に出しても誰も一切反応しなかった。つまり、この『ChronoShop』のインターフェースは梓の脳神経に直接投影されている、彼女だけの秘密兵器なのだ。


板の上に浮かび上がるシンプルなアイコン。


――【購入(Buy)】

――【売却(Sell)】

――【アセット残高(Asset)】


このシステムが表示する数値は、この戦国時代で手に入れた銭、金銀、あるいは米や資材といった現地の流動資産の価値と完璧に連動している。

現地の金銭や物資を「インプット(売却)」することでシステム上のポイントへと変換し、そのポイントを使って未来の知識、素材、精密工具を「仕入れる」ことができる。


昨日、試しに尾張の農家から手に入れた米を一石、システムにインプットしてみた時のことが脳裏に蘇る。


――売却確認

――品目:米 一石

――換算アセット価値:銀〇〇貫 チャージ完了


システムをタップした瞬間、手に持っていた米俵が光の霧となって消え去り、アセット残高の数字が一瞬で跳ね上がった。


その瞬間、梓はアナリストとしての直感で確信したのだ。


「……これは、戦国時代の『市場』そのものをハックできる」


戦国の世において、誰にも気づかれずに未来のテクノロジーと現地の物資を無制限に循環マネタイズさせることができる。

もし、五条川の水車工場で量産される鉄砲に加え、圧倒的な規模の『米』を市場で買い集め、流通を支配したらどうなるか。


兵糧を制する者は、戦の勝敗どころか大名たちの生死(破産と存続)を握る。


梓は眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに息を吐いた。


「まずは……織田家内での絶対的な信用と実績を固めることね」


いきなり市場の米を強引に買い占めれば、既存の商人や他国の大名から警戒される。

だからこそ段階的ステップ・バイ・ステップだ。

米の集中取引所を立ち上げ、価格を平準化しつつ、裏でシステムを介してアセットを安全に運用していく。


その時だった。


「梓殿」


静かな廊下から、控えめだが張りのある声が届いた。


障子を開けると、そこに立っていたのは――


木下藤吉郎であった。


昼間の作業着から着替え、まだ身なりこそ控えめだが、その瞳には底知れない鋭さと愛嬌が同居している。後の天下人・豊臣秀吉である。


「夜分に失礼いたしますぞ」


「藤吉郎さん。どうされました?」


藤吉郎はニシシと鼻をこすり、声を潜めた。


「殿がお呼びじゃ。大至急、奥の御間へ来られたよ」


「信長様が……?」


梓は迷いなく立ち上がった。


「すぐ参ります」


二人は燭台の灯りが揺れる暗い廊下を静かに進む。

夜の清洲城は冷んやりとした空気に満ちていたが、その静寂の底には、いつ戦端が開かれてもおかしくない戦国特有の張り詰めた緊張感が漂っていた。


やがて、信長が待つ奥の部屋へと到着した。


「殿、梓殿をお連れいたしました」


「入れ」


重厚で低い声が室内から返る。


襖を開けて室内に入ると、そこには上着を崩し、片膝を立てて薄焼きの杯で酒を煽っている織田信長の姿があった。

灯明の揺らめく光に照らされたその輪郭は、野性味と冷徹な知性が同居した、息を呑むほど鋭い圧力を放っている。


「来たか、梓」


「はっ。お呼びにより参上いたしました」


梓は美しい動作で畳にひざまずき、深く頭を下げる。


信長は手の中の杯をゆっくりと回しながら、刺すような眼光で梓を見つめていた。

そして、前置きもなく静かに言い放った。


「おぬし……清洲と津島で、米を極秘裏に買い集めておるそうだな」


――一瞬、部屋の中の空気が凍りついた。


藤吉郎が息を呑む気配が伝わってくる。

だが、梓の表情はピクリとも動かない。冷静なアナリストの脳が、瞬時に信長の問いの真意を分析する。


(試されている……。自分の動向がどこまで把握されているか、そしてその目的が織田家に利益をもたらすものかどうかを)


梓は伏せていた顔をゆっくりと上げ、信長の視線を真っ向から受け止めた。


「ええ、集めております。信長様」


「ほう……なぜだ? 鉄砲工房の建設だけでも金がかかるというのに、なぜ米まで買い溜める?」


信長の短い問い。だが、答えを誤れば一瞬で「謀反の疑い」や「私腹を肥やす奸臣」として首が飛ぶ局面だ。


梓はハキハキとした澄んだ声で答えた。


「兵は、腹が減っては戦えませぬからでございます」


信長の目がわずかに細くなる。


「続けよ」


「鉄砲という最強の『火力を整えること』と、兵糧という『エネルギーを蓄えること』は、織田ホールディングスにおける両輪でございます。戦が起これば米の価格は高騰し、民は飢え、兵は疲弊します。だからこそ、平時のうちに織田家が市場の米を買い集めて備蓄し、市場の価格(相場)を安定させる必要がございます」


梓は畳に指を立て、堂々とプレゼンを続けた。


「米を備蓄しておけば、織田軍はいつでも季節を問わず遠征が可能となります。米の流通を制する豊かな国こそが、乱世において絶対に倒れない最強の国となるのです」


信長は無言のまま、手に持っていた杯をコトンと畳の上に置いた。


緊張が極限に達したその瞬間――


「……ハハ」


信長が肩を揺らし、次の瞬間、大天井を揺らすような高笑いを破裂させた!


「ハハハハハハハ!!」


傍らに控えていた藤吉郎が、驚きのあまり目を丸くしている。


信長は不敵な笑みを浮かべたまま勢いよく立ち上がると、長い脚で梓の目の前まで歩み寄ってきた。


「面白い……! やはりおぬしは、この乱世で唯一わしと同じ『未来』が見えている女だ!」


信長は梓を見下ろし、野望に満ちた瞳で宣言した。


「その通りだ! 戦は刀や槍の強さだけでは勝てぬ! 兵糧と金を握り潰した者が、戦う前に敵を滅ぼすのだ!」


信長は腰の刀の柄に手を置き、力強く命じた。


「清洲と津島の蔵を開け! 織田家の銭も米も、おぬしの好きなように使って米を集めよ!」


「殿……! よろしいのですか!?」藤吉郎が声を上げる。


信長は口元を凶悪に歪めて笑った。


「構わん! 梓、おぬしに尾張すべての『兵糧運用アセットマネジメント』の全権を与える! ただし――」


信長は梓の目の前へかがみ込み、至近距離で鋭い眼光を突きつけた。


「完璧な結果を出せ。わしの投資に見合うだけの兵糧と金を作ってみせろ。……出来ねば、その綺麗な首が飛ぶと思え」


静かな、だが一切の容赦がない戦国大名の通告。


梓は眼鏡の奥の瞳を青く光らせ、不敵に口元を緩めた。


「御意にございます、信長様。私の辞書に『赤字(敗北)』の二文字はございません」


信長はその答えに満足し、高らかに頷いた。


「良い! 藤吉郎!」


「は、ははっ!」


「おぬし、本日より梓の足となり手となって動け! 尾張中の商人どもを叩き起こして米を集めさせよ!」


藤吉郎は揉み手をしながらニシシと笑った。


「ハハッ! 承知仕りましたぞ! 梓殿、いやあ、これは面白くなってまいりましたな!」


こうしてその夜、望月梓は軍事プラントの構築に加え、織田家すべての「兵糧流通および市場介入」の全権を掌中に収めたのである。


部屋へ戻った梓は、一人静かに畳の上に座り直した。


静寂を取り戻した室内で、彼女は右手をすっと前に突き出す。


瞬時に空中に現れる、半透明の光の板――『ChronoShop』。


光のように揺れるウィンドウには、最新のデータがリアルタイムで更新されていた。


――【アセット管理】

――【米・物資集積データ:尾張全域】

――【利用可能資金:銀120貫】


誰にも見えない。触れることもできない。

だが、確実に彼女の手に握られた未来のテクノロジー。


梓は口元に知的な笑みを浮かべ、画面を優しくタップした。


「……信長様から全権と資金が出たなら、話は早いわね」


織田家の公式な資金を使って尾張中の米を大量買い付けし、その一部を安全にシステムにインプットして運用アセットを爆発的に増やす。

そして、その資金で『硝石精製』『鉄砲量産』『近代農具』のテクノロジーをChronoShopから買い引き出し、尾張の地に還元していく。


完全な経済とテクノロジーの永久機関ポジティブ・スパイラル


梓は空中に浮かぶ光の画面を見つめながら、静かに呟いた。


「さあ……戦国の市場マーケット、本格的に買い上げてみせようじゃない」


その夜、清洲城の上空には、冷ややかな月が静かに昇っていた。


だが、尾張の国の未来は、この一人の現代人女性の手によって、劇的なスピードで塗り替えられようとしていた。


五条川の水車が打ち鳴らす鉄槌の音。

市場を駆け巡る米と資金の奔流。

そして、織田信長という時代を超越した怪物との共闘。


そのすべてが噛み合った時――


16世紀の日本は、武士たちの血生臭い合戦の時代から、圧倒的な生産性と資本が支配する「新しい近代国家」へと、大きな産声を上げて加速し始めていた。

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