月光ワルツ・ファンタジア「月の下の再会」
運命とは、忘れたころにやってくるものらしい――。
星歴623年4月。ステラリア聖王国。
王城の舞踏会場に、シャンデリアの光が満ちていた。
磨き上げられた床に反射し、影の輪郭を溶かしていく。
作り上げた笑みを貼り付けた貴族たちが、大きなホールを埋め尽くしていた。
それぞれの香水と蝋燭の匂いが混ざりあい、喉の奥にまとわりつく。
シエル・オルディナス・ステラリアはため息をついた。
前髪で目を覆い隠すほどの漆黒の髪と、その隙間から見える真っ赤な瞳。
視線を引き寄せるのに、どこか近づくのを躊躇わせる顔だ。
黒髪に赤眼――王族に稀に現れる、災いの兆しとされる容姿。
父母のどちらにも、その特徴はなかった。
二人がその迷信を信じていないことだけは、救いだった。だが、王城の外ではそうもいかない。
シエルの前に、貴族たちが列をなす。多くの貴族が順々に深く礼をして話しかけてくる。
時折、ひそひそと距離を置いたささやきが、耳に届いた。
思わず手に力が入る。直接何か言われることはない。
幼い頃は遠巻きにされるたびに不安だったが、それも成長するにつれて慣れていった。
ただ、仮面を貼り付けたような貴族たちの表情は未だに慣れない。
いつもと変わらない、息苦しい夜だった。
ただ、いつもと違うのは今日の舞踏会はデビュタントボールということだ。
純白の手袋をつけて、首には白いチョーカー、色とりどりに着飾った少女たちは社交界の仲間入りを夢見て目を輝かせている。
今年で18歳になるシエルは、婚約者を選べと父王に命じられ、この舞踏会に参加していた。
不吉と言われている自分を選ぶ貴族などいないだろうと思ってはいるが、その容姿なのか、ミステリアスな雰囲気のせいか、少女たちは期待の視線を送ってくる。
少女たちの視線を受けながら、シエルはひとりひとりの顔を静かにたどっていく。
白いチョーカー。純白の手袋。どの少女も、緊張と期待が入り混じった顔をしていた。
ひとり、またひとりと顔を確かめるたびに、胸の奥で、何かが静かに首を振る。
注目されるのは嫌ではなかった。
ただ、どの顔も、どの笑顔も、記憶の中のあの子に重なってしまう。
それを承知でここに立つ自分が、ひどく滑稽だった。
「殿下、本日は娘をご覧いただけますでしょうか。今年16になりまして——」
また声をかけられた。振り返ると、中年の貴族が深々と頭を下げている。
笑顔だった。だが、目は笑っていない。
シエルは微笑んだまま、適当に相槌を打った。娘の名前は、ほとんど耳に残らなかった。
入れ替わるように、また別の貴族が近づいてくる。
全員が同じ顔に見えた――笑顔という仮面の下で、何を考えているかなど知れない。
シエルは自分の口角が、自然に上がるのを感じた。
――おそらく自分も、同じように見えているのだろう。
シエルは笑みを崩さぬまま、視線だけを伏せた。
――息苦しい。
貴族たちとの会話をうまく切り上げ、会場を後にした。
扉を抜けると、喧騒が嘘のように消えた。
絨毯が足音を吸い込み、コツコツという靴音だけが壁に反響する。
シエルは一度立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。
肺の中に残っていた香水と蝋燭の匂いが、少しずつ薄れていく。
庭園へ向かう足は、自分でも不思議なほど迷わなかった。
庭園に着くと、辺りは暗かったが、満月の白い光が地面を淡く照らしていた。
辺りを見渡したシエルの視界に人影が入り、ぴたりと足が止まる。
月明かりの下、薄茶色の髪を、背に長く三つ編みにした少女がうつむいて座っている。緑のドレスの裾が夜風にわずかに揺れ、どこか遠くで虫が鳴いていた。
何かあったのかと、彼女に近づく。近づくにつれ、りんごに似た甘い草の香りが鼻をかすめた——カミツレだ。
知っている。この香りを。
心臓が、止まりそうになった。
——まさか。
「……君は」
声をかけると、少女はぱっと顔を上げた。草色の瞳がこちらを見つめる。
忘れるはずがない。シエルは息を呑んだ。
――あの少女だ。
記憶が一気に押し寄せた。
はじまりを知らせる鐘の音。
春の庭園に咲いていた白い花の香り。
走り回った石畳の感触。
転びそうになった彼女が、不満そうに頬を膨らませた顔。
そして――彼女の笑顔。交わした約束。
『ぼくが大人になっても、きみを泣かせない。
どんな未来でも、きみの隣を選ぶ』
『じゃあ、わたしも約束する。
あなたが逃げたくなったら、ちゃんと叱ってあげる』
ある日、突然姿を消してしまった少女。理由も、行き先も、何も知らされなかった。
ずっと忘れられなかった少女。
あれは、まだ幼かった頃の話だ。あの日から、もう6年が経つ。
彼女の瞳には少しの不安と警戒の色がにじんでいた。
長い純白の手袋、首にあるのは白のチョーカー——デビュタントの参加者だ。
「大丈夫か?」
「え、あ……はい。ただ、少し、息抜きをしていただけで……」
彼女は礼儀正しく答える。まるでいま初めて出会ったかのような態度に、心がざわめく。
彼女は覚えていないのか、それとも自分の記憶違いか。
あの頃より背が伸びている。声も、幼さも、変わっていた。確かに面影はある。だが雰囲気は、どこか違う気もした。
それでも、間違えるはずがない。
絶対に彼女だ――。
いままでどんなに忘れようとしても、忘れられなかった少女。
自分のことを覚えていないのか。それとも、覚えていないフリをしているのか。
どちらでも、今は関係なかった。
シエルは名乗らないまま、そっと手を差し出す。
「一曲、付き合ってくれないか」
戸惑いのあと、少女——フルール・ラヴィーヌは小さくうなずいた。
遠くのホールでは、まだ音楽が鳴っているはずだった。けれど今のシエルには、それが別世界の出来事のように思えた。
笑い声も、グラスの触れ合う音も、月光の中では不思議と輪郭を失っていく。
シエルは胸の高鳴りを押し殺しつつ、彼女の手を取った。手袋越しにも伝わってしまいそうで、思わず息を詰める。
この数年、忘れていた感覚――いや、これほど強い感情は、生まれて初めてかもしれない。
フルールは最初こそ、手を引くように身を固くした。視線は少し下を向いたまま、ステップを踏む足も、どこかおそるおそるといった様子だった。
だが、シエルが意識してゆっくりとリードすると、少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。
白い手袋の奥で、握り返す指の力がわずかに変わる。緊張がほどける気配に、理由のない安堵が広がる。
ステップを踏むたび、世界がゆるやかに回り、視界が静かに円を描く。月光の下で踊るのは、舞踏会のホールとは違う。照らすのはシャンデリアではなく、満月ひとつ。
王も貴族もいない。視線すら届かない。見ているのは貴族たちではなく、夜の静寂だけ。
回るたびに、緑のドレスの裾が広がり、薄茶色の髪が揺れる。
フルールが時折、視線を上げる。目が合うたびに、喜びと恐れが、同時に込み上げる。
——そうか。自分もずっと、直視することから逃げてきたのだ。
それでも今は、目を逸らせなかった。
シエルは無意識に、その光景を目に焼き付けようとしていた。また消えてしまうかもしれない。また、いなくなってしまうかもしれない。 そんな恐れが、胸の奥に静かに積もっていく。
「……不思議ですね」
彼女がぽつりと言う。
「何が?」
「初めて会った気がしなくて」
シエルは離さぬよう手に力を入れ、静かに告げた。
「もしかしたら、僕たちは前世で結ばれた恋人だったかもしれないね」
いつもなら言わない言葉。どうやら、かなり浮かれているようだ。
ふいを突かれたように草色の瞳が揺れる。
「そうだったら……それは、素敵なお話ですね」
そう言って、彼女はふっと笑った。
笑顔を向けられた瞬間、シエルは思わず視線を逸らしそうになった。眩しすぎて、まともに見ていられない。
子どものころも、そうだった。あの頃から何も変わっていない。
——やはり、君だ。
声に出したら崩れてしまいそうで、シエルは唇を結んだ。
この数年、何度あの笑顔を思い出しただろう。
どの少女と目が合っても、どの笑顔を見ても、必ず彼女と比べていた。
そのたびに、違う、と思った。でも今は――
音楽が終わりに近づく。時間が、動き出そうとしている。
終わってほしくない。
そう願いながら、シエルは目を閉じた。最後の回転。
夢の終わり、いや始まりなのかもしれない。
静寂。
目を開けると、フルールはまだそこにいた。少し息を弾ませ、不安そうにこちらを見ている。
さっきまで貼り付けていた笑顔が、今はもう必要ない気がした。
「……ありがとうございました。あの、あなたは……」
シエルはほほえみ、何も答えない。
ただ一言、低く告げた。
「また、踊ろう。——今度は、逃げずに」
彼女は困ったように目を瞬かせた。
その表情を背中に感じながら、シエルは夜の中へ戻った。
廊下に戻ると、舞踏会の喧騒が遠くから押し寄せてきた。さっきまでいた世界が、もう別のものに思えた。
シエルは歩きながら、右手を見つめた。手袋越しでも伝わってきた温もりが、まだそこに残っている気がした。
――フルール。
名前だけを、6年間抱えてきた。それだけで、胸の奥が軋む。どうやら自分のことを覚えていないらしい。
なぜいなくなったのか。いままでどうしていたのか。
聞きたいことは山ほどあった。
整理のつかない頭とは裏腹に、廊下は静かだった。コツコツという靴音だけが、壁に響いている。
運命とは、忘れたころにやってくるものらしい――。
だが一度巡り合ってしまえば、もう二度と、忘れることなどできない。
会場につながるドアへと手を伸ばしながら、これからのことを考える。
「次は同じ結末にはしない」
決意と共に、小さくつぶやく。
恋と呼ぶには重く、執着と呼ぶには純粋すぎる。
シエルは静かに目を閉じた。まぶたの裏に、緑のドレスが揺れる。
満月の下で笑うフルールの顔が、くっきりと浮かんだ。
――また、踊ろう。今度は逃げずに。
自分が告げた言葉が、今度は自分自身に刺さる。ずっと、そう思い込んでいた。逃げたのはフルールだと。
だが本当は——確かめることから逃げていたのは、自分だったのかもしれない。
シャンデリアの光が、また目に飛び込んでくる。
さっきまで息苦しかったはずの空間が、どこか違って見えた。光の粒ひとつひとつが、さっきとは違う色をしているような気がする。
シエルは静かに息を吐き、シャンデリアの光の中へ踏み出した。
夜はまだ、終わらない。
6年越しに、ようやく物語が動き出した。
そんな予感だけが、胸の奥で静かに鳴っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




