番外編 朝焼けのあとの静寂
東の空が、濃い藍色から薄紅色の混じった菫色へと移り変わる頃。
街が新しい一日を始めるための準備運動を始めるその時間に、〈花屋・霜月〉の営業は静かに幕を下ろす。
律季のような客たちが、それぞれの「想いの花」を胸に抱いて立ち去った後、店の中には色とりどりの感情の残り香だけが、朝霧のように滞留していた。
店主の霜月は、最後の一人が店を出たのを見届けると、ゆっくりと表の木製のドアを閉め、真鍮の鍵をかけた。
カチャリという小さな音が、幻想と現実を切り分ける合図だった。
その瞬間に、路地の灯りはふっと消え、鏡や霧を通して繋がっていた「入り口」は、ただの古びた壁へと戻っていく。
彼女は、まず大きく一つ、深呼吸をした。
夜の間に多くの人々の後悔や願い、痛みを受け止めたその体は、目に見えない重力に引かれているかのように重い。
けれど、彼女の瞳には疲労の色よりも、無事に夜を越えたという安堵が滲んでいた。
彼女はカウンターに立てかけていた箒を手に取り、床を掃き始めた。
散った花びらの欠片、客の靴が運んできた僅かな砂、そして想いの雫が固まったような光の粉。
それらを丁寧に集めていく。この「掃除」こそが、彼女にとっての儀式だった。
他者の想いに深く沈み込んだ自分を、再び真っさらな「霜月」という器に戻すための大切な時間。
清掃を終えると、彼女は白いエプロンの紐を解いた。
一晩中、誰のどんな感情にも染まらず、ただ純白を保ち続けたその布を、彼女は神聖な供物を扱うような手つきで折り畳む。
そして、店の奥にある自分だけの生活空間へと足を運んだ。
そこは、表の花屋とは打って変わって、生活感の漂う簡素な部屋だった。使い込まれた木のテーブル、小さなガスコンロ、そして使い込まれた陶器のカップ。
彼女は小さな鍋に火をかけ、一杯の白湯を沸かした。朝食は、一切れのパンと、昨夜の残りのスープ。
そして、自分自身のために束ねた、一輪の飾り気のない野花。
椅子に深く腰掛け、窓から差し込む朝の光を眺める。
都会の朝は騒がしい。トラックの音、駅へ急ぐ人々の足音、遠くで響くカラスの声。
それらはすべて、彼女が守っていた「夜」を侵食していく光の暴力のようにも思えたが、同時に、人々の営みが続いていることへの祝福のようにも感じられた。
彼女はスープを一口啜り、ゆっくりと喉を潤す。
「……今夜も、良い花が咲きましたね」
誰に聞かせるでもなく、彼女はぽつりと呟いた。
律季が持って帰った暁の百合の熱、老紳士が流した涙の純度、少年の名前のない葛藤。
それらすべてを思い返し、彼女は自分の指先を見つめる。彼女の指には、それらの花の香りが染み込んでいた。
食事を終えると、彼女は使い終えた食器を丁寧に洗い、棚に並べた。
そして、カーテンをきっちりと閉める。夜の住人である彼女にとって、太陽の光は少しだけ眩しすぎるのだ。
ベッドに横たわり、目を閉じると、瞼の裏には再びあの路地の風景が浮かんでくる。
今夜、また誰かが暗い表情で自販機の横に立ち止まるかもしれない。
自分でも気づかない「届けたかった言葉」を握りしめた誰かが、この扉を探すかもしれない。
彼女は眠りに落ちる直前、心の中で小さな祈りを捧げる。
どうか、今夜もその想いが散る前に、ここへ辿り着けますように。
どうか、私の束ねた花が、誰かの長い夜を明かす一筋の光になりますように。
朝焼けのあとの静寂。
世界が光に満ちていく中で、夜の花屋の主は、深い眠りへと沈んでいく。
次に彼女が目を覚ますとき、世界は再び闇に包まれ、冷たい夜風が想いの種を運んでくる。
そして彼女は再び、あの真っ白なエプロンをきりりと締め、誰の想いからも一番近い場所で、静かにドアを開けるのだ。
「いらっしゃいませ。夜の花屋へようこそ」
その言葉を準備しながら、霜月の穏やかな寝顔を、朝の影が優しく包み込んでいった。




