「リリア様くらいお年を召せば、恥も噂も気にならなくなるのですね(笑)」
リリア・エルグレインは、完璧な淑女だと評されていた。
侯爵令嬢として申し分のない家格を持ち、美貌も、教養も、礼儀作法も、社交性も、どれひとつ欠けていない。
王都の夜会では常に人目を引き、令嬢たちの憧れであった。
そして何より、王妃に見出され、第二王子殿下の婚約者となったことで、その評判は決定的になった。
誰もが思った。
やはりリリア様は特別なのだと。
リリア自身も、そう思っていた。
◆
「ちょっとおおおお! あの根暗、婚約しているのだけれど!?」
完璧な淑女は、自室の長椅子に座るなり、そんな叫び声を上げた。
「リリア様、どうかお心をお鎮めくださいませ」
執事のクロードが、優雅な所作で紅茶を差し出す。
「鎮まるわけないでしょう!? わたくしを差し置いて!? なぜあの根暗が先なのよ!」
「ギルバート殿下のことでございますか」
「それ以外に誰がいるの!」
元婚約者である第二王子ギルバートは、学識に優れた男だった。
ただし、根暗で、偏屈で、研究以外のことには一切関心を示さない男でもあった。
リリアは婚約者としての務めを果たすため、研究の手配から資金の調整、礼服の用意に至るまで、できる限り彼を支えようとした。
王妃の期待に応えるため、できることはすべてやったつもりだった。
だが――。
「いくらやっても感謝のひとつもない! こんな美女が尽くしたのに!」
「リリア様の本性を見抜かれていたのかもしれません」
「本性ってなによ!」
「失礼いたしました」
リリアはむっとしたまま紅茶をひと口飲んだ。
「……いい香りね」
「今日は東方産の黒茶葉を少し強めに淹れました。ミルクにも合う茶葉です」
腹は立っていた。
だが、紅茶はおいしかった。
「それにしても……土偶にしか興味がないのだと結論づけていたのに……しかも、新しい婚約者はかわいい……なぜ!?」
「ただ、相性が悪かったのでは」
「身も蓋もないことを言うわね……」
本当は、リリアにも薄々分かっていた。
ギルバートとは、最後まで噛み合わなかった。
彼の世界をリリアは理解できず、リリアの努力も彼には届かなかった。
けれど、認められなかった。
完璧な淑女ならば、ここで投げ出すはずがない。
そう自分に言い聞かせているうちに、リリアは少しずつ体調を崩していった。
見かねた父母が王家へ赴き、婚約は解消された。
ただ――傷は残った。
完璧な令嬢と持て囃されていたのに、王家との婚約が解消された。
どれほど体裁を整えたところで、社交界はそういう傷を忘れない。
そのためリリアは、しばらく王都を離れることになった。
心身を立て直すためでもあった。
「あなたも、ついてこなくてよかったのにね」
領地へ向かう馬車の中で、かつてリリアはクロードにそう言ったことがある。
「勉強のためです」
「……真面目なこと」
「それが取り柄でございますので」
そうして彼は、本当に領地の仕事を覚えた。
父の補佐をし、商会と交渉し、やがて侯爵家になくてはならない存在になっていった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ。
気づけば、王都を離れてから数年が経っていた。
ようやくリリアが王都へ戻ってきた頃には、流行も顔ぶれも変わっていた。
三年前は、夜会へ出れば上位貴族の令息たちが列をなして話しかけてきたものだ。
顔も家柄も将来性も申し分ない男たちに囲まれ、求められていた。
それが今はどうだ。
「若い令嬢ばかり、あんなに囲まれて!」
「若さは分かりやすい価値ですので」
「ぐ……!」
正論すぎて言い返せなかった。
その日も、リリアは夜会に参加していた。
だが、リリアの周囲に集まる熱は、かつてほど濃くはなかった。
交わされるのは当たり障りのない挨拶ばかり。
踏み込んでくる視線も、まだ手が届くなら拾ってもいいという値踏みに近かった。
「はぁ……」
リリアにも自覚はあった。
元王族の婚約者だった過去も、王都を離れていた数年も、今のリリアを見る目を変えるには十分だった。
いかに美しく振る舞ったところで、かつてと同じようには扱われない。
「クロード様、今夜も素敵ですこと」
少し離れた場所から、華やかな声が聞こえた。
「恐れ入ります。今夜は侯爵家の名代として参りました」
「クロード様ほどの方なら、良いご縁も多いでしょう?」
「私には、既にお仕えしたい方がおりますので」
穏やかに一礼する声が耳に届く。
今夜のクロードは、執事服ではなかった。
黒を基調とした礼装に身を包み、侯爵家の名代として広間に立っている。
「あの方、本当にお若いのに、もう侯爵家のお仕事を任されているのでしょう?」
「ええ。エルグレイン家には、なくてはならない方だとか」
「今のうちにご挨拶しておかなくては」
ひそやかな囁きが耳に届く。
リリアは扇を、きゅ、と握りしめた。
――そうでしょうとも。
クロードは有能だ。
顔もいい。立ち居振る舞いも完璧。しかも若い。
没落した伯爵家の三男とはいえ、家柄も元は悪くない。
血筋を気にする者たちにとっても、十分に魅力的だろう。
父は数年前から、クロードを養子に迎えるつもりで遇していた。
リリアが王家へ嫁ぐはずだった数年のあいだに、彼はその立場を、実力で確かなものにしていた。
だからこそ、リリアも早く嫁ぎ先を探さなければならない。
そう分かっているのに、胸の奥がざらついた。
婚約が解消されたあとも、リリアを支えたのはクロードだった。
小言を言いながらも、彼はずっと傍にいた。
領地へ移った日も、社交界の噂に疲れた日も、リリアから離れなかった。
彼との婚約を、一瞬だけ願ったこともある。
けれど、言えなかった。
行き場を失ったからと縋るのも、彼の席を奪うような真似も、リリアの矜持が許さなかった。
それに、クロードには未来がある。
自分の傷を埋めるために、彼を縛るわけにはいかない。
「……」
その時だった。
「リリア様」
声をかけてきたのは、マリアベル・クレイン伯爵令嬢だった。
ここ数度の夜会で顔を合わせている。
淡い桃色のドレスに、柔らかな金髪。
若く可憐で、今の王都の夜会で最も人目を集めている令嬢の一人だ。
ただし、その親しげな声の端々には、こちらを下に見ているような響きがあった。
「ごきげんよう、マリアベル様」
「ごきげんよう。リリア様は、今夜もお一人でいらっしゃるのですね」
今夜も。
「ええ。少し休んでおりましたの」
「まあ、ご立派ですわ。わたくしなら、王家とのご婚約がなくなったあとに、こうして夜会へ出るなんて、とてもできませんもの」
リリアは扇を開き、口元へ添えた。
「侯爵家の娘が、それを理由に社交の場から逃げ隠れするわけにはまいりませんもの」
マリアベルの笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなった。
けれどすぐに、笑顔を作り直す。
「まあ……さすがリリア様。お強いのですね」
「強くなどありませんわ。令嬢として、普通のことをしているだけです」
「わたくしなど、まだ未熟ですから。でも、リリア様くらいお年を召せば、恥も噂も気にならなくなるのですね」
彼女は可憐に首を傾げた。
「羨ましいですわ。その図太さ」
リリアは胸の奥で息を吐いた。
ついに、若さで殴られる側になったのかと思うと、少しだけ笑えてしまう。
「それに、リリア様。いい加減、クロード様に縋るのはおやめになったら?」
「……縋る?」
「ええ。昔から傍にいた男にしがみつくなんて、みっともないですわ」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
縋らないようにしていたつもりだった。
しかし他人の目には、そう見えるのか。
そう思うと、少しだけ息が詰まった。
けれど、それを目の前の娘に言われる筋合いはない。
リリアは、ようやく扇を下ろした。
「つまり、あなたはクロードを狙っているのね」
「ええ、そうですけれど?」
マリアベルは、悪びれもせず微笑んだ。
「クロード様はお若くて、有能で、将来もございます。傷のついたリリア様より、わたくしの方がお似合いだと思いません?」
「それなら、そうなさい」
「……え?」
「クロードに近づきたいなら、近づけばよろしいわ。
けれど、その程度の言葉遣いでは、すぐにクロードに見抜かれますわよ」
「なっ……」
「社交の場で人に勝ちたいなら、もう少し品よくなさい」
マリアベルの頬に、怒りと屈辱が浮かんだ。
「なんですって……!」
けれど次の瞬間、マリアベルの視線が一瞬、リリアの背後へ流れた。
そして――。
「ひどい……。わたくし、ただ……リリア様のためを思って……」
彼女の瞳に、涙が盛り上がっていた。
先程までの嘲笑など、跡形もなくなっていた。
「何がひどいのですか」
「クロード様っ……!」
クロードは、リリアの背後に立っていた。
いつから聞いていたのか、その表情からは読めない。
マリアベルは涙を浮かべたまま、クロードへ駆け寄ろうとする。
けれどクロードが横へ退いたため、伸ばされたマリアベルの手は空を掴んだ。
マリアベルの表情が固まる。
「クロード様……?」
「マリアベル様。リリア様は、元々お言葉がきついお方です」
「そうです……! わたくし、ただリリア様を心配しただけですのに、あんなに強くおっしゃるのですもの……」
「ですが、理由もなく人を傷つける方ではありません」
マリアベルの表情が止まった。
「そして、リリア様は人前で涙を武器になさる方でもありません」
マリアベルの頬が、赤く染まる。
「わ、わたくしは……そんなつもりでは……」
「それから、もうひとつ。先ほど、リリア様が私に縋っていると仰いましたね」
マリアベルの肩が揺れた。
「違います。縋っているのは、私の方です」
「っ……」
「私はずっと、リリア様を尊敬しておりましたから」
クロードは、リリアを見た。
「クロード……」
「王都で称賛されていた頃の貴女も。傷ついてなお、誰にも弱さを見せまいと振る舞っていた貴女も。領地で、慣れない仕事に何度も向き合っていた貴女も」
クロードは、静かに息を吐いた。
「私はずっと、貴女の隣に立てる人間になりたかった。だから、侯爵家に必要とされる立場を目指しました」
マリアベルは、もう泣いていなかった。
涙を拭うことも忘れたように、ただ二人を見ていた。
「このような場で申し上げる非礼は承知しております。ですが、また貴女が一人で耐えようとなさる前に、どうしても伝えたかった」
クロードはリリアの前で膝を折り、手を差し出した。
「リリア・エルグレイン様。
どうか、私と結婚してください」
差し出された指先が、ほんの少し強張っている。
リリアはその場に立ち尽くした。
何か言わなければと思うのに、言葉がうまく出てこない。
「……あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
かろうじて出た声は震えていた。
「もちろんでございます」
「わたくしの性格、知っているでしょう」
「ええ。誇り高く、面倒で、意地っ張りで、負けず嫌いですね」
「……随分な言いようね」
「ですが私は、そのどれも嫌いではありません」
じわりと視界が滲みそうになり、リリアはとっさに扇を持ち上げた。
「……あなた、ずるいわ」
「恐れ入ります」
リリアは小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと扇を下ろす。
「……よろしくてよ」
クロードが差し出した手を、リリアはゆっくりと取った。
「その申し出、お受けして差し上げます」
ざわめきが一気に広がった。
クロードは、リリアの手を恭しく握った。
いつものように完璧な所作だったのに、その指先だけが、少し強かった。
「帰りましょう、クロード」
「はい、リリア様」
「お父様とお母様に報告しなくては」
「侯爵閣下には、すでにお許しをいただいております」
リリアは足を止めた。
「……は?」
「申し訳ございません。順序を重んじました」
「あなたねえ……!」
「奥様にも、泣いて喜ばれました」
「お母様まで!?」
思わず声を上げたリリアに、クロードは穏やかに微笑んだ。
来る時と違って、リリアの足取りは軽かった。
リリアはようやく、完璧でなくても安らげる場所を見つけたのだった。
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