青になるまで
季節が変わるたびに、心のどこかで小さな音がする。
それは、終わりの気配かもしれないし、始まりの予感かもしれない。
ただ、その音に耳を澄ませると、胸の奥にしまい込んだ何かが、そっと揺れることがある。
言葉にならなかった想いも、誰にも見つからなかった気持ちも、春の手前では、なぜか輪郭を持ち始める。
この物語は、そんな“揺れ”の一瞬をすくい取ったものだ。
あなたの中にも、似たような季節があったなら、そっと重ねて読んでもらえたら嬉しい。
高校生活が終わる。
明日、卒業式。三年間という時間が、たった一日で終わってしまう。
入学式の日、体育館で私は彼を見つけた。新入生代表として壇上に立っていた彼は、少し緊張した顔で原稿を読んでいて、でもその横顔があまりにもまっすぐで、私は目が離せなくなった。
それが始まりだった。
彼はすぐにバスケ部に入った。私は帰宅部。一年生の頃は別のクラスで、廊下ですれ違うたびに胸が痛くなった。二年生になって彼はキャプテンになった。学校の人気者になった。私は相変わらず教室の隅で、誰とも深く関わらずに過ごしていた。住む世界が違う。最初から分かっていた。
三年生になって、初めて同じクラスになった。
四月、クラス替えの掲示板を見たとき、心臓が止まるかと思った。同じ組に彼の名前がある。三年間で初めて、同じ教室で過ごせる。毎日あの横顔が見られる。声が聞ける。嬉しくて、足が震えた。
でも、すぐに気づいた。
同じクラスになったということは、彼が他の女子と話している姿を、毎日見なければならないということだった。
休み時間に誰かと笑い合っている彼。体育祭で女子に応援される彼。文化祭の準備で誰かと作業する彼。そのたびに胸が締め付けられて、息ができなくなった。
違うクラスのままがよかった。遠くから見ているだけの方が、ずっと楽だった。
でも、それも明日で終わる。
高校生活も。
この、誰にも言えなかった初恋も。
三月。卒業式前日。
いつものように一人で帰り道を歩いていた。もう何百回歩いたか分からないこの道を、明日で最後だと思いながら。
後ろから声がした。
「あれ、家こっちなの?」
振り返る。
息が止まった。
彼だった。
制服姿で、鞄を肩にかけて、少し小走りで近づいてくる。三年間、一度も話したことがない。声をかけられたことすらない。それなのに彼は、当たり前みたいに私の隣に並んだ。
「母さんにお使い頼まれちゃってさ」
心臓がうるさい。彼の声が、こんなに近くで聞こえる。
「今日、親戚来るらしくて。ケーキ買ってこいって」
私はただ頷くことしかできなかった。声が出ない。喉がからからに乾いている。彼はそんな私を気にする様子もなく、前を向いて歩きながら話し続ける。
「ケーキ屋ってさ、この先の信号渡って右だっけ?」
また頷く。
頭の中で、地図が広がった。ケーキ屋は次の信号を渡って右。私の家は次の信号を渡って左。あの信号まで、あと何分だろう。二分。三分。それだけしかない。
それだけしか、ない。
どうせ明日で卒業なんだ。
もう二度と会うことはない。この三年間、ずっと胸の中にしまってきた気持ち。誰にも言えなかった気持ち。今、言わなかったら、一生言えない。
言おう。
フラれたっていい。気持ち悪いって思われたっていい。せめて、この気持ちだけは伝えたい。
そう決めた。
でも、口が開かない。
彼は何か喋っている。卒業式の話。部活の話。私は頷きながら、でも何も聞こえていない。頭の中で何度も何度も台詞を練習する。あの、ずっと好きでした。入学式の日から、ずっと。
言葉は決まっている。
声が出ない。
信号が見えてきた。赤だった。
三年間、何度この信号で立ち止まっただろう。雨の日も風の日も、夏の暑い日も冬の寒い日も、この信号で足を止めて、青に変わるのを待っていた。
初めて思った。
信号よ。
どうか青にならないで。
私に勇気が出るまで、どうか、赤のままでいて。
でも信号は私の願いなんて知らない。無情にも、赤から青に変わる。彼が歩き出す。当たり前みたいに、横断歩道に足を踏み出す。
私は動けなかった。
数歩進んだところで、彼が振り返った。
「渡らないの?」
答えられない。彼が戻ってくる。私の顔を覗き込むように首を傾げる。
「何かあった?」
首を横に振る。彼がまた聞く。
「帰りたくない理由でもあるの?」
その声があまりにも優しくて、胸が痛くなった。
「あ……あの……」
今だ。今しかない。
ずっと好きでした。
言おう。
言え。
口を開いた。
「……明日で卒業だね」
違う。そうじゃない。
「三年間も通った道だから、なんだか名残惜しくなっちゃって……」
彼が笑った。少し困ったような、でも優しい笑い方だった。
「それ、分かる」
苦笑い。彼も信号の方を見る。
「部活も勉強も大変だなって思う時もあったけど、明日で終わると思うと、なんだか名残惜しいよね」
私はこの人のことを知っている。
この優しいところも。誰にでも分け隔てなく接するところも。笑うと目尻が少し下がるところも。三年間、ずっと見てきたから。
彼が言った。
「じゃあ、もう一回信号待つか!」
歩道に戻って、私の隣に並ぶ。信号はもう赤に変わっていた。彼は当たり前みたいに隣に立って、当たり前みたいに一緒に信号を待っている。
こういうところが、好きだった。
誰かが困っていたら立ち止まる。迷っていたら一緒に考える。部活の後輩にも先輩にも、同じように優しくできる人。私みたいな、一度も話したことのないクラスメイトにも、こうして優しくできる人。
だから、言えなかった。
気持ちを伝えたら、この優しさを失う。
たとえ優しく断られたとしても、もう同じようには話せない。もう二度と、こんなふうに隣に並んでくれることはない。
この優しさに、二度と触れられなくなる。
それが、怖かった。
信号が青に変わった。
今度は一緒に歩き出した。横断歩道を渡る。十数歩。あっという間だった。
渡りきって、彼が立ち止まる。右を指差して笑った。
「じゃあ、また明日!」
手を振る。私も手を振り返す。
彼が歩いていく。ケーキ屋の方へ。軽い足取りで。振り返りもせずに。
私はその背中を見ていた。
どんどん小さくなっていく。三年間ずっと見てきた背中が、もう見えなくなる。
結局、三年間、何も変わらなかった。
もし気持ちを伝えていたら、何か変わっただろうか。
変わっていくことの方が大事なのだろうか。変わらずにいることの方が大事なのだろうか。
答えは出ない。
たぶん、一生出ない。
でもいつか、この選択がどういう意味だったのか、分かる日が来るのかもしれない。
春の風が吹いた。
私は歩き出した。
彼とは反対の方へ。
明日、卒業する。
物語の主人公は、最後まで気持ちを伝えなかった。
それを「弱さ」と呼ぶ人もいるかもしれない。
けれど私は、彼女の選択は決して後ろ向きではないと思っている。
人はいつも、変わることと変わらないことのあいだで揺れている。
勇気を出すことも大切だけれど、守りたいものがあるからこそ踏み出せない瞬間もある。
その迷いも、痛みも、全部ひっくるめて“青春”と呼ぶのだろう。
彼女は何も変えられなかったように見える。
でも、あの信号の前で立ち止まった時間は、きっと彼女の中で、これからも静かに息をし続ける。
いつか振り返ったとき、あの春の日の選択が彼女を優しく支える日が来るかもしれない。
読んでくださって、ありがとう。
あなたの中にも、言えなかった想いがあるのなら、
どうかその痛みが、いつかやわらかい光に変わりますように。




