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青になるまで

作者: 桜餅 詩音
掲載日:2026/01/01

季節が変わるたびに、心のどこかで小さな音がする。

それは、終わりの気配かもしれないし、始まりの予感かもしれない。

ただ、その音に耳を澄ませると、胸の奥にしまい込んだ何かが、そっと揺れることがある。

言葉にならなかった想いも、誰にも見つからなかった気持ちも、春の手前では、なぜか輪郭を持ち始める。

この物語は、そんな“揺れ”の一瞬をすくい取ったものだ。

あなたの中にも、似たような季節があったなら、そっと重ねて読んでもらえたら嬉しい。

 高校生活が終わる。

 明日、卒業式。三年間という時間が、たった一日で終わってしまう。

 入学式の日、体育館で私は彼を見つけた。新入生代表として壇上に立っていた彼は、少し緊張した顔で原稿を読んでいて、でもその横顔があまりにもまっすぐで、私は目が離せなくなった。

 それが始まりだった。

 彼はすぐにバスケ部に入った。私は帰宅部。一年生の頃は別のクラスで、廊下ですれ違うたびに胸が痛くなった。二年生になって彼はキャプテンになった。学校の人気者になった。私は相変わらず教室の隅で、誰とも深く関わらずに過ごしていた。住む世界が違う。最初から分かっていた。

 三年生になって、初めて同じクラスになった。

 四月、クラス替えの掲示板を見たとき、心臓が止まるかと思った。同じ組に彼の名前がある。三年間で初めて、同じ教室で過ごせる。毎日あの横顔が見られる。声が聞ける。嬉しくて、足が震えた。

 でも、すぐに気づいた。

 同じクラスになったということは、彼が他の女子と話している姿を、毎日見なければならないということだった。

 休み時間に誰かと笑い合っている彼。体育祭で女子に応援される彼。文化祭の準備で誰かと作業する彼。そのたびに胸が締め付けられて、息ができなくなった。

 違うクラスのままがよかった。遠くから見ているだけの方が、ずっと楽だった。

 でも、それも明日で終わる。

 高校生活も。

 この、誰にも言えなかった初恋も。

 三月。卒業式前日。

 いつものように一人で帰り道を歩いていた。もう何百回歩いたか分からないこの道を、明日で最後だと思いながら。

 後ろから声がした。

「あれ、家こっちなの?」

 振り返る。

 息が止まった。

 彼だった。

 制服姿で、鞄を肩にかけて、少し小走りで近づいてくる。三年間、一度も話したことがない。声をかけられたことすらない。それなのに彼は、当たり前みたいに私の隣に並んだ。

「母さんにお使い頼まれちゃってさ」

 心臓がうるさい。彼の声が、こんなに近くで聞こえる。

「今日、親戚来るらしくて。ケーキ買ってこいって」

 私はただ頷くことしかできなかった。声が出ない。喉がからからに乾いている。彼はそんな私を気にする様子もなく、前を向いて歩きながら話し続ける。

「ケーキ屋ってさ、この先の信号渡って右だっけ?」

 また頷く。

 頭の中で、地図が広がった。ケーキ屋は次の信号を渡って右。私の家は次の信号を渡って左。あの信号まで、あと何分だろう。二分。三分。それだけしかない。

 それだけしか、ない。

 どうせ明日で卒業なんだ。

 もう二度と会うことはない。この三年間、ずっと胸の中にしまってきた気持ち。誰にも言えなかった気持ち。今、言わなかったら、一生言えない。

 言おう。

 フラれたっていい。気持ち悪いって思われたっていい。せめて、この気持ちだけは伝えたい。

 そう決めた。

 でも、口が開かない。

 彼は何か喋っている。卒業式の話。部活の話。私は頷きながら、でも何も聞こえていない。頭の中で何度も何度も台詞を練習する。あの、ずっと好きでした。入学式の日から、ずっと。

 言葉は決まっている。

 声が出ない。

 信号が見えてきた。赤だった。

 三年間、何度この信号で立ち止まっただろう。雨の日も風の日も、夏の暑い日も冬の寒い日も、この信号で足を止めて、青に変わるのを待っていた。

 初めて思った。

 信号よ。

 どうか青にならないで。

 私に勇気が出るまで、どうか、赤のままでいて。

 でも信号は私の願いなんて知らない。無情にも、赤から青に変わる。彼が歩き出す。当たり前みたいに、横断歩道に足を踏み出す。

 私は動けなかった。

 数歩進んだところで、彼が振り返った。

「渡らないの?」

 答えられない。彼が戻ってくる。私の顔を覗き込むように首を傾げる。

「何かあった?」

 首を横に振る。彼がまた聞く。

「帰りたくない理由でもあるの?」

 その声があまりにも優しくて、胸が痛くなった。

「あ……あの……」

 今だ。今しかない。

 ずっと好きでした。

 言おう。

 言え。

 口を開いた。

「……明日で卒業だね」

 違う。そうじゃない。

「三年間も通った道だから、なんだか名残惜しくなっちゃって……」

 彼が笑った。少し困ったような、でも優しい笑い方だった。

「それ、分かる」

 苦笑い。彼も信号の方を見る。

「部活も勉強も大変だなって思う時もあったけど、明日で終わると思うと、なんだか名残惜しいよね」

 私はこの人のことを知っている。

 この優しいところも。誰にでも分け隔てなく接するところも。笑うと目尻が少し下がるところも。三年間、ずっと見てきたから。

 彼が言った。

「じゃあ、もう一回信号待つか!」

 歩道に戻って、私の隣に並ぶ。信号はもう赤に変わっていた。彼は当たり前みたいに隣に立って、当たり前みたいに一緒に信号を待っている。

 こういうところが、好きだった。

 誰かが困っていたら立ち止まる。迷っていたら一緒に考える。部活の後輩にも先輩にも、同じように優しくできる人。私みたいな、一度も話したことのないクラスメイトにも、こうして優しくできる人。

 だから、言えなかった。

 気持ちを伝えたら、この優しさを失う。

 たとえ優しく断られたとしても、もう同じようには話せない。もう二度と、こんなふうに隣に並んでくれることはない。

 この優しさに、二度と触れられなくなる。

 それが、怖かった。

 信号が青に変わった。

 今度は一緒に歩き出した。横断歩道を渡る。十数歩。あっという間だった。

 渡りきって、彼が立ち止まる。右を指差して笑った。

「じゃあ、また明日!」

 手を振る。私も手を振り返す。

 彼が歩いていく。ケーキ屋の方へ。軽い足取りで。振り返りもせずに。

 私はその背中を見ていた。

 どんどん小さくなっていく。三年間ずっと見てきた背中が、もう見えなくなる。

 結局、三年間、何も変わらなかった。

 もし気持ちを伝えていたら、何か変わっただろうか。

 変わっていくことの方が大事なのだろうか。変わらずにいることの方が大事なのだろうか。

 答えは出ない。

 たぶん、一生出ない。

 でもいつか、この選択がどういう意味だったのか、分かる日が来るのかもしれない。

 春の風が吹いた。

 私は歩き出した。

 彼とは反対の方へ。

 明日、卒業する。

物語の主人公は、最後まで気持ちを伝えなかった。

それを「弱さ」と呼ぶ人もいるかもしれない。

けれど私は、彼女の選択は決して後ろ向きではないと思っている。


人はいつも、変わることと変わらないことのあいだで揺れている。

勇気を出すことも大切だけれど、守りたいものがあるからこそ踏み出せない瞬間もある。

その迷いも、痛みも、全部ひっくるめて“青春”と呼ぶのだろう。


彼女は何も変えられなかったように見える。

でも、あの信号の前で立ち止まった時間は、きっと彼女の中で、これからも静かに息をし続ける。

いつか振り返ったとき、あの春の日の選択が彼女を優しく支える日が来るかもしれない。


読んでくださって、ありがとう。

あなたの中にも、言えなかった想いがあるのなら、

どうかその痛みが、いつかやわらかい光に変わりますように。

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