第6話 走って、逃げて
空から見下ろす鯉は、一刻の猶予もなく俺たちへ飛びかかろうとしていた。
「屋根のある所に行かなきゃ……でもここからじゃアパートに戻ることに……せめて見通しの悪いところ……」
早々に屋根から路地へと飛び降り、視線を遮ろうとするが、相手の行動の方が一歩先だった。
「ケイ!」
それなりの速さで走っていたものの、やはり障害物の無い空を泳ぐ鯉に速度で勝ることはなく、ミサイルが落ちるかのようにケイ目指して飛んできた。
何とかしようにも、どうすれば良いのかまるで分からない。
「ヒャッ!」
最早数メートルの距離も無い。
慌てて速度を上げるケイに俺は距離を離されるばかりだった。
幾つか角を曲がっても、鯉とケイの距離にはほとんど変化がない。
体力が切れたか、集中が持たなかったか。
ケイは工事看板に肩を引っ掛け、もたれるように倒れた。
金属とアスファルトの擦過音が派手に散る。
鯉は転倒したケイと散乱する工事看板へと一直線に飛び込む。
受け身を取るケイの右手には、懐より神速で引き抜かれた拳銃。
静止した一瞬を突いて放たれた弾丸は逸れることなく、瞳の黒点を撃ち抜いた。
さしもの鯉も痛恨の一打になったらしく、体を捻りながら空を駆け上がり、そのまま尾を靡かせて逃げていった。
「えーっと……結果オーライ、かな?」
「怪我してないか!?」
「腕が痛いや。服傷めちゃったかなぁ……?」
ひとまず意識がしっかりしている事に安堵する。
「歩けるか?」
「うん。受け身は取れたからね」
一人で立ち上がり、元気そうに膝の曲げ伸ばしを行っている所、実際に怪我は軽そうだ。
とは言え、何ヶ所か裂かれたストッキングが痛々しい。
黙々と戻っていると、ケイが声を掛けてきた。
「流石運動部だね。動きが良かったよ」
「それでもケイには追いつけないし……その結果がこれじゃ、来た意味が無い」
「そんな事無いよ。ワカバがいてもいなくても、きっと転んでたし」
「そんな事は……」
「あるよ」
殊更に強調するケイ。
だが、ケイが狙われている時はただ走っている時と比べて、明らかに振り返る回数が増えていた。鯉が俺を意識する事が無いように意図的に距離を調整していたのだろう。
それを俺に気付かせまいとしているのか、余裕の表情を今も向けている。
ならばと俺も話題を変える。
「……そう言えば、よく転んだ瞬間に攻撃なんて出来たよな」
「倒れる瞬間に銃のホルスターが丁度抜きやすい所にあったからね。手を掛けた瞬間に鯉と目があって、撃たなきゃって思ったの」
「ふーん……プロみたいで、格好いいな」
「大丈夫だよ。私とワカバじゃ差があるけど、未来のワカバなら私にきっと追いつけるよ」
まるで心を読まれているように、答えを告げるケイ。
なんで、と聞こうとした意志も読まれてしまった。
「だって、凄く後悔した顔してる。何かしたい、強さが欲しいって、そんな顔してる。……着いたよ」
気付けばアパートの前だった。時間感覚がまるで無かった。
玄関の戸をそっと開ける。
「お帰りなさい。怪我をしてしまったようだね?」
いつもの事務机の向こう側、ケイを見て僅かに目を開いたボスが帰宅を迎えてくれた。
「転んで工事看板に突っ込んじゃった」
「君は焦ると周りが見えなくなるのは変わりませんね。気をつけるように」
「ごめんなさい……ちょっとシャワーで汚れ落としてくるよ」
「ええ、どうぞ。それとワカバ。少しいいかな?」
姿勢はいつも通りだし、表情も穏やかな薄い笑みを変えていない。
それなのに、肌を針で撫でられたような底冷えする冷気が発せられている気がしてならない。
「そう緊張せずに、飲み物でも飲みながらで構いませんよ」
そう言われて緊張を解せる人間はどれくらいいるのだろうか。
「あなたは確か『手伝いたい』と言って我々に協力した。正しいですね?」
「……はい」
「まぁ結果は残念なものでしたが、別にそれをどうこう言うつもりはありません。どのような結果であれ、ケイが自分の意志で決めて行動したのです。私が入る筋合いはありません」
「……」
「私達はこれまでも何度か夢に介入し、必要に応じて解決を行ってきました。しかし、今回は幾つかのイレギュラーが起きているのです」
「……イレギュラー?」
「一つはあなたです。結果として世界と反目し、仲違いが起こることがあったとしても、始めから敵対しているというのは見たことがありません。まるで――いや、なんでも」
机の下から缶コーヒーが出てきて、一つを自分へと投げる。
机の下から缶コーヒーが出てきて、一つを自分へと投げる。
いつの間にか暖めたのか、手のひらに熱が伝わる。
「とにかく、一つでも未知を既知にしたいのです。差し当たっては最初に見つけた女の子の所在を見つけましょう」
「俺がここに来た時にいた子ですか」
自販機でサイダーを買った女の子。そのまま買い物に行くと言っていたが……
「彼女も容疑者の一人です。目を離した隙に逃げられてしまったのですが、恐らく商店街にいるでしょう。地図を渡すので見つけて連れてきてくれますか?」
「分かりました、行ってきます」
淡々と話すボス。
金色の瞳は妖しく光っていた。
人には見えない物が映っているような、善悪問わず欲しいもの全てを呑み込むような、ほの暗さがあった。
まるで世界全てを見ているそれが、なんだか苦手だった。
地図は手書きで大ざっぱなランドマークが記された程度だが、区分けに応じて工場地帯や住宅街といったメモ書きがあり、読みやすい。
ここから商店街まではさほど距離は無さそうだ。
エンゼルフィッシュの群れから数歩後ろを着いていき、商店街を目指す。
何度見ても見慣れない景色ではあるが、この魚たちはどんな存在なのだろう。
現実の魚が休眠しているのか、はたまた仮想の存在か。
ボスとケイは知り合いらしいが、どこで知り合ったのだろう。
何となく歩いていると、どうしても取り留めのない疑問が沸く。
誰も答えを知らないのに、考えていれば分かる気がして。
商店街は意外と近くにあった。




