第21話 ワカバの逃亡劇
頬を叩いて気合いは十分。鯉から離れるべく、全力で足を踏みだした。
背中から迫る気配を感じつつも、一心に体を動かす。時折角を曲がって、距離を取り直すことも忘れない。
鯉と会った時からこれまでずっと、俺は逃げっぱなしだった。
ただの一度たりとも鯉に有効な攻撃が出来た試しが無かった。
今もこうして、鯉の攻撃を避けるのに手一杯だ。
それでも、この世界での体の使い方が、少しずつ分かってきた気がする。
『川のように流されるだけではなく、自ら流れるように。』そう言っていたケイの教えたい事が、なんとなく分かってきたのかも知れない。
勢いを利用しながらも己の向かう方向へと変えていく。
コンクリート塀を踏み台にして屋根へと飛び上がり、助走をつけて通路一本分を幅跳びして越える。
閃きが示す道筋を糸として手繰り寄せ、経路へと変えていく。
背中に迫る烈風の気配も、今だけは気にしない。
何か言いたげに顔を覗き込んでくるハナに、心配させないためにも勢いを止めない。
あえて細い裏道へ飛び降り、鯉から姿をくらます。
距離を稼いでは適当な所で飛び上がり、改めて鯉の元に姿を晒す。
動き方が体に合うように慣れてきたお陰か、疲労も少ない。
これならば、時間稼ぎも余裕を持っていられそうだ。
腰のナイフの出番が無いのは残念だが、無くて済むならそれで良い、と自分に言い聞かせる。
そもそもハナを背負った状態で思い切った行動が出来るか疑問ではある。
時折建物を上下動する程度の平坦な機動なら兎も角、ケイのような三次元の空中戦は自信が無い。
いくら超常の世界といえど、うっかり落としてしまったでは済まないだろう……。
距離を保ちつつも様子を見ると、鯉が深呼吸をするように大きく息を吸っている所が見えた。
元々大きな口を限界まで開き、ありったけの空気を吸い込む様は掃除機にも似て見える。
「なんだ……?」
その細胞の端まで酸素を行き渡らせると、青一色であった鱗はより深みを増し、グラデーションとなっていった。
付け根の黄色もより一層明るくなり、生命力を感じさせる。
そうして迫力ある姿となった鯉は俺を目指し、弾丸のように飛び込んできた。
さっきまでのスピードもそれなりではあったが、俺が逃げられると言い切れる速さであった。
……しかし、今のこのペースでは自信がない。
速度が劣っているとまでは思わないが、感じ取れていた優位性はもはや無い。
改めて己が走っている道を見る。
現実ならば地域住民が通勤や通学に使うであろう、広くは無いが走りやすい通路。
車の行き交いも考慮されたその道幅は、鯉も入り込める大きさだ。
一気に距離を詰め、突進してくる鯉を電柱や曲がり角を盾にして、攻撃を躱しつつも間合いを逃れる。
屋根への昇り降りも最小限に抑え、出来るだけ離せる道筋を選ぶ。
それでもじりじりと余裕が無くなってきた事は、ハナの驚く声音から察せられた。
ナイフの鎖を腰から外しながら走り、次の攻撃へと備える。
近づいてくる、そう思ったタイミングでカーブミラーの裏に回り、両手でナイフを投げた。
両手から一本ずつ放たれたナイフは鯉に刺さる。
鯉は退こうとするが、カーブミラーから擦れるような音が響くばかりで、上手く動けない。
ナイフの柄からそれぞれ伸びた鎖がカーブミラーを経由して繋がっているのだ。
それは鯉をリードに繋がった犬のように繋ぎ止められ、動きを止めさせた。
「しばらく大人しくしててくれよ……!」
その隙を見て全力で逃走する。
ナイフの刺さり方がやや甘かった。何度か藻掻いている内に、恐らく抜けてしまうだろう。
しかし、その藻掻く時間こそが俺にとって最大の時間稼ぎ。
姿を見失ってケイを探す事のないギリギリまで離れる事が出来た。
適当な広場でハナを背中から下ろし、自分も一息つく。
手をついた膝が笑っていた。相当疲れていたようだ。
意識していなかった事に気付いてしまい、腰が抜けるようにその場に座り込む。
「お兄さん!?」
「平気平気、一旦休憩してるだけ……」
少しくらい強がって見せないと……というくだらない自尊心を自分に言い聞かせる。
しかしそんな思いとは裏腹に、座り込んだ尻から根が生えてきたのかと錯覚するほどに動けなくなってしまった。
何もなければこのまま空を眺めてぼんやりとしていたい、そんなことを考えてしまう。
実際の所、しばらくすれば鯉が襲ってくるので、そんな暇などあるはずが無いのだが。
「ワカバ、ケイが駄菓子屋に到着し、麩菓子を回収したようです」
ボスからの連絡が届く。
ここからが折り返し地点だ。ケイが戻ってくるまで、何としても耐えきらなければ。
想像の根を切り離し、もう一勝負への覚悟を決めた。




