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第1話 哲学ってなあに?

「なあ、哲学ってなんだ?」

「その質問がすでに哲学的だよね……キミにしては珍しいな」


 実柚みゆは読みかけの文庫本から顔を上げ、悪戯っぽく片眉を上げた。真っ黒の液体が揺れるカップを指先でなぞりながら、クスっと笑う。

 いつもの笑顔。私室での彼女は、学校での姿よりも気ままだ。

 ぼくの質問に、真正面から答えることは稀。むしろこちらの言葉尻を捉え、煙に巻くようにして会話の主導権を握る。

 ……それがお約束事のように。


「茶化すなよ。哲学ってのは学問なんだろ? なら『こういうものです』って明確な定義があるはずだ」

「うーん、キミは哲学についてどの程度知ってるの?」

「今あるのは親戚のおじさんが一時期ハマって、結局『何の役にも立たない』って放り投げてたくらいの印象だけさ」


 数年前、博識で通っていた叔父が哲学書を読み漁り、妙に理屈っぽくなった挙句、そう結論づけたのをぼくは鮮明に覚えていた。

 「確かに辞書を引けば、それらしい言葉は出てくるよ」と、実柚はあっさりと頷く。


「なら、こうこうこういう風に決まってます、って答えるだけで説明がつくだろ」

「でもね、定義されたからって、それで『はい、おしまい』にしないのが哲学なのよ」

「終わらない? どういう意味だ」

「えーとね……」


 実柚の口調には、わずかな遊び心と含みが混じっていた。だから、止めた。


「ちょっと、待て」

「……なあに?」

「また難解な話から始まって、紆余曲折の挙句に本題に入る気だろ?」


 ぼくは思わず身構えた。彼女の言葉は平易なようでいて、その思考の組み立ては万華鏡のように複雑だ。


「結論だけ聞いても、わかったような気になるだけで身にならないよ」


 実柚の口調に、いつものようにわずかな遊び心と含みが混じる。


「例えば、地図で目的地を見つけたとしても、実際に歩いてみないと、道の起伏や景色の美しさ、途中で見つけた可愛い猫の存在なんて分からないでしょ? 定義は地図みたいなもの。哲学は、その道を実際に歩き、道草を食い、時には迷いながら、自分だけの景色を見つける旅行とか散歩みたいなものかなぁ」

「お、おう?」

「だから、キミの言っていることは、写真や動画があるから旅行はいらないと言ってるようなものなんだよ。実際に歩いてみないと、そこがどんな国や町かはわからないんだよ」


 実柚の話はいつも長い。比喩に比喩を重ね、思考の枝葉を広げ、ぼくが飽きて欠伸を噛み殺す頃に、ようやく核心めいた言葉が現れる。

 彼女曰く、思考は結論ではなく、なぜそこに至ったかという過程にこそ意味があるのだ、と。

 ただ、その感情は驚くほど読みやすい。瞳がまさに「まだ何も分かっていないのね」と雄弁に語っている。


「手っ取り早く頼む」


 ぼくがため息混じりに言うと、実柚は「しょうがないなあ」という顔で笑った。

 ちら、と実柚が目を向けた先、窓の外では銀杏の葉がらはらはらと舞い落ちる。コーヒーの芳醇な香りと、彼女の声が心地よく混じり合っていた。


「辞書から引用した言葉をわたしなりに噛み砕くとね、『概念を概念として確立する試み』、『思考の論理的な視座を明確にすること』、そして『一つの問いに対し、徹底的に考え抜き続ける執念』、かしら」

「つまり……考えるための考え、ってことか?」


 ぼくなりに咀嚼して返すと、実柚はまた嬉しそうに表情を崩した。何か言いたくて仕方がないときの前兆だ。


「まあ、そうとも言えるけど、それじゃあちょっと言葉足らずかな」

「言葉足らず?」

「なんだか無味乾燥で、空っぽな感じしない? 哲学って、実はすごく実用的なのよ」

「実用的? まさか」


 哲学なんて、実生活から最も遠いものの一つだと思っていた。


「ほんとほんと。たとえば、キミがさっき『哲学って何?』って聞いたのも、心のどこかで『考えるための道筋』や『自分なりの答えの手がかり』を見つけたかったからじゃない?」

「そう……なのか?」


 単純に、役に立たないと言われる学問の正体が気になっただけ、のつもりだったが。


「まあ、そういうことにしときましょ。でね、哲学ってのは、その道筋を整理したり、見えなかった可能性を掘り起こしたりするための、いわば思考の道具箱みたいなもの。そして、わたしたちはこうやっておしゃべりすることで、無意識にその道具を使ってるんだよね」

「それさ、いつも言ってる論理(ロジック)とどう違うんだ?」

「うん、似て非なるものかな。論理(ロジック)は思考のルールを提供する物差し。哲学はシャベルとかコンパスだね」

「む、むずかしいなあ……」


 ぼくが首をひねっていると、実柚はコーヒーカップを静かに持ち上げた。

 繊細な指先が、ソーサーの縁でわずかに震えたのをぼくは見逃さなかった。この話題は、彼女にとって大事なものなのだろうか。


「でもさ、その道具箱を使って、一体何が変わるんだ?」


 ぼくがそう問い返すと、実柚は驚いたように瞬きし、それから真剣な眼差しで見つめ返してきた。


「何が変わるか、か……。うん、いい質問だね、キミ」

「だろ?」

「うん。たぶん、その問いこそが、哲学の本質に触れているんだと思う」

「本質?」

「そう。でも、本質っていうのは、自分が変わることでしか、見えてこないものなのかも。だから哲学は、ただの『考えるための考え』なんかじゃなくて、『変わるための考え』でもあるのよ」


 実柚の言葉は、一見すると抽象的で掴みどころがない。

 でも、その澄んだ瞳の奥に宿る静かな確信は、ぼくの心に小さな波紋を広げた。

 答えが欲しいわけじゃない。問い続けることそのものに価値がある――そんな風に、ふと感じさせられた。


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