8話 いつか、咲出でる蛹
「ごめんなさい、ソーヤの言う月がどれのことか分からないの……」
リサは申し訳なさそうに目尻を下げた。まるで夜に浮かぶ小さな星々の中から少しでも形が大きいものを探そうとしているみたいで。あの大きな月は透過され、その背後にあるものを見ているかのようだった。
何かを言おうとして、何も言えずに口を開けては閉じることを繰り返す。
リサには月が見えていない。だが己の目には月としか言いようが無い物体を捉えている。この矛盾は一体何だ。
「でも、ソーヤの言うこと信じるよ!この村には魔物がやって来てて、それがベンおじさんをおかしくしたかもってことよね!」
「あ、そっ、そうです!」
宗谷はこの無視できない違和感へ思考を巡らせようとしたが、そんな悠長なことができる状況ではないことを思い出す。
自分で語ってて余りにも突飛な事態だが、事実1人の人間の様子がおかしいことが功を奏したのかリサは特に疑わずに納得してくれた。
この包容力はとてもじゃないが、かなりのお姉さん力と言っていい。
「それで、どっどうしましょう!戦える人は居るんですか!?」
「普通は村に魔物が来るだなんて有り得ないことなんだけど……仕方ない!」
人にこれを伝えれば何とかなるはずという希望的観測頼りで走って来たが、実際どうにか出来るのか。それは予想でしかなく、縋るような目つきでリサを見つめるが。
少しの逡巡の後、彼女は持っている棍棒を天へと掲げた。一体何をしてるのか、尋ねようとしたその時。
「チェ・ルクス!」
彼女の口が聞き慣れない単語を呟くのと同時に、周囲の空気がその棒の先端へと吸い込まれる感覚がした。
説明できない空気の流れが肌を撫でると、突如として掲げた棍棒の先端に小さい光の玉が現れる。驚く反応をする間もなく、空気が集まっていくごとに光量も比例して大きくなっていって。
数秒で破裂限界ギリギリまで力を溜め込んだそれはバスケットボール程度のサイズまで膨れ上がり、彼女が軽く棍棒を振るうことで遥か上空に向かって射出される。
「いけ!」
それは真っ直ぐ空へと飛んでいき。彼女の声と共に、一気に爆発する。炎色反応のような色とりどりの明かりが空に滞在し、宗谷の目には消えない花火かのように映った。
鮮烈な光。一時でさえ月の光さえ遮り、全体は昼間かのような明るさを取り戻す。
まるで太陽だ。至近距離で直視しまえば失明してしまいそうなほど、光輝く。村だけではなく、遠くの何処までもその明るさは届いていそうだった。
「……やっぱり、ただの木の棒じゃ一回が限度かぁ」
そう呟くリサは手に持っている棍棒を忌々しげに見つめた。気付けば、焦げ臭い匂いが漂っていて。光を射出した箇所が盛大に焼き焦げ、ラッパみたいに割れている。
「い、今何を」
「信号を放ったの。近くに夜警の塔があるから、これを見てくれればそこから人を送ってくれる仕組みなのよ」
「リサさんって魔法使えるんですか!?」
「ふふーん。この村で唯一ね」
予想外の異世界要素に驚きの声を上げてしまった。髪を払いどこか得意げにしている彼女はどこか子供っぽいが、先ほどの光を放った張本人だと思うと尊敬の眼差しを向けるしかない。
普通の村娘だと思っていた相手がまさか魔法使いだと言うサプライズ。ファンタジー要素の塊だ。男の子ならば一度は使うことを夢見てしまうもの。
想像以上に頼れる存在の出現に感嘆の息をあげる。村人のリサを見る目が違っていたのも、これのお陰なのだろうか。
「さてと、ソーヤは家に戻ってなさい。あそこを真っ直ぐ進んだら家だから」
「……あれ。リサさんはどうするんですか」
宗谷に簡単な道案内をすると、リサは倒れ伏しているおじさんに近寄っていた。ボソボソ声で上手に聞き取れなかったが、何か呟くと手のひらから暖かい陽光が放たれ男の負傷した目を覆う。
そうすると、患部から流血していた血が徐々に止まっていき。また引っぺがられそうになっている皮も、自発的に元の位置へと戻って行く。流石に眼球自体は戻っていないようだったが、それさえ除けばどこが負傷していたか分からないぐらい。
不可思議な光景に息を呑んだ。これは恐らく回復魔法に位置する呪文なのではないか、そう漠然に感じとる。
「他に影響を受けてる人がいないか探すのよ。こういう非常事態を何とかするのが私のお仕事だし、何より誰かが困ってそうなら見過ごせないわ!」
「でも1人でそんな……」
「ふふふ。私ってケッコー強いから心配しなくていいのよ!」
まだ出会って1日未満。彼女のことを何も知らない。宗谷には、それが強がりなのか裏打ちされた自信かは分からないが。
しかし、おじさんへ応急処置を済ませ立ち上がるリサの姿は誰よりも真っ直ぐであり、頼もしいことには間違いなかった。見ず知らずの宗谷を助けた善性は、彼女に何もしないでいることを許さないのだろう。
「処置終わりっ。……でもきっとまだ錯乱してるだろうから拘束してっと。ソーヤ、すぐに警兵さん達が助けに来るから、真っ直ぐ帰って家でじっとしてること。道中、他に人を見掛けても近寄っちゃダメよ」
広場に置いてあるロープで相手をあっという間に雁字搦めにすると、宗谷に一声を掛けてすぐにその場を立ち去ろうとした。
「まっ」
待って。己がそう呟く間もなく、彼女は今も輝く信号の光を浴びながら夜の村を駆けていってしまう。その後ろ姿は今までと変わらずとも、ヒーローにさえ見える頼もしい背中で。
――――――
手を伸ばしてから小時間。広場に取り残された宗谷は、見えなくなるまで彼女の背中を見送る。
「……行っちゃった」
自分はリサを呼び止めて何がしたかったのだろうか。それは宗谷にも分からない。ただ、ずっと助けてもらってばっかりだというのにまた恩を増やしてしまったと、届かず行く先を失った手が訴える。
先程、魔物に怯え散らかして助けを求めて走り回ったばっかりだというのに。何か手助けをしようたって、己に何が出来る?足を引っ張るのがせいぜいだろう。
だからリサの下した家への避難は妥当な判断であり、宗谷がそれに従うことが無駄な被害を増やさない手伝いになる。そんなの考えなくても分かる話だろ。
広場に残された宗谷が今やるべきことは、リサの家に向かって走ることだ。最初と変わらずに。
「……月」
けれど、引っ掛かる。とてつもなく。その違和感が、宗谷の足を止めている。
怪物は月のことを知っていた。明らかに月を見上げる動作までしていたのだ。つまり、あれは宗谷の幻覚などではなくちゃんと存在している。
しかし、リサは月のことを知らない。見逃すのにも難しいあの大きな星を無いものとして扱い、事実見えていないようだった。
「何で僕には見えて、リサさんには見えていないんだろう」
一体何の差だ。その思考に囚われてしまう。ベンおじさんの様子を見るに、アレには絶対何かがある。邪悪な何かが。人を狂わす、直視してはいけない、何かが。
なら見えていない状態というのは、良いことのはず。何をトリガーのしてアレが見えてしまうのか、僕とリサの違いはなんだ。
『━━━━━』
「…………月が、人を焦がす」
ふと、誰かが耳元で囁いた気がした。聞き覚えのある声だけど、どこで聞いたかは覚えていない。それに釣られ、口が自然と動いた。
宗谷は、月が好きだった。
1人寂しい夜。伯母さんが仕事で夜遅くまで帰って来ない時、いつも宗谷はベランダに行って夜空を見上げていた。
テレビで見知らぬ人のコマーシャルを見たとしても、一緒に見てくれる人が居なければ結局は虚しいもので。
都会では排気ガスによってあまりもう綺麗には見えないけれど、微かに点在する明るい星と月が。いつも慰めてくれる。
まともに見れもしない太陽よりも、月をずっと長く眺めれば。宗谷にとって、目に焼き付けられるほどの存在だった。
「そうだよ」
誰かが肯定する声が響く。
おかしい。この場には宗谷と気を失っているおじさんしか居ないというのに。すぐさま周囲を確認するが人影のようなものは見当たらなかった。……あの怪物の姿もない。あんな巨体、見落とすはずも。
ただ、居たのは。見つかったのは、1匹の可愛い兎。赤い目でピンと立った耳、白い毛皮。元居た世界のとあまり変わらない見た目の動物が、いつの間にか広場の中に居て。井戸の側から、じっと宗谷のことを見つめていた。
「月はいつだって輝いているのに、どうして人は目を逸らすんだろうね?」
ふと気づく。その様子が、昼の時にメッコが宗谷を見ていた時と似ていることに。
違っていたのは、その兎が発したのが鳴き声ではなく。人の言葉だということ。優しい優しい男の声で、寝物語を子供へ聞かせるような口調でその兎は喋っていたということ。
つい先刻ほどまで耳にしていた声色は、宗谷の脳へ警鐘を鳴らす。姿は違うが、あの怪物のものだ。
「あのお方は誰よりも慈悲深いんだ。ただの生地でしか無い僕たちを焼いて、完成させてくれる。鮮烈な光で僕たちを焦がすんだ」
「……お前、あの化け物、か?」
「最初は痛いけれど、すぐ慣れるよ。あのお方の光は目を抉り出したとしても心の奥底に割り入ってくれる。だから大丈夫。君たちはすぐ蛹を割って本当の自分になれる」
その兎は、淡々と語り続ける。微かに口が動いている様子からも、実際に動物の喉から言葉を発話しているようだった。
しかし、種族によって発音できるものは違う。通常、兎が人間の“鳴き声”を発することができないように、人間にだって兎の声は出せない。それを無理矢理、発話させようとなればどうなるか。
アイツが口を動かす度、ボコボコと兎の喉が異様に変形していく。膨らんでは縮み、骨の構造まで無理に曲がったりすれば。当然、臨界点で折れていく。肉の変形と小気味いい骨折音が混じり、兎は短い断末魔を上げながらも。怪物の意思を代弁していた。
「さっきできなかった自己紹介をしようか」
苦痛を全く滲ませない声。喉から折れた骨が突き出ても発声には問題ないらしく。姿と声がまるで一致しないのは、怪物の姿の時を想起させる。
「“月の残党“、ライラヘル。龍によって隠された新月を満月へと戻す為に、ここにいる」
宗谷の持つ緊張など露とも感じ取っていないかのように、ライラヘルと名乗った兎は恭しく頭を下げれば。
悠然と、例えば道端を散歩するかのような足取りで、倒れているベンおじさんに近寄っていく。
ただの草食動物。あの怪物が持っている威圧感も、剛腕も異様な頭も持ち合わせていない。だが、宗谷はそれを阻もうとは思えなかった。この先、一歩でも近寄れば何かが起こる。そんな予感が脳を過ってはやまない。
両目を己で抉った男は、赤い目からどう映るのか。そして、どうするのか。
「………………」
「おや。自己紹介を返してくれないのかい、少年。寂しいなぁ。一度対面した仲じゃないか。怯えないで欲しいよ」
口の中が、渇いていることに気付いた。微かに開けたままで、じっと立っているからだ。額から湧いた冷や汗が、頬を伝う。
それを皮肉ったかのような物言いでも、心の底から諭すような口振りを呟いて。男の膝にピョンと乗っては、鼻先を鳴らす。
描写だけ抜き出せばそれは微笑ましく思えるだろう。それが錯乱し頭に二つの空洞がある人間と、常に喉から血と異音を発する兎でなければ、自分だってこんなに緊張はしない。
「やっぱり、お前が何かをして。その人をおかしくさせたんだな。で、でも、すぐに警兵が来る!多分……いっぱい…… だから。今すぐ、こんなことやめろ」
「うん。恐怖に震えても相手へ訴えるその姿勢、カッコいいね。怖がらせてしまったから、今回も逃げられちゃうかなって思ったけど」
ライラヘルを指差して、上に輝くリサの放った信号のことを伝えた。警兵、つまりこの事態を鎮圧できる人がすぐにやってくるって、彼女は言ってくれたから。
それでも相手はどこ吹く風で佇む。宗谷が恐怖に囚われてしまっていることも見抜かれ、果てにはそれを称賛する台詞まで吐いて来る。しかし、この異変の元凶であることを否定はしなかった。
「(……人間を、どんな風にしたらあんなにおかしく)」
ああ、クソ。カッコ悪い。怖くて泣きそうだ。
指も震えて言葉も震えて。
月の残党が何なのかは全く知らない。相手が何をする気で何が起こるかも、僕はまだ何も知れてない。だってこの世界に来てほんの短い期間しか経っていないのだから、常識も情勢も知る訳がない。
こんな怪物がいること、魔法があることも今知ったばっかりで。まだ分かんないことばかり。
縁も情も、思い入れも。まだ何にも手に入っていないけれど。
「お前が。ひ、人を襲う魔物だっていうのなら。……そこの人を見捨てて逃げるなんて、できる訳ないだろ」
何もできないまま、無力感に包まれ終わることが嫌なのは知ってるから。
せめて、愚図は愚図なりに出来ることをしなければと思った。それが、初めて僕に優しさをくれた彼女に対する恩返しになれば。そう思って。
「わぁ。優しいんだね。でも安心して。この人を殺したりなんかしないよ」
「信用なんかできるもんか!い、今すぐその人から離れろ!」
一度剥き出した勇気は蛮勇となって、凝り固まった体を解してくれる。メッコの首を刎ね飛ばし、破裂させた相手に人間を近づけさせていいわけがない。
震える膝だけど。今度は逃げるのではなく、微かに。だけど確実にライラヘルへ宗谷はにじり寄る。
「近づいたら怪我するよ? 君って戦えないだろう」
兎はキョトンとした様子で首を傾げていた。まるで、このまま1人と1匹に宗谷が接近すれば間も無く死に至るかのような素振りで。
「……兎ぐらい、飼育小屋から逃げ出しちゃったのを何回も捕まえてきた」
強がりでそんな返答をするけれど。実際、ライラヘルに近づいた場合、運動神経のない自分がどんな目に会うか想像出来ない。兎の見た目をしているだけで、実態がなんなのかまだ分からないから。
だから、宗谷の狙いは戦うことじゃない。
時間稼ぎである。
あの怪物、ライラヘルが何をどうして兎の姿をしているのか分からない。意識を操ってる、姿を変えてる、体を奪ってる。手段は幾つも考えられるだろう。魔法がある世界なら何でもありだ。
だけど、ライラヘル本体があの姿になっているのであれば、自分でも役に立てるんじゃないか。
この場に少しでもアイツを拘束し続けることさえ出来れば、村や他の人を襲うのを遅らせられる。この調子で宗谷に意識を割き続けてさえくれれば。そんなちょっとでも時間を稼げば、リサさんや信号を見て来てくれる人達の救援の手助けになる、はず。
小粒程度。結局無駄になるかも知れない努力だが。何もせず尻尾巻いて逃げるより。リサの役に立ちたかった。
「僕達は、人を救う為に活動してる。みんなが上を見て笑える明日を作るんだよ。だから安心して欲しいな」
「どういう意味だ」
「すぐに分かるよ」
相手との距離にそう間はない。一歩、二歩着実に進めば。もう、兎は手を伸ばせば届きそうな位置までに到達する。
ライラヘルはそんな宗谷に対して、態度を全く崩さない。街角で出会った知人に挨拶を交わす素振り。まるでお互いが友人でもあったと思えるぐらい友好を持ち、宗谷を見上げている。
睨み合ったまま、少しばかりの時間が過ぎた。何秒しか経っていないだろうが、宗谷にはそれが永遠にも思える程で。捕まえるべきか否か考え、立ち止まった時間。唾液は枯れて、渇きが最高潮に達した時。
「━━━来た」
「……!! ガ、ァッ!」
瞬間。倒れ伏していた男の体が跳ねるように痙攣し出す。
それを合図にしてライラヘルは横に飛び退いた。気を失ったばかりのはずの彼は、今や絶叫を叫びながら地面でもんどり打つ。脈打つように、血管が膨張し。男の肌は赤と青の筋を大量に浮き上がらせる。
「ア゛ア゛ア゛!!!!」
苦悶の声。人間の体はあんな甲高い悲鳴を出せたのか、そう思える程。ぽっかり空いた眼窩から生理的な涙が、痛みで閉じるのを忘れた口端からは涎を絶え間なく流し続けている。
耐えようと地面に痛ましい程に爪を立て続け。爪先からボロボロと欠けていっても。硬い箇所で爪が剥がれても。そんな痛みなんか些細なことだと、全身に走る激痛からはそうでもしないと逃げれないみたいだった。見えないだけで、今この人は炎に巻かれ激痛の中死んでいってるんじゃないか。
「な、な。何をした!?」
このままショック死してもおかしくない。慌てて駆け寄るが、なんの知識も力のない宗谷が策を講じれることはない。
リサの施したロープを解き、せめて楽な姿勢でいられるようにするが。当然、そこで苦しみが終わるわけじゃない。
周辺で右往左往するしかない無能。側から見ていても恥ずかしい阿呆。今の自分になんと称号をつけるべきだろうか。
「僕は何もしていないよ。この人がやっと、本当の自分を受け入れただけ。……ああ、少しは手助けしたけどね」
「……っ!さっきから訳分かんないこと言ってんじゃっ!」
ライラヘル。この魔物がやった原理の分からない邪悪な術は、確実に人間を害する。聞くだけでも心を穿つ絶叫を上げさせ、苦しませ。それをただ傍観し続ける。
分からないことばかりの現状、明確な未来が見えてきた。
こいつを野放しにしたら、ここの村全員が危険に晒される。
宗谷はまだ会ったことのない誰かに対して守ろうなどと決意を抱く勇者ではない。だが、ここにはダイアナさんが、リサが。
村という一社会の中、宗谷の知らない誰かと繋がりながら暮らしている。その時、誰かが傷つけばきっとまた誰かは悲しむ。その痛みを想像出来ない程、冷血でもなかった。
「今すぐやめろ!!このままじゃ……!」
「殺すつもりはないと言っているじゃないか。それに、ここまで来たら見守ってあげようよ」
死ぬ。確実に、ベンと呼ばれていた男は息絶える。
それでもライラヘルは目の前で起きていることに対してなんの感慨も抱いていなかった。きっと、人間の姿をしていたとして、眉の一つさえ動いていないだろうと分かる、平坦で優しい声。
虚空。虚無。虚ろ。彼の語る口振りから、振る舞いまで。表面上は友好的であってもどこまでも薄っぺらく。己のやりたい目的以外に対してはまるで興味のない。
こいつは怪物だ。
「こ、のッ!」
脳内で煩雑な医療知識が飛び交う。本で読んだ、テレビで見た、豆知識に至るまで総動員させて。だけどまるで役に立たない。
ただの高校生が異世界で起きる超常現象で死ぬ人間に延命措置など出来るわけが無いのだ。
未だ血管は脈動し、紫色に変色する肌とはあるというのに。苦しむ声、抗う素振りは徐々に収まっていく。
「…………あ」
そんな、最初の断末魔とは程遠いか細い息で。
男の動きは完全に止まった。
「……………………」
目の前で人が死んだ。
苦しみながら、悶えながら。懸命に何かしようと働いていた思考も同じく止まる。もうする意味もないから。
ぼーっと、それを眺める。視界に入れたとして正気が削れるだけだとしても、初めて見る死体からは目を逸らせなかった。
血流の激しい流動により、膨張した腕の筋肉が裂けていた。手の爪は全部剥がれ、口からは噛み締め過ぎて欠けた歯がこぼれる。地面で転がり回ったせいか、服は土汚れで貧相に見え。眼窩からはもう、涙は流れない。
「なんでこんなこと」
何が殺す気はない、だ。何が人の為だ。こんな有様にしておいて、一体どんなつもりで。人を。
「ムーンストラック(月に触れる)。やっと蛹を破れたね」
ライラヘルの声はずっと変わらない。ただ、頷いている。人間の死に様を見て、喜ぶことも悼むこともなく。これが人間のあるべき姿だとして、白兎はそれを見つめ続けていた。
宗谷も、動かなかった。恐怖からじゃない。
確かに怖い。心臓も煩いぐらいに鳴っている。でも、違う。
「(…………今、こいつをなんとかしないと)」
怒りだった。どんな意図で人間に対してこんなことが出来るのかという、怒り。自分に良くしてくれた彼女が住むこの村を、どうして襲うのかという怒り。
恐怖はある。あるけれど、もっと人が死ぬ方が怖い。
僕は単純で、バカで、不器用だ。それでコミュ障で、ぼっちだし。でも、だからこそ。親身に接してくれた相手には、全身を掛けて報いたい。たった一回の食事でも、抱擁でも。孤独だった僕を癒してくれた、数少ない人なんだ。それを悲しませるっていうのなら。
「さぁ。出ておいで」
もう動かなくなったそれに何を期待しているのだろうか。まるで未だ生きているものとして声を掛け、見守っている。
蛹から羽化する蝶を見逃さまいと心待ちにする少年かのようだった。
「お前っ!」
激情に駆られ、意味不明な発言をする兎に怒鳴った時。程なくして。宗谷は後悔する。
己が勇気を出してした行動が、いつもどんな結末を齎すのか忘れていたことを。
ぴ、と何かを割く音。肌が裂ける、音。
男の。人間の、皮がゆっくりと自発的に分かれていき。
中に居た何かが這い出でる。