3話 “水面“は異世界の入り口らしい
心地いい浮遊感からどれだけ経ったろうか。目を瞑り身を任せるままでは、正しい時間経過は把握できなかったが。
瞬き程度でも、悍ましい程の時間であってもおかしくはない気がする。
僕は死んじゃったのかな。先ほどの光景を思い浮かべながら、命が消えた後どうなるのかぼんやり考える。
このまま眠ってしまえば、そのまま二度と起きられないような。心地いいけれど、どこか悲しい。死の世界なんてものはなくて、“後”はただの無なのかも。
このまま消えてしまうのか。揺蕩うまま、覚束ない思考は。
『起きろ』
あの声で急激に意識が覚醒する。
「――――! ッ、げほッげほッ!」
肺に昇る激痛。脳に液体が染み渡ったかのような頭痛は、眠りこけた頭を蹴り飛ばすぐらい、ハッキリと沈む世界から引き上がらせた。
そして全身の状況を知覚する。肺腑は勿論、背中を蹴られた痛みも、大量に飲み込んだ湖水の味だったりと。思い出したくないことまで。
くるっと体を回転させながら、腹から込み上げる衝動のまま、胃に入った液体を吐き出した。咳き込んで、何度かそうすると段々不快感も引いてきた。
「(手が、つく……?)」
ゆっくりと、地面に手をついて起き上がる。いつの間にか水の中から出ていたようだ。
久しぶりに堪能できる空気を存分に吸い込むと、霞む視界もクリアになっていく。
「え、……」
辺りを見渡すと、すぐ側に湖があって。先ほどまで自分はここで溺れ掛けていたんだろう。それ自体に違和感はなかった。
「どこ、ここ」
おかしいのは湖以外の周囲の状況がまるっきり変わっていたこと。公園の景色とは似ても似つかない、鬱蒼とした森林の景色。舗装された道など無く、種類様々な草の絨毯が宗谷を包んでいた。
まるで、山の中。手付かずの自然があり、耳を澄ませば野鳥の声がする。
びしょ濡れの学生服のまま、呆然と立ち上がり。初めてを目を開けた子供のように、じぃっとそれを見つめると。木の枝に停まっていた赤色の小鳥が飛び立っていった。
「僕……さっきまで……」
自分の置かれた状況を把握して行くごとに困惑が広がる。
住んでいた街にここまで自然を残した場所などあったか思い出そうとするがピンと来ない。
少なくとも、通学路周辺や、途中寄った公園にこんな場所なんて無かったはず。
「あ」
ハッとなってまた周囲を見渡した。
竹田君達の姿がないか確かめて。ホッとしながらも、どこか心は痛む。
期待していたわけじゃないけれど。やっぱり竹田君達が助けてくれたわけじゃないんだなって。
大方、自分が溺れてる姿を最後まで見ずに帰って行ったんだろう。
薄情だと憤る気持ちもあれば、他人それぐらいどうでもいい存在としか居られなかった自分が嫌いになりそうになった。
「(……深く考えちゃダメだ。泣きそうになる) 取り敢えず。ど、どうやって帰ろう」
自分が見覚えのない場所に来たことの原因は何か。色んな可能性が頭に浮かんだ。流されてきただとか、誰かが運んできただとか。
けれど、ここの湖に川のような流通経路みたいなのはなく、水に流されたとは考えづらい。溺れてた僕を助けてくれたというのなら、土の上に寝かせたままどっかに行くとか少し酷すぎな気がする。
まぁ、うだうだ悩んだって仕方ないとため息を吐いて。
ここから移動しよう。ここでぼーとしてたって良いことは無いだろうし。一番可能性あるのが、竹田君達の悪ノリな時点で最悪だ。
幾ら嫌われてるとはいえ、そんな遠く運ばれて無いことを祈った。
「……取り敢えず着替えてから行こ」
ぐしょぐしょで気持ち悪い上着をインナーだけ残し、他は脱ぐ。本当なら下も全部着替えたいけど、ジャージは生憎持ってきてない。
片手間に、荷物の入った通学用鞄が近くに落ちてないか探す。けど最初気絶していた近辺にはそれらしい物は無く。
念の為、湖の中を覗き込んで見るけど。やたら透明度が高いことと魚が居ないことしか見えなかった。
「あ〜……!どこいったんだろ」
ガックリと項垂れて顔を顰める。鞄にある教科書や携帯、財布。どれも無くしたら大問題だ。
そもそもこのずぶ濡れも伯母さんにどうやって説明すればいいか、さっぱり思い浮かばない。イジメられてるって思われたらどうしよう。
……竹田君達の仕打ちに関しては酷いものだけれど。僕が変に距離を見誤ったせいもあるだろうし。問題にしたら、今度こそイジメの対象になるかもしれない。
どうにかして、何も無かったってことにしないと。
「ねぇ、さっきから何やってるの?」
「わっ!?」
そんな風に考えながら湖を見ていたら。いきなり誰かが横にしゃがんで来て声を掛けてくる。
考えるのに夢中で接近に気付かなかった間抜けな僕は、転がるように慌てて飛び退いてしまった。
「あ!ひどーい。一応、君を心配してるのよ?」
そこに居たのは。明らかに日本人では無い、赤毛の女の子。中世染みた白と緑のワンピースに身を包み。茶色の革製に見える靴も履いて。現代人としては全く違和感のある格好だった。
けれど、普通ならただのコスプレに見えるそれも、顔立ちのせいか着慣れた雰囲気か。現代の尺度とはまるっきり違っても、全く違和感がないように思える。現代人の真似ではなく、本物の中世の人間が目の前に居るみたいだ。
鼻にはそばかすが浮かび、血色の良い頬が快活そうな印象を与えて。親しみやすい笑顔をしながら宗谷に“大丈夫?”と眉を下げた。
「あ、え。だ、大丈夫……です。に、荷物を失くしちゃって……」
「それ全然大丈夫じゃなくない!?もしかして、泉に落としちゃったの?」
「あ……そ、それも分かんないってゆうか……」
まごまご口を動かし、緊張で吃音気味になる。
耳がカァッと恥ずかしさで赤くなり。初対面の人がいきなりやってきたこと、心配されちゃったことへどうしたらいいか内心分からなくなっていた。
「お、溺れて気を失ってて。確かに持ってたはずなんだけど、目が覚めたら無かった……みたいな」
「大変!」
“だからずぶ濡れなのね”、と言われ。つい先ほどまで水滴が滴っていた体を思い出す。ますます恥ずかしい。
人に、しかも女の子にこんな格好を見られたなんて。穴があったら入りたかった。
「……まぁ、怪我してなくて良かった。物盗りか山賊か分かんないけど、災難だったね」
「さ、山賊?」
「家は近くなの?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。
なんだかお互いの認識にズレがある気がする。もしかして、誰かに暴行されてとかっていう風に勘違いされちゃったのだろうか。
……あながち間違ってもないか。荷物も、他の人が持って行っちゃったのかもしれない。
「えっと。ここってどこら辺でしょう?多分、家は近いとは思うんですけど」
「街道近くの森!あっちに歩いたら道に出るよ〜」
「何町ですか?」
「街? 一番近い街は王都のソラリスだよ? あ、領地の話?」
んん? 上手く話が噛み合わない気がする。もしかして揶揄ってるんだろうか。16年間生きてきて、“ソラリス”なんていう小説かゲームで出てきそうな名前は初めて聞いた。
それに領地だとかなんとか。彼女の格好通りらしい発言だけれど、そんな概念は遠い過去のもののはず。少なくとも、日本では。
あんまり要領を得ていなさそうな宗谷の顔を、同じくキョトンとした目で見つめる女の子。こっちもこっちで、齟齬を感じ始めているみたいだった。
「僕が住んでるのは、太平市の青日町なんですけど……」
「あはは!え〜、どこそれ? もしかして結構遠くから来たの?」
「え、えぇ?」
彼女が嘘を言っているようには到底見えない。そもそも人を揶揄う為に格好まで中世っぽくするとか気合い入りすぎだ。不審者の度を超しすぎてる。
そもそも、目が覚めた時に公園に居なかったこと自体がおかしい。ずんずんと、こんな状況が当てはまる言葉がなんなのか鮮明になってくる。
だが、もし本当にそうだった場合。どうするべきかなんて僕には考えつきそうにも無かったから。
「あ、の……ここって、日本、ですよね?」
引くつく口角を感じながら、言葉を絞り出す。どうか全部冗談であってほしい。もしくは何かの勘違いか。この際、竹田君達が仕組んだ悪戯であっても全然良い。ハーフの友達を使って、目が覚めた僕をびっくりさせようとか、そんな感じで。
けれど。
「ニホンって、国の名前?」
僕の発言へ、興味津々な笑みを浮かべる彼女の言葉に。そんな期待は呆気なく打ち砕かれた。
全く聞き覚えのない単語を出されて、キョトンと小首を傾げる動作には。悪気は一切なく。嘘も、無かった。
「…………え」
湖に落ちただけで。自分が異世界に来てしまったなんて。どうやって飲み込めばいいんだろう?