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「キキョウ、起きて」
「ん……」
「寝てるとこごめん。でもちょっと起きて」
「……ヤマブキ?」
体を揺すられて目が覚めた。寝返りを打つと、困り顔のヤマブキが俺を見ている。その顔を見てハッとした。学校で昨日のことを言われたのかと慌てて起き上がると「起こしてごめんね」と気遣ってくれる。
「いや、熱も下がったっぽいし、もう大丈夫」
「よかった」
ホッとしたような顔も、すぐにどこか困ったような顔に変わった。
「学校で何かあったのか?」
「何もないよ」
「本当に?」
「本当に。そうじゃなくて、ちょっと聞きたいことがあって」
そう切り出したヤマブキが「ええと、」と少し困ったように眉尻を下げた。
「なんだよ。……もしかして通学中に何かあったのか? あ! 痴漢か? 痴漢されたのか? よし、わかった。俺がなんとかしてやるから安心しろ」
「だから、おれは大丈夫だって。ほんと、キキョウはすぐ勘違いするんだから。昨日も勘違いしたままおれになりすまそうとしてたでしょ?」
「あー……それはごめん」
「キキョウらしいっていえばキキョウらしいけど、もうそういうことしちゃ駄目だからね?」
ヤマブキの「めっ」という言葉には素直に頷くしかない。
「で、昨日のことなんだけど、駅でアゲハ先輩に会った?」
「アゲハ先輩?」
「さらさらの黒髪にキラキラした美形の男の先輩で、黒い制服を着てたと思うんだけど」
(黒髪にキラキラの美形……って、もしかして)
頭に浮かんだのは、昨日いきなりキスしてきた美形の顔だった。“黒い制服”と言われて「そういえば」とα高等院の制服を思い出す。
(見たことあるような気がしてたけど、あれ、α高等院の制服か)
Ω高等院と同じく、選ばれたαだけが通うことを許されているのがα高等院だ。そこを卒業したαは政財界のトップに立つだけでなく、スポーツや芸術、建築、ファッション業界などあらゆる分野で名を馳せているらしい。通っているのはやはり家柄がいいαばかりで、中にはΩ高等院に通うΩと婚約しているαもいるという話だ。
その話を聞いたとき、思わず「いつの時代だよ」と突っ込んでしまった。当時まだβだったヤマブキも「なんだか時代劇みたいだね」なんて笑っていた。しかしΩになってΩ高等院に通い始めたということは、ヤマブキにもそうした相手ができる可能性があるということだ。
(もし恋人ができたとしても、俺がしっかりチェックするけどな)
そんなことを考えていると、額をペシッとヤマブキに叩かれた。
「キキョウったら、また変なこと考えてるでしょ」
「いいや、兄としてヤマブキを守ろうと決意し直しただけだ」
「もう、キキョウってばしょうがないなぁ。それより、アゲハ先輩には会ったの?」
「……会った」
「うわぁ。ってことは先輩の話、本当だったんだ」
ヤマブキが俺そっくりの茶色の目をパチパチと何度も瞬かせている。
(もしかして昨日のことで文句でも言われたとか……?)
あり得る。俺の態度が気に入らなかったようだし、ヤマブキを探し出して直接文句を言ったのだろう。俺はベッドの上に正座して「ごめん」と頭を下げた。
「え? なに、急にどうしたの?」
「昨日のことでその先輩に何か言われたんだろ? 制服は借りただけだってちゃんと言ったんだけど、やっぱり駄目だったか。ごめん」
電車通学するΩ高等院の学生を探し出すのは簡単だっただろう。ただでさえ学校で大変な目にあっているに違いないヤマブキに余計なストレスをかけてしまった。兄として最低だと思いながら、もう一度「ごめん」と頭を下げる。
「別にそのことで何か言われたわけじゃないから。ほら、頭上げてよ」
「いいや、俺が悪い」
「だから違うって言ってるのに。そりゃあまったく関係ないってわけじゃないけど、別に悪いことじゃ……あれ? でもキキョウにとってはいいことでもないか。でも悪いことでもない気がするし……どっちだろ」
何か考えているっぽい声にそっと顔を上げた。ヤマブキが首を傾げるたびに俺と同じフワフワな茶髪が揺れている。俺がやると間抜けにしか見えない仕草もヤマブキがやると微笑ましく見えるのはどうしてだろう。「見た目はそっくりだけど、そういうところは違うよな」なんて思いながら見ていると「うーん、どっちかなぁ」とまた首を傾げた。
「どうしたんだよ」
「ええとね、アゲハ先輩はα高等院の三年生なんだけど、そのアゲハ先輩がキキョウを探してるらしくて」
「俺を探してるって、やっぱり昨日のことか」
「そうなのかなぁ。でも怒ってるようには見えなかったよ? そりゃあ校門の前に先輩の車があったのには驚いたけど」
「おい、それって待ち伏せじゃないか」
「ほんとだ。おれ、アゲハ先輩に待ち伏せされたってことか」
「なに呑気なこと言ってんだよ! αに待ち伏せされるなんて大変なことだろ!? ヤマブキ、ネックガードちゃんとしてるよな!? 絶対に外すなよ!?」
「だから、そういうことじゃないってば。もう、キキョウってばちょっと落ち着いて?」
「でも、」
「それに先輩が探してるのはおれじゃなくてキキョウのほう!」
「俺を直接ボコボコにしたくて探してるのか?」
「違うってば。そうじゃなくて、何か確かめたいことがあるんだってさ」
「確かめたい? 何を?」
「そこまでは聞いてないけど……ほら、あの車。どうしても直接確かめたいからって、あそこで待ってる」
窓の外を指さすヤマブキを見て、それから外を見た。部屋から見えるのは小さな裏庭で、その先に車が一台通れるくらいの細い道がある。そこに黒塗りの高そうな車が停まっていた。
「最初はつがいの確認かと思ったんだけど、でもキキョウはβだもんね。ってことは何を確認したいんだろう?」
不思議そうにつぶやくキキョウの声に「αがβをわざわざ探し出すなんて、ボコボコにする以外に何があるんだよ」と思った。でも、それを口にすればヤマブキは心配するだろう。
取りあえず会ってみるしかない。それにあんなところにずっと停車されても困る。どうやら両親ともまだ帰ってきていないようだから、驚かせる前に何とかお引き取りいただかなくては。
いろんな意味で腹を括った俺は、部屋着に着替えると顔を洗って適当に髪を整えた。「いきなり殴られたりはしないだろうけど」と思ってもやっぱり緊張する。なにせαは体も大きいときている。昨日抱きしめられたときもすっぽり覆われるような感じだった。蘇った温もりに「うへぇ」と盛大に眉をしかめながら、「あの体格で殴られたら、俺吹っ飛ぶ自信ある」と怖くなる。
「殴られませんように」と祈りながら玄関を出て裏道に回った。車の後部座席に近づいたところで昨日の美形が降りてくる。
「やっぱり身内だったのか」
「……俺に用事があるって聞いたんですけど」
相手が先輩だとわかり、一応言葉遣いに気をつけることにした。「いまさらって気もするけどな」と思いつつ、何を言われてもいいように覚悟を決めながら少しだけ顔を伏せる。ところがアゲハ先輩とやらは何も言ってこない。変だなと思って視線を上げると、整った顔が近づいてくるところだった。
「だ……からっ! 何やってんだよ!」
慌てて仰け反り、そのまま急いで数歩後ずさった。そうしたのは昨日のことが蘇ったからで、また腰に手を回されでもしたら大変だからだ。
「まるで俺を嫌がっているような行動だな」
美形が眉をしかめている。不機嫌にさせるつもりはないが、そもそも急に顔を近づけてくるほうが悪い。
「昨日も思ったんだが、なぜそうやって逃げる?」
「いやいや、普通逃げるでしょうが」
「逃げないのが普通だ」
「んなわけあるか」
「逃げるどころか、皆俺に近づいてほしがるんだがな」
「モテるアピールかよ」
「事実を言ったまでだ」
すまし顔にムッとした。
(そりゃあα高等院に通うくらいのα様なら来る者拒まず状態なんだろうけど)
でも俺はただのβだ。平凡なβがαにすり寄るわけがない。
「あんた、何か確認したいんだろ? 早く言えよ」
「確かめたいのは香りだ」
「はぁ? 香り?」
「αがΩに確認するのは香りだ。常識だろう?」
「いや、俺Ωじゃないし」
「……は?」
美形の口がピタッと止まった。目を見開き驚いた顔までしている。
(ヤマブキがΩだから俺もΩだって勘違いしたのか)
とんだ思い込みだ。「キキョウだってそうでしょ!」と突っ込むヤマブキの声が聞こえたような気がしたが、突然キスしてくるような変態と一緒にされたくはない。
「だから、俺はβだ」
「……そんなはずはない」
「そんなはずもなにも俺はβなんだよ。いままでもそうだし、これからだってそうだ」
「しかし、双子だというおまえの弟はΩだろう」
「弟は後天性Ωとかいうやつなんだよ。検査した医者も驚いてた。なんか珍しい遺伝子らしくて、だからΩ高等院に通うことになったんだ」
おかげでヤマブキは大変な目にあっている……んだと思う。いじめられているのかはっきりしないものの、環境が変わって大変なのは間違いない。
ヤマブキの疲れたような笑顔を思い出したからか、段々腹が立ってきた。こいつのせいじゃないにしても、きっとこれからこういうαが現れてはヤマブキが大変な思いをするに違いない。そう思うだけでムカムカしてくる。
「とにかく俺はβだ。わかったなら、二度と俺とヤマブキの前に現れるな。いいな」
ビシッと宣言した俺は「言ってやったぞ」と鼻息も荒く家に帰った。これでヤマブキも安心して学校に通えるはずで、俺も少しは安心できる。ヤマブキに関しては本当にいじめられていないのか気になるところだが、勝手なことをして足を引っ張るわけにはいかない。
(それとなく見守ることにするか)
兄としてこれからもヤマブキを見守っていこう。そう決意した俺だったが、この後予想外のことが起きるとは思ってもみなかった。