13
(これでヤマブキも本当の意味でΩになったってことか)
顔を真っ赤にして眠るヤマブキを見ながらそんなことを思った。目の前で寝ているのはいつものヤマブキなのに、昨日までとは別人になった気がして寂しくなる。それに、これからはもっと変わっていくんだろう。恋人や結婚相手はαだろうし、紹介されるたびに複雑な気持ちになりそうな気がして眉間に皺が寄った。
「って、さすがにそういうのはまだ先か」
「……ん、キキョウ……?」
俺の声で目が覚めたのか、ヤマブキがゆっくりと目を開けた。倒れたときより少し落ち着いたように見えるが、潤んでいる目を見ると俺までつらくなる。
「ここ……」
「コザクラが車で送ってくれたんだよ。おまえ、発情してるんだってさ」
「……そっか」
「コザクラが薬くれたから、夜になったらまた飲もうな」
「うん」
「制服、着替えたほうがいいよな。ついでに体拭いとくか」
「うん」
「ちょっと待ってろ。汗拭きシート持ってくるから」
「うん」
大人しく返事をする様子に胸の奥がギュッと苦しくなった。
(こうしてると昔のままなのにな)
それが嬉しいような、なぜか切ないような変な気持ちになる。それを振り切るようにヤマブキの着替えを手伝った。ついでに俺も部屋着に着替えて、横になったヤマブキにタオルケットをかけてやる。
「父さんと母さんには連絡しておいた」
「うん」
「母さん、今日遅くなるから父さんがご飯買ってきてくれるって。何か食べたいものあるか?」
「……ゼリー」
「わかった」
父さんにメッセージを送りながら、潤んだ目で俺を見ているヤマブキに「寝ろよ」と声をかける。「うん」と頷きながらも、なぜかヤマブキは俺を見つめたままだ。
「どうかしたか?」
「……なんでもない」
嘘だなと思った。言いたいことがあるのに言えないときの仕草だということはわかっている。「そういうところも変わらないのに」と思ったからか、小さい頃のヤマブキを思い出した。
保育園に通っていた頃、年長組のやつに何か言われるたびにこういう目で俺を見た。助けてほしいけど言えなくて、でも言いたくてどうしようか迷っている顔だ。あの頃と同じ表情に「やっぱりΩになったこと、不安なんだな」と思った。タオルケットをギュッと握っている手を見て間違いないと確信する。
「久しぶりに一緒に寝るか?」
「なに言ってるのさ。おれ発情してるんだよ?」
呆れているような声だが嫌がっているふうには聞こえない。
「βの俺には関係ないだろ。そもそも兄弟なんだし」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「そっか」
そう答えたヤマブキの顔がホッとしたような表情に変わった。まるで俺を頼ってくれているような様子に胸のあたりがくすぐったくなる。それをごまかすように隣にごろんと寝転がると、昔と同じようにヤマブキが俺の服の裾をギュッと掴んだ。
(やっぱり心細かったんだな)
俺の行動に腹を立てていたのは本当だろうが、内心は不安でしょうがなかったに違いない。それでも俺がΩ高等院に行くのを嫌がったのは、いつもと違う自分を見られるのが恥ずかしかったからだ。兄弟だからこそ見られたくなかったというのもあったのかもしれない。そうとは知らず、無理やり潜入して覗き見までしてしまった。
「あのさ、昨日はごめんな」
謝ると、裾を掴むヤマブキの手に少しだけ力が入る。
「俺、今度こそ気をつけるから。二度と勝手なこともしない。ヤマブキの言うこともちゃんと聞く」
「……しおらしいキキョウって、なんか変」
「変じゃねぇよ。反省して心入れ替えたんだよ」
「キキョウらしくない」
「うるさいな」
照れ隠しにそう言うと、「おれもごめん。言い過ぎた」と囁くような声がした。
「いいって。それより寝ろよ。発情ってつらいんだろ?」
「何だか頭がボーッとする。体も熱くて変な感じ。でも風邪引いたときとは違うっぽい」
「そっか」
しばらくすると寝息が聞こえてきた。ヤマブキが眠ったら起きようと思っていたのに、俺まで段々眠くなってくる。「明日は土曜だし、このまま寝てもいいか」とヤマブキのほうに体を向けたところで甘い匂いがしていることに気がついた。
もしかしてと思ってヤマブキの頭の辺りに顔を近づけると花のような匂いがする。「そういえば」と前にアゲハ先輩が言っていたことを思い出した。
ヤマブキのΩの匂いは春の花みたいな感じらしい。ヤマブキの制服を借りたときも少しだけそんな匂いがした。でも、いま匂っているのはあのときよりもう少しはっきりしている。「これはヤマブキの匂いだ」と確信めいたものまで感じた。
(βでも匂いってわかるもんなんだな)
αやΩの匂いがわかるβもいないことはないだろうが、あまり聞いたことがない。それなのにわかるような気がするのは俺とヤマブキが双子だからだろうか。そんなことを考えているうちにウトウトしてきた俺は、そのまま夜までぐっすり眠ってしまった。
翌朝、ヤマブキの熱はすっかり下がっていた。あんなにつらそうだったのが嘘みたいにいつもどおりに戻っている。代わりに俺のほうが熱を出してしまった。
「次の日にキキョウが熱出すなんて、前と同じだね」
「あのときとは違うだろ。おまえのは発情で、俺のは風邪だろうし」
「学校に潜り込んだりするからだよ」
「……もうしない」
「うん、わかってる。あ、起きたら駄目だってば。ちゃんと寝てないと熱下がらないよ」
起き上がった俺を寝かせようとヤマブキが肩を押してくる。
「ご飯食べたらまた寝るって」
「ご飯、持ってこようか?」
「いいって。体が熱いだけでふらつくわけでもないし」
「でも、」
「大丈夫」
そう言ってベッドから立ち上がろうとした俺の手を慌てたようにヤマブキが握った。これじゃあいつもと逆じゃないかと苦笑しながらしっかり立ち上がり、「ほら、大丈夫だろ?」とヤマブキを見る。ところがヤマブキは眉間に皺を寄せたまま手を離そうとしない。
「ヤマブキ?」
「……この匂い」
「匂い? 何か匂うか?」
昨日の夜は何ともなかったからシャワーを浴びた。夜ご飯もしっかり食べたし、寝る直前まで熱が出るような気配は感じなかった。それなのに今朝起きたらこの有り様だ。
母さんは「やっぱり双子ね」と苦笑しながらお昼ご飯を用意して仕事に行った。父さんからは「もう無茶は駄目だからな」と言われ、ヤマブキにも「本当だよ」と言われて反省したところだ。
(もしかして汗臭いのかな)
クンクンと腕を匂ってみたものの、気になるような匂いはしない。
「変な匂いはしないと思うんだけど」
「そうじゃなくて、これって……」
ヤマブキが何か言いかけたところでチャイムが鳴った。俺が歩き出す前に「待ってて、ご飯持ってくるから」と言ってヤマブキが部屋を出て行く。
(平気だって言ってんのに)
これじゃ、いつもの俺たちと正反対だ。「ヤマブキだって十分心配性じゃないか」と思いながら部屋を出ると、どこからか甘い匂いがしていることに気がついた。
(なんだ? この匂い)
初めて嗅ぐような、それでいて懐かしいような甘い匂いがする。何の匂いが気になった俺は、気がついたらクンクンと鼻を鳴らしながら匂いがするほうへ歩き出していた。
(この匂い……杏仁豆腐っぽい気もするけど、それより甘いような……)
中華を食べたら必ず食べたくなる杏仁豆腐が頭に浮かんだ。ちょうどお腹が空いていたからか無性に食べたくなってくる。ぷるんとした食感と甘い香りを想像し、お腹がグゥと小さく鳴った。
「キキョウ」
ヤマブキの声にハッとした。いつの間にか玄関に来ていたらしい。そこには俺を見て少し驚いているヤマブキと、もう一人いた。
「先輩」
玄関に立っていたのは私服姿のアゲハ先輩だった。右手には相変わらずケーキの袋を持っている。コザクラから昨日のことを聞いてお見舞いにでも来たんだろうか。
(甘い匂いってケーキだったのか)
そう思ったものの、それにしてはやけに匂いが強い気がした。それに袋のロゴは俺もよく知っている洋菓子店のもので中身は洋菓子のはず。それなのに匂ってくるのはやっぱり杏仁豆腐みたいな匂いだ。
(杏仁豆腐っていうか、それよりもっといい匂いっていうか)
熱が上がってきたのか少しクラクラする。それよりも気になったのは甘い匂いで、空腹だからか食べたくて仕方がない。
(食べたい……この甘くていい匂いのものが食べたい……)
気がついたらそのことで頭がいっぱいになっていた。
(これが食べたい……これに食べてほしい)
「キキョウ!」
ヤマブキの声にハッとした。すぐ目の前に先輩がいることにギョッとしていると、グイッと腕を引かれて体がよろける。
「キキョウ、何やってんのさ!」
腕を引いたのはヤマブキだった。それになぜか怒った顔をしている。
「何って、」
別に何かしようとしていたわけじゃない。ただ甘い匂いに惹かれて、無性にそれが食べたいと思っただけだ。
(そうだ、この甘い匂いがほしくて……)
すぐに甘い匂いで頭がいっぱいになった。これが食べたい、これがいい、これがほしい。それしか考えられなくなる。どうしても食べたくて甘いそれに手を伸ばした。
「キキョウっ!」
再び思い切り腕を引っ張られ、そのままぎゅうっと抱きしめられた。そんなことをヤマブキにされたのは久しぶりで、驚きながらも「どうしたんだ?」とヤマブキを見る。
「ヤマブキ、何してんだよ」
「駄目だよ、キキョウ」
「駄目って、何がだよ」
「キキョウはΩじゃない。だからそんなことしちゃ駄目だ」
「そんなことって、何のことだよ」
「お嫁さん云々っていうのは冗談だって言ったよね? だからアゲハ先輩のことなんて見ないで」
「は……?」
言っている意味がわからない。なおもぎゅうぎゅうに抱きしめてくるヤマブキに戸惑いながら、頭だけ動かしてアゲハ先輩を見た。先輩ならこの状況を説明してくれると思ったからだ。
ところが先輩の様子もどこかおかしい。いつもはキラキラのすまし顔をしているくせに、眉間に皺を寄せながら口元を手で覆っている。まるで何かに耐えているような顔で、それなのに黒目だけは食い入るように俺を見ていた。
その目を見た瞬間、得体の知れないものが体を貫いた。まるで静電気が背中を突き抜けたような感覚に体がビクッと震える。思わずヤマブキに抱きつくと、力強く抱き返したヤマブキが「先輩、帰ってください」と口にした。
「帰ってください。それが一番いいってわかってますよね?」
「……しかし、」
「帰ってください。キキョウはΩじゃありません。少なくともいまはまだΩじゃない」
俺が最後に聞いたのはヤマブキの怒っているようなそんな声だった。それからの記憶は途切れ途切れで、気がついたらベッドの上にいた。あんなに匂っていた杏仁豆腐みたいな甘い匂いはもうしない。それが寂しいような、それなのにホッとするような変な気持ちになる。
(あれって何の匂いだったんだろうな)
気になったものの熱のせいで考えがうまくまとまらない。
結局、昼ご飯の卵粥はヤマブキが部屋まで運んでくれた。最後に解熱剤を飲んで再びベッドに寝転がる。
(そういえばヤマブキの匂い、昨日より強くなった気がする)
それに、この匂いがヤマブキのものだということもはっきりわかった。アゲハ先輩が言っていたとおり春の花っぽいなと思うのと同時に「ヤマブキっぽい」とも思う。
(βでもここまでわかる匂いってすごいな)
そんなことを思っているうちに段々眠たくなってきた俺は、そのまま翌日まで夢も見ずにぐっすりと眠った。




