12
次の日、早朝に目が覚めた俺はベッドに寝転がったままどうしようかと悩んでいた。ヤマブキの態度を思い返すと、これ以上余計なことはしないほうがいい。心配な気持ちはあるものの半分は自己満足に過ぎないとわかったからだ。
(いや、心配は心配なんだけどさ)
何かされているんじゃないかという心配ではなく、ヤマブキがどんどん変わっていくんじゃないかという心配のほうが強い。「いや、こういうのは心配じゃなくて不安か」と気づき、「はは」と力ない笑い声が漏れる。
そうこうしているうちに隣の部屋のドアが開く音がした。時計を見ると起きる時間になっている。これからヤマブキは朝ご飯を食べて学校に行くんだろう。
トントン。
ドアを叩く音にドキッとした。もしヤマブキだったらどうしようと焦っていると「キキョウ、入るよ」という父さんの声がしてホッとする。
「今日も欠席届、出すか?」
父さんの顔を見て、それから隣と部屋に続く壁を見た。少し考えてから「うん」と頷く。
「あまり無理をするのはよくないよ」
「してないって」
「キキョウはヒーローだけど、ヒーローだって完璧じゃない。それにキキョウにとってのヒーローはヤマブキなんだから」
「なんだそりゃ」
俺が呆れたように笑うと、父さんが「覚えてないのかい?」とわざとらしく驚いた顔をした。
「小さい頃、寝るときに電気を消すとキキョウはいつも怖がってた。でもヤマブキが一緒だとすぐに眠ってくれる。そのときヤマブキがね、『キキョウを守るのはおれだから』って言ったんだ。な? ヒーローだろう?」
「……んなこと覚えてないし」
「ははは。とにかく無理はしないこと。欠席届は出しておくけど、仮病は今日までだからね」
「わかってる」
父さんがドアを閉めた後、ベッドにごろんと寝転がった俺は目を閉じてΩ高等院でのヤマブキを思い出した。昨日みたいな重苦しい感じはしないものの、胸の奥をギュッと摘まれたような気分になる。
(……コザクラにお礼、言いに行くか)
でも、ヤマブキの様子を覗いたりはしない。そう決意してからΩ高等院の制服に着替えた。少しだけ慣れたヘアアイロンで髪を伸ばし、整髪料を付けてサラサラに整える。ヤマブキに借りたネックガードを付けてからボタンをしっかり留め、ヒラヒラのリボンを結んだら黒縁眼鏡をかけて完成だ。
(ヤマブキを必要以上に心配したりしないようにしよう)
それに心配になっても勝手に行動するのはやめよう。ヤマブキが言ったとおり、思い込みだけで勝手に行動するのはよくない。
(そういやヤマブキのやつ、俺が学校の様子を見るだけだって思ってたんだな)
Ω高等院の雰囲気を見たら安心するとでも思ったんだろうか。それでも大人しく帰らない場合を考えて隠れられる温室を教えてくれたのかもしれない。「俺がその程度で納得するわけないのに」と苦笑しつつ、ふと「ヤマブキも俺と一緒なのかもな」と思った。
俺はヤマブキが構わないでほしいと思っていたなんて知らなかった。ヤマブキも俺がここまでするとは思っていなかった。いつの間にか勝手に相手のことを一番知っているつもりになっていたということだ。
(今回のことはいいきっかけだったのかも)
こういうことはもうやらない。改めてそう思いながらΩ高等院に向かった。
午前中、俺は一日目と同じように温室の奥に折りたたみ椅子を置いて試験勉強をした。今日の移動教室や通る場所も教えてもらっていたが見に行ったりはしない。そうやって昼休みまでを過ごし、チャイムが鳴ったのを確認してから鞄を持って中庭に向かった。
(やっぱりいないか)
一日目にヤマブキが弁当を食べていた中庭にヤマブキの姿はなかった。もしかしたら今日もお茶会とやらに誘われているのかもしれない。それとも俺に見られたくなくて食べる場所を変えたんだろうか。
(ごめん、ヤマブキ)
心の中で謝っていると、待ち合わせをしていたコザクラがやって来た。
「もしかして待たせた?」
「いいや。俺もちょうどいま来たところ」
「今日で学校に来るのは終わりなんだよね?」
「あぁ」
「そっか。やっぱり少し寂しいね」
「学校には来ないけど何かあったらメッセージ送れよな。それに休みの日なら会えるだろうし」
「うん。……そうだ、夏休みにイベントがあるんだけど、それに来たらいいよ」
「イベントって、学生以外のΩと合同でやるっていうイベントのことか?」
「そう。キキョウなら参加できるんじゃないかな」
「なに言ってんだよ。俺、βだぜ? 参加できるのはΩだけなんだろ?」
「それはそうなんだけど」
「だろ? って、何だよ」
急にコザクラの顔が近づいてきてギョッとした。アゲハ先輩にされたことを思い出し、慌てて仰け反る。
「いきなり何だよ」
「ごめんね。ちょっと香りを確かめたくて」
「香りって、コザクラまでアゲハ先輩みたいなこと言うんだな」
「僕たちは香りでΩやαを確認するからね」
「確認も何も、俺βだって言ったよな? Ωの香りなんてしないって」
「わかってる。……うん、やっぱりアゲハの勘違いみたいだ」
「もしかしてアゲハ先輩から何か聞いたのか?」
眉をひそめながら尋ねると「ちょっとね」とコザクラが小さく笑った。
「俺のΩを見つけた、なんて急に言い出したから驚いたよ」
「……あの日のことか」
「あの駅、ミノワヤが入ってるでしょ? アゲハ、あの店で売ってるフランスの炭酸水が好きなんだ。いつもは家から持って行くのに忘れたからって、わざわざ買いに行ったみたいで」
フランスの炭酸水なんて飲んだことすらない俺は、曖昧に頷きながら「金持ちのこだわりのせいであんな目に遭ったのか」と苦々しく思った。
「それにキスをねだられたって珍しく興奮もしてたかな」
「ねだってねぇよ!」
「あはは、わかってる。そこはちゃんと注意しておいたから」
そういえば誰かに注意されたようなことを言っていたが、相手はコザクラだったらしい。
「あのあと制服を貸してほしいって言われたとき、もし見かけたら注意して見ていてくれって頼まれたんだ。まさかこうして友達になるとは思ってなかったけど」
「俺が何かやらかすと思ってたんだろうな」
「あはは、どうだろうね。でも安心して。キキョウからはΩの香りはしないから」
「それ、先輩にも言ってやってくれよ。あいつ、いまだに俺がΩだって思い込んでるんだよな。何度違うって言っても相変わらずケーキ片手に家に来るし、まったくどこが優秀なαなんだか」
「ふふっ、アゲハらしいなぁ。でも僕が三日間そばにいても変わらなかったってことは、キキョウはやっぱりβなんだよ。全部アゲハの勘違いだったってことだね」
「よかった」と微笑んでいるコザクラの横顔に、一瞬だけ違和感を覚えた。三日間で何度も見てきた笑顔なのにどこか違っているように見える。
「そうだ、今日はがっつりしたお肉系の料理をテイクアウトしてきたんだよ」
その言葉を聞いた途端に違和感なんて吹っ飛んだ。代わりにお腹がグゥと鳴る。それに二人して笑いながらステーキ丼や肉巻きポテト、ほかにもおいしそうな肉料理を次々と平らげていく。
「Ωって細いイメージだったけど、意外と量、食べるんだな」
生姜焼きを口に運んでいるコザクラを見ながら、そんな感想を口にした。
「そりゃあ育ち盛りだからね。でも、たくさん食べても太ることはあまりないかな」
「そうなのか? そういやヤマブキも最近よく食べるようになった気がする」
「αもΩもフェロモンが発達し始めると、そっちにエネルギーを使うみたいなんだ。だから食欲が増したり、こういうがっつりしたものを食べたくなったりするみたいだよ」
「へぇ」
コザクラは身長こそ俺より少し大きいものの、体つきは全体的にほっそりしている。昨日のサンドイッチも今日のテイクアウトもしっかり食べているのにその体型ということは、αやΩは体のつくりからして俺たちとは違うんだろう。
(ヤマブキもそうなっていくってことか)
そう思うとやっぱり少し寂しい。思わずそう思ってしまった自分を「だから!」と戒めた。食べることはいいことだし、別に病気じゃないんだから心配する必要はない。それなのに、つい気になって余計なことを考えてしまう。
「そうだ。今日も午後の授業がないから一緒に帰らない?」
「へ? 一緒に?」
「うん。二時過ぎにうちの車が来るから、校門の近くで待ってて」
「車……」
「どうかした?」
友達と一緒に帰るのに車を使うなんて初めてだが、きっとΩ高等院ではこれが普通なんだろう。そう思ったら「車はちょっと」とは言いづらい。
「わかった」と頷いた俺は、教室に戻るコザクラを見送ってからも、しばらく中庭で過ごすことにした。ここは教室や渡り廊下から見えないから教師や警備員に見つかることはない。二時近くになってから校門に向かえば三日間の潜入調査は終わりだ。
(結局、ヤマブキを怒らせるだけで終わったな)
帰ったらちゃんと謝ろう。心配するのをやめるのは難しいが、これからはヤマブキの言うことをちゃんと聞くようにする。いままでは言わなくてもわかっていると思っていたのも間違いだった。
(俺たち、もっと話したほうがいいのかもな)
まるで何十年も一緒にいる夫婦みたいなことを思った自分におかしくなった。「少し勉強しておくか」と単語帳を見ている間に二時前になった。
伊達眼鏡をかけ直し校門に向かうと、ちょうどホームルームが終わったばかりなのか大勢の学生が歩いている。ロータリーには次々と車が停まり、門の外にも何台もの車が見えた。
「やっぱりすげぇな」と感心していると、後ろから「花岸先輩!」という声がした。ドキッとしながら振り返ると。数メートル離れたところにヤマブキがいる。慌てて隠れようとしたものの校門までの間に隠れられそうな場所はない。せめて人混みに紛れようとしたが、ヤマブキが俺を見つけるほうが早かった。「しまった」と思ったが遅かった。違うんだと顔の前で手を振る俺に、ヤマブキがしかめっ面を返す。
(覗き見しようとしたんじゃないって!)
慌てて踵を返そうとしたそのとき、「先輩!?」という悲鳴のような声が聞こえてきた。慌てて振り返るのとヤマブキが倒れるのはほぼ同時だった。グラッと揺れたヤマブキの体が、そのままドスンと地面に崩れ落ちる。
気がついたときには走り寄っていた。立ち止まる学生たちを押しのけ「ヤマブキ!」としゃがみ込む。
「キ、キョ」
「おいっ、どうしたんだよ!?」
「声、おおき、」
「おまえ、また熱出してんじゃねぇか!」
触れた腕がやけに熱い。顔も赤く額には汗がにじんでいた。この前よりもしんどそうに見えるのは息が荒いからだろうか。体を抱き起こしながら額に手を載せたところで「キキョウ」と呼ばれて顔を上げた。
「コザクラ」
「花岸くん、もしかして発情に入ったのかも」
「え?」
「香りは薄いけど、たぶん間違いない」
発情という言葉にドキッとした。Ωは発情するとフェロモンが大量にあふれ出すと聞いた。そのフェロモンを嗅いだαにうなじを噛まれるとつがいになり、結婚することになる。ここはΩ高等院だからΩしかいないが、校門を出たらどこでαに捕まってしまうかわからない。
「早く連れて帰らないと……」
「僕の車に乗って。運転手はΩの発情にも慣れたベテランだから大丈夫。ここまで車呼ぶから、ちょっと待ってて」
そう言ったコザクラがスマホで誰かに電話をかけた。五分もしないうちに一台の車が近くに停まり、運転席から初老の男性が出てくる。
「コザクラ様、こちらの方でございますか?」
「うん。もしかしたら初めての発情かもしれない」
「車内に抑制剤がございます。後部座席でよろしゅうございますか?」
「うん。キキョウも後部座席に乗って。家までの案内も頼める?」
「わ、わかった」
うろたえる俺をよそに、ヤマブキを抱きかかえた男性が後部座席に乗せてくれた。続いて俺が乗り込むと、助手席に乗ったコザクラが「これ、飲ませてあげて」と言って錠剤とペットボトルの水を差し出す。
「ヤマブキ、これ飲めるか?」
「の、める、」
「ほら、水」
「ん」
上半身を少し起こして薬を飲むことはできたが、すぐにくたりと倒れてしまった。慌てて膝の上にヤマブキの頭を乗せ、ハンカチで額の汗を拭ってやる。
「あと一錠渡しておくから、夜もう一度飲ませてあげて。初めての発情なら二、三日で収まると思うけど、もしそれ以上続くようならこっちの錠剤がいいかも」
先に渡されたほうは真っ白な錠剤で、次に渡されたのはピンク色をしていた。Ωの発情を抑える薬があることは知っていたが、種類があることは知らなかった。もしコザクラがいなかったら薬のこともわからず何も対処できなかったに違いない。
(やっぱりちゃんと話そう)
Ωについてもちゃんと聞こう。ナイーブな問題だとしても、知っていればこういうとき俺にもできることが何かあるはずだ。そういう心配ならヤマブキだって嫌だとは言わないはず。
家まで車で送ってもらい、部屋には運転手の男性が運んでくれた。何度も頭を下げる俺に、コザクラが「Ωもαも発情したΩの手当には慣れてるから気にしないで」と気遣ってくれる。
「コザクラがいてくれて助かった」
「気にしないで。今回の発情が収まったらお医者様に抑制剤の相談したほうがいいかも。後天性Ωだと薬の効き方が違うかもしれないし。学校にも専門医がいるって、花岸くんに伝えておいてくれるかな」
「わかった。ほんと何から何までありがとな」
「いいって。……それにキキョウに感謝されると少し胸が痛むから」
「え? なに?」
「ううん。それじゃ帰るね」
何かつぶやいたような気がしたが、コザクラはそのまま帰って行った。
(ヤマブキが落ち着いたら、改めてお礼しないとな)
父さんと母さんに「ヤマブキが発情したっぽい」とメッセージを送り、俺は様子を見るためにヤマブキの部屋に向かった。




