鏡の国のアイツ
車列はのろのろと動き、止まってはまたのろのろと動く。
渋滞に巻き込まれてしまった。前方で起きた事故が原因だ。おそらく先ほどまで降っていた雨のせいだろう。それはワイパーも意味を成さないほどの激しさだった。
高速道路なので脇道に逸れることもできない。イライラしながらふとバックミラーに視線を向けると、動くものが見えた。
なんだろうと目を凝らす。人だろうか。車道の真ん中だ。渋滞に痺れを切らせたドライバーが前方の様子を見ようとでもしているのか……。ってまさか。高速道路で車から出るなんて常識では考えられない。
車が緩やかなカーブに差し掛かったので、それは鏡に映らなくなった。不思議に思いつつも、きっと後部ガラスに付いた水滴が、なにかの拍子にそう見えたのだろうと自分を納得させた。
やがてカーブを抜けると事故現場が見えてきた。そこを通り過ぎると、渋滞も解消された。
数日後、取引先から車で会社に戻る途中のことだ。信号待ちをしているとき、バックミラーを見てぎょっとなった。車道の真ん中を人が歩いている。
それで高速道路でのことを思い出した。あの時と同じ奴だろうか?それにしたってなぜ車道の真ん中を?
怪訝な気持ちでその様子を眺めた。あの時よりも随分距離が近いので、その姿ははっきりとわかる。白い車線の上を歩く顔色の悪い男。その足取りはふらふらと覚束ない。
肉眼で見てやろうと思い振り返った。しかし車道にいたはずの男の姿はどこにも見当たらない。窓から顔を出してもう一度見ても同じことだった。
シートに座りなおし、再びバックミラーを見る。
いた。先ほどと同じようにふらふらと歩いている。
どういうことだ?
プッ。とクラクションを鳴らされた。信号が青に変ったようだ。
鏡越しに後方を気にしながら、私はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
残業を終えると10時を回っていた。疲れた体を引きずりながら駅のホームに向かう。
電車に乗るときはいつも先頭車両の一番前と決めていた。そこから進路を眺めるのが好きなのだ。
乗客はまばらだった。スマホを見たり、居眠りしたりしている。
私は列車の前方に顔を向け、光に切り取られた景色が流れていくさまをぼんやり眺めていた。
そうするうち、ガラスに映りこんだ車内の様子に焦点が合った。連結部分のドア近くに男がいた。電車に揺られるせいか、右へ左へ足をとられながらもこちらに歩いてくる。
奴だ。車のバックミラーに映ったあいつだ。
恐る恐る振り返るも、車内のどこを見渡してもその姿はなかった。
もう一度ガラスに映った車内を見る。
いた。ゆっくりとだが確実に、男は私のほうに歩いてくる。
振り返るとやはりいない。つまり奴は肉眼ではなく、鏡やガラスに映った状態でしか見えないということだ。じゃああいつは何者だ?高速道路で初めて目にしたときから、じわじわと近寄ってくるように思えるが、私が目当てなのか?
そう考えている間にも奴は一歩また一歩と近寄ってくる。どう考えてもそれはよくないもののように思えた。生憎ここは先頭車両。これ以上逃げる場所などない。
だが幸いなことに電車は駅のホームに滑り込んだ。自らドアをこじ開けるようにして外へ飛び出した。そのままの勢いで家路を急ぐ。途中にカーブミラーがあった。それを目にして心臓が高鳴った。私の数メートル後に奴の姿が見えたからだ。たまらず私は走り出した。
血相変えて帰ってきた私を見て妻は目を丸めた。
「どうしたの」
「追われてるんだ」
「え?誰に?」
玄関のほうを見る妻の手を引いて洗面所に駆け込んだ。
「ほら、見えるだろ。俺の後ろに変な男が……」
鏡を指差したのだが、そこには私と眉をひそめる妻が映るだけで、背後の白い壁紙以外は何も見えない。
「どうしたの、あなた。大丈夫?」
心配そうに私を見る妻に、
「ああ、ちょっと、疲れてるのかな」
照れ隠しに苦笑を浮かべつつ頭を掻いてみせると、
「もう。しっかりしてよね」
そういい残し、妻は寝室のほうへと姿を消した。
翌日。
休みだった私は昼過ぎまで寝てしまった。普段ならもっと早くに妻にたたき起こされるところだが、昨夜のことがあったのでそっとしておいてくれたのだろう。
遅めの昼食を終え、ソファに転がりながらテレビを見るうちにまた眠ってしまったようだ。肩を揺らされて目が覚めた。
「ちょっと、いくら日曜だからって寝すぎでしょ」
時計を見ると3時を回っていた。ごめんごめんと言って体を起こすと、妻は私の隣に腰掛けた。
「ねぇ。近くに新しいカフェができたんだけど、散歩がてら行ってみない?」
期待に満ちたその視線。断るわけにはいかないだろう。
近所というから家から数分程度かと思っていたが、もう三十分近くも歩いている。文句の一つも言ってやろうかと思っていると、不意に雷が鳴った。見上げれば西の空から真っ黒な雲が迫っている。
「おいおい。なんだか降りそうだぞ」
「大丈夫よ」と根拠もないのに言い切った妻はのんびりと歩く。
そのうちに彼女が小走りになり、古民家風に仕上げられた建物の前で足を止めた。
「ここよ、ここ」
妻が入り口のドアを開けたとたん、先ほどよりも大きな雷の音が鳴った。その直後に土砂降りの雨が落ちてきた。
慌てて店に入り、席に着いた。
ガラス越しに外を眺めながら、
「ほらみろ降ってきたじゃないか」
「だから大丈夫だって。きっと夕立だから、ここで休んでる間に止むわよ」
またしても根拠のない妻の言葉に閉口しながら、私はテーブルに置かれたメニューを手に取った。
早々にケーキセットを平らげた私は席を立った。
「ちょっとトイレ」
まだ半分しか食べていない妻は「んー」と視線も上げずに応じた。
用を足し、鏡の前で手を洗ううち、昨夜のことを思い出した。
あれはいったいなんだったのか。きっと電車の中で眠ってしまい、夢でも見たのだろう。
鏡には苦笑を浮かべる俺しか映っていない。
ふと、背後の壁の黒い天が目に付いた。さっきまであっただろうか。突然現れたような気がするが……。
そう考えながら振り返る。漆喰塗りの壁には汚れ一つない。
再び鏡に視線を向ける。黒い天が少し盛り上がって見えた。いや、よく見ればそれは黒くない。なんだこれは……と思いつつ鏡越しにそれを凝視するうちに気づいた。
鼻だ。
徐々に見えてきたのは人の鼻だった。それだけはない。ゆっくり、ゆっくりと、その続き、つまりは人の顔がじわじわと壁から染み出すように見えてきた。
奴だ。
そうか。そういうことか。
昨夜、洗面台の鏡にこいつが映らなかったのは、まだ距離が離れていたからだ。私の後ろには壁があった。距離にして一メートル程度だ。それよりも奴が後方にいたので、鏡には映らなかっただけだ。そのときも、きっとあいつは壁の向こうでゆっくりと私に近づいていたに違いない。
そして今、ここの壁と鏡は昨日と同じくらいの距離だ。だがそれよりも奴が近づいてきたから、その姿が見えてきたということだ。
そう考えている間にも、スローモーションのように奴が壁を突き抜けて出て来る。その手がまるで、私を掴もうとするかのように伸ばされる。
たまらずトイレから転げ出た。妻がいることも忘れて店を飛び出し、そのまま無我夢中で走った。
鏡を見てはだめだ。鏡を見れば、すぐ後ろに奴がいる。追いつかれればどうなるのか、嫌な予感しかしない。
街中にはそこかしこに鏡があった。ガラスだってある。私はなるだけそれらに近づかないようにしながら、とりあえず公園に駆け込んだ。ここなら私が映るようなものは何もない。
いつの間にか雨は止んでいた。ひんやりした空気が火照った体に心地いい。
ポケットの中でスマホが震えだした。それで思い出した。たぶん妻からだろう。怒っているに違いない。
携帯を手に取り、画面を見た瞬間、私は思い切り遠くに投げ捨てた。画面の背景の黒い部分が鏡のようになり、そこに私が映っていた。その背後で、奴がまさに私の肩に手をかけようとしていたからだ。
どうしよう。いったいどうすればいいんだ。鏡の中から私を追いかけてくるあいつは何者だ?なぜ私を追う……。
と考えるうち、不意に遠い記憶が甦った。
母と田舎に泊まりに行ったときのことだ。
子供の頃、毎年夏休みになると母の実家に何日も泊りがけで遊びに行った。そこはW県の北部にある旧家で、庭の一角には立派な蔵も建てられていた。
蔵には普段鍵がかけられていたので中に入ることはできなかった。だがある年、その屋根裏でシロアリが見つかったとかで、駆除業者や修理業者を出入りさせるためにしばらく開け放たれた期間があった。
田舎で暇をもてあました子供がそれを見逃すはずもなく、幼かった私は探検気分で蔵の隅々まで見て回った。
古びた箱に入った壺や皿から始まって、置物や昔の農機具のほか、なにに使うのかわからない道具類が、壁に設けられた棚に雑然と並べられていた。
そんな中、蔵の一番奥に隠すように置かれていた鏡台が目に付いた。たとえ使わなくとも、鏡なら鏡面をこちらに向けておくものだと思うが、それは奥の壁に向けられていた。
どうしてだろうと思いつつ、鏡台を180度回転させた。鏡面にかけられていた布をめくりあげる。あどけない私の顔が映った。
見たところ普通の鏡だった。何か特別な仕掛けでもあるのだろうかとしばらくその鏡面を眺めるうち、背後に誰かの姿が映った。
しまった。勝手に蔵に入ったことを叱られる。そう思いながら恐る恐る振り返った。しかし誰の姿もない。辺りを見回してから鏡に視線を戻す。
いた。青白い顔の男がゆらゆらと体を揺らしながら、幼い私の背後に立っていた。
何度も振り返り、鏡と自分の背後を交互に見る。やはり鏡に映っている男は現実には存在しなかった。
「僕はそっちの世界にはいないよ」
鏡の中の男が言った。
「君は、誰?」
「僕はミヨシ。君は?」
「タケヒコ」
「そうか。タケヒコくんか」
男は薄く笑ってから、
「タケヒコくん。お願いがあるんだ」
「なに?」
「見ての通り、僕はここでずっと一人ぼっちだったんだ。だから、友だちになってくれないかな?」
「いいよ」
幼い私は何も考えずに軽く応じた。すると男は安堵の表情を浮かべた。
「それなら友だちの証に、今日から一週間、毎日僕に会いにきてくれるかい?」
「うん。蔵が開いていればね」
「よかった。じゃあ、今日はもういいから。ほら、誰かに見つかるとまずいしね。もう行くといい」
肯いて、蔵を出て行こうとする私に、
「ああ、ちょっと。この鏡台は元通りにしておいてくれ。それから、このことは誰にも言っちゃだめだよ。僕たちだけの秘密なんだから」
言われたとおりにしてから、私は蔵を後にした。
それから毎日蔵に忍び込み、鏡を覗き込んだ。うれしそうに笑う男の表情を見れば、子供ながらに私もなんだか幸せに感じた。
初めて鏡を見てから七日目のことだ。
その日も蔵は開きっぱなしになっていたので、私は人目を忍んで蔵に入った。
鏡台をこちらに向け、かけられていた布をめくりあげる。
私の背後にいる男が満面の笑みを浮かべていた。
そのときだ。
「こら!なにしてる」
どたどたと乱暴な足音がしかたと思うと肩をつかまれ、鏡の前から引きずり離された。そのまま蔵の外に放り出されると、怖い顔をした祖父が私を見下ろしていた。
「タケヒコ。お前、あの鏡を見たのか?」
怒られたことに萎縮した私は無言で肯いた。
「あいつは?あいつは見たのか?」
たぶんあの男のことだろう。もう一度肯くと、祖父は狼狽した様子で私の前にしゃがみこんだ。
「いつからだ?今日が初めてか?」
首を振ってみせた。
「じゃあいつからだ?」
「一週間くらい……」
私の言葉を最後まで聞かずに祖父は立ち上がると、
「おーい。誰か。来てくれ。大変だ」
その声を聞きつけた祖母がやってきた。祖父から小声で何かを告げられた彼女の目が見開かれ、それが私に向けられた。
「まあ、大変……」
祖母が声を漏らすのと同時に、母がその場にやってきた。
祖父母の様子がただならぬ気配を発していることに気づいた母が「どうしたの?」と二人を見る。
祖父が母に説明をする。彼はだんだんと興奮してきたのか声が大きくなり、その内容が私の耳にまで届く。それを要約するとこんな話だった。
祖父の父、つまり私の曽祖父は好事家で収集癖があった。その鏡台は彼がまだ若い頃に骨董市で入手したもので、七日続けて覗き込めばその中に引き込まれるという言い伝えが添えられていた。曽祖父は実際に試そうとは思わなかったし、またそんな言い伝えが本当だとは信じていなかった。ところが当時まだ幼かった祖父は好奇心旺盛だったらしく、こっそり七日間鏡を見続けることに。
ある日息子の姿が見当たらないことに気づいた曽祖父は、まさかと思い例の鏡を見た。案の定そこに息子の姿を見た彼は、当時その家で雇っていた使用人の三好何某という男をだまして鏡を見させた。鏡の外に出るには代わりの者が必要だと骨董屋から聞いてあったからだ。
七日が過ぎ、三好と入れ替わるように鏡から息子が出てくると、曽祖父は鏡台を蔵の奥深くに仕舞い、以後誰にもそれを見せることはなかったという。
「じゃあなに?タケヒコは鏡の中に引きずり込まれるってこと?その三好って人の代わりに」
パニックを起こして喚く母。その肩に祖母はそっと手を添える。
「仮にそうなったとしても、誰か身代わりを立てれば助かる話じゃない」
ね、と同意を求めるように祖父を見るが、彼は険しい表情で言い放つ。
「バカを言うな。私の父の頃とは時代が違うんだ。誰かをだまして鏡に閉じ込めるなんてこと、できるわけがないだろう」
すると母が攻めるような口調で、
「だったら指を咥えて見てるの?鏡の中のタケヒコを」
「いや、その心配はないはずだ。既に七日が過ぎているが、ほら……」
そこで幼い私を一瞥してから、
「こうして鏡から引き離したら、タケヒコは無事じゃないか」
「でも、あの鏡がある限り、安心できないわ……」
「それならいっそ割ってしまおう。そうだ。簡単じゃないか。あの鏡台をこわしてしまえばいいんだ」
祖父は蔵の中から鏡台を担いでくると、それを高々と持ち上げ、地面に叩き付けた。
塵取りと箒を持ってきた祖母が粉々になった鏡を片付けた。
これで全てが終わった。
祖父母や母の表情がそう物語っていた。
私だってそう思っていた……。
ああ。なんてことだ。
奴じゃないか。鏡の中で私を追ってくるのは、あの時のあいつだ。
あの日を境に母は実家に寄り付かなくなった。必然的に私もそうなった。
だからあいつは、30年かけてW県から追ってきたということか。
「久しぶりだね」
唐突に聞こえた声に振り返った。だが誰もいない。辺りを見回していると、
「こっちだよ」
その声で足元を見た。
水溜りができていた。
その水面がまるで、鏡のように凪いでいる。
その中で奴は右手を差し出した。
「さあ、次は君の番だ」
その手はしっかりと私の足首を握っていた。




