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第6話

7月1日、平等軍は佐渡島から帰還した23万9400人の兵と

山形県中部酒田にて合流する予定だったが、佐渡部隊の被害が大きく、

実際の佐渡部隊の総数は7万1800人だった為、

平等軍本隊には士気の低下が顕著にみられた。

2日、新潟平等軍は連合政府軍と合流し、

平等軍を約50万人で迎え討つ事となった。

いよいよ最終決戦も迫り、両軍には緊張が走っていた。

4日、平等軍は村上・喜多方から

それぞれ約20万人ずつの兵力で下越・新発田へ侵攻・占拠した。

この日を連合政府は最後の休息日としたが、

最前線に居る者にとっては休息などなかった。

5日、新潟平等軍と連合政府軍は阿賀野川西岸に布陣し、

阿賀野川橋梁を除く橋を全て破壊した。

これにより両軍は否が応でも、ここで対峙する事とる。

6日、阿賀野川東岸の豊栄にて連合軍は平等軍を迎え討つ事となり、

湿地化し田に足を取られた平等軍を撃退、平等軍はそのまま新発田まで撤退。

この一戦に勝利した事は膠着していた戦線を溶かしはじめた。

10日、平等党の一党独裁に抵抗する市民が仙台中心街で蜂起し、

この運動が山形・秋田・福島にも波及、大規模反乱となった。

ネット社会と呼ばれる現代でこれを隠蔽するのは不可能だったらしく、

一夜にして「東北の春」と称して大運動が巻き起こった。

11日、平等軍は新発田から撤退し、連合軍・新潟軍と一時停戦。

新発田以降の進軍が見込めなかった連合にとって、

「東北の春」による混乱は進軍の大きな一助となった。

平等軍は13日月曜から次々と反乱を鎮圧、首謀者を処刑し沈静化させる。

これには国際社会からも非難轟々であり、平等党政府を承認する国家は随分と減った。

15日、新潟政府が正式に連合に加盟し、西日本府県連合は日本府県連合に改称。

とはいっても、新潟は依然として独立国の体をなしていたが、

連合への加盟は正式な提携を内外に示すもので、平等党政府でも動揺が走った。

16日、平等党政府は各県に平等党評議会を設置し、

日本平等党同盟を結成。あからさまに日本府県連合への対抗意識の表れであった。

米沢の平等党評議会を議長格とする体制だが、何も変わっていないらしい。

平等党は新潟平等党に加盟を求めるも、

新潟平等党は従属ではなく対等関係を望むとして拒絶。当然だ。

18日、新潟平等軍が福島に侵入、平等軍と会津若松で衝突。

喜多方などの諸都市は新潟側の進軍と平等党政府の失政から

平等党政府を見限って新潟側に付いた。

19日、西福島の平等軍は会津若松城に籠城するも、落城。

落城時に城は再び穴だらけになり、平等軍は多大な犠牲を出した。

これにより趨勢は殆ど決定したと皆が認識した。

22日、会津若松の落城を聞いた東福島の平等軍は福島市に集結、

反撃のための兵装を整えていた最中に新潟軍が攻撃し、宮城へ敗走。

平等軍の多くが捕虜となるも自殺者が多発。

25日、新潟平等党は福島県の併合を宣言。平等党政府は反発。

日本府県連合も突然の発表に驚いたが、

平等党政府が盛り返した際に緩衝国となる事も期待し黙認。

8月3日、平等党政府は米沢から札幌に突如移転。

米沢から札幌への移動中に北上駅にて工藤浩太書記長が急死。

毒殺説が出回り、幹部の多くが法に基づかず逮捕され、私刑を加えられたとか。

翌日から第3代書記長の座を巡り、前書記長の息子で平等軍司令官で

平等党の各県支部での自治を唱える工藤恵海太氏と

平等党の民主化を唱え北海道の伊達武宗氏が争うも、

工藤氏の独裁制確立により伊達氏は敗れた。

7日、伊達氏はクーデターを起こすも、北海道南部にしか波及せず、

「道南の乱」は9日の室蘭陥落で幕を閉じた。

しかし伊達氏を始めとする多くの遺体は発見されず、

特に伊達氏については敵味方ともに大捜索を開始した。

11日、伊達氏は仙台にて仙台平等党の結成を宣言、連合政府に加盟要請も保留回答。

日本平等党同盟は仙台平等党に伊達氏の身柄引渡か加盟をさせようとするも、

仙台平等党は加盟も身柄引き渡しも拒絶し、平等軍は宮城県域に侵攻。多賀城まで進軍した。

12日には平等軍は仙台に迫り、市街戦が始まった。

しかし仙台市民は仙台平等党の指示のもと南部や仙台城内に避難したため、人的被害は抑えられた。

13日、新潟平等党は仙台平等党の支援を発表、蔵王周辺まで進軍。

平等軍は仙台市外縁部を殆ど制圧し、新潟軍の迎撃作戦を展開した。

14日、連合政府は仙台平等党の加盟を承認し、連合軍も派兵開始。

最終決戦の地は仙台に定まりそうだ。

15日、平等軍は仙台市街の北部防衛線にあたる仙山線北仙台駅を突破、

仙台軍は東北大農学部棟に籠城するも爆破され、青葉区役所方面へ撤退。

しかし平等軍も損失が大きく、深追いはしなかった。

16日、宮城県庁・仙台市役所周辺で激戦、仙台軍の勝利だったが

両軍多大な損害を被り、仙台軍は南部への退路を模索し始めた。

仙台軍はこの勝利で一時の命を長らえたが、平等軍の進撃には成す術がなくなりつつあった。

17日、仙台空港周辺の名取に新潟軍到着、

しかし同日、青葉区東部に位置する仙台駅は平等軍の戦車乱入で陥落。

仙台政府本部は仙台城に移転し、市民は仙台市外に散り散りになった。

18日、新潟平等軍・連合義勇軍が仙台市街到着。広瀬川で戦闘、連合政府軍勝利。

現地入りしていた平等軍はこれで壊滅的打撃を受け、

一時的ではあるが仙台軍が圧倒的に有利となった。

19日、工藤書記長が直接率いる平等軍本軍が仙台到着、

仙台駅、宮城県庁前などで戦闘し、戦線はこの間を数往復したため、

建物は殆ど崩れ去り、白煙とともに剥き出しの鉄の棒の刺さった瓦礫が転がっていた。

この戦線の頻繁な変化に対応できなかったのか、

平等軍の指令本部が敵地の真ん中に留まった。

そして工藤氏を拿捕。

20日、平等党政府内の反工藤派である停戦派が停戦を申し入れ、仙台平等党と講和。

平等党政府の領域を岩手・秋田・青森の3県と北海道に限定。

21日、工藤氏を解放するも、平等党政権は崩壊した。残る各道県は連合政府に降伏。

2037年8月22日、日本府県連合は内戦終結を宣言したが、

激戦地となった地域の被害は甚大なものであった。

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