惚れたら腫れた
「あ~、これはアレやね。恋煩いやね」
「あの、俺この腫物を診てもらいに皮膚科までわざわざ来たンすけど」
35度を超える炎天下、必死に自転車を漕いでやって来たというのに目の前の医者はふざけた事を言う。
確かに右手の甲にできた腫物はハートの形こそしているが。いやしかし。
「せやね、やから恋煩いやね。その年頃によ~なるヤツ」
「話聞いてもらっていいですか。ピン球ぐらいありますよ、この腫物」
「昔から『惚れた腫れた』言いますやろ。これは片思いしてる人特有の『恋煩い』。思春期ニキビと同じや思てもろたらええですわ」
冗談みたいな事を平気で言ってのける眼前の医者を今にも殴りそうにな左手を必死に押さえつける。
「薬とかは」
「意中の相手にその燻った想いをぶつけるだけですわ。見事に実ろうが敢無く砕けようがその内治まりますわ。心因性やさかい」
怒りやら恥ずかしさやらで駆け出しそうになる理性を押さえつける。
受付で会計を(こんな診断に金を払わなければならない事に憤りつつ)済ませた際、念のためといって塗り薬の抗生物質を渡された。それだけ受け取ると速やかに家に戻った。
右手の腫物が「恋煩い」かどうかは別として、意中の相手がいるのは確かだ。
高校生ともなればいてもおかしくはないだろう。だが医者に言われたから、腫物を治したいからと言って心中を相手に伝えるなんて事ができるだろうか。そもそも、伝えなかったらどうなるのだろう。想いの分だけ腫物も膨らむのだろうか。今は痛みも痒みも無いけれど、その内他の症状も併発するのだろうか。考え始めれば思考はどんどんマイナスの方向へ坂道を下ってゆく。
それに「恋煩い」と言われてからずっとアノ子の顔が頭の片隅に留まっている。これは困る。
この腫物が治らない限りずっと煩悩と共に行動する事になるのだろうか。非常に困る。
「明日少し声をかけてみよう」なんて考え始めている。そんな自分に一番困る。
気が付けば眠っていたようで、枕元で目覚ましがけたたましく鳴っていた。
アラームを止め、シャワーへ向かい、着々と登校の準備を進める。
その間も右手の腫物と、「気になるアノ子」が脳内をぐるぐると巡っていた。
このままでは取るものも手につかない。腫物がきっかけになるのは癪だが、動くしかない。
決意を固めるや否や、太陽の照り付ける下を自転車を漕ぎだした。
止め処なく吹き出る汗も、空調の効いた屋内だと少しずつ引いていく。
少し早めに着いた教室に、まだアノ子はいない。
念のために腫物はガーゼで覆った。位置が位置だけにやや目立つ。
「あれ、その右手どうしたの?」
ふと背後から声がかけられ、慌てて振り返る。
声の主は猪谷。確か女子テニス部。朝練上がりか。
「あぁ...えっと、チャリで転んで」
「へぇ~災難だったね。保健室開いてて良かったね」
興味なさ気な返事を残して猪谷はフラフラと自分の席に戻った。
その時見てしまった。前置きしておくが偶然である。猪谷が着席する間際、左太腿の側面にハート型の腫物があった。虫刺され程度の大きさではあったものの。
まさか自分以外にも、と思いふと思いとどまる。
この腫物が本当に心因性で、恋心が原因で発症するのなら。
猪谷に、いやそれ以外の人間にこの形の腫物があっても何ら不思議ではない。
ゆっくりと教室内を見渡すと、首元やふくらはぎに絆創膏やガーゼを当てているクラスメイトが数人見て取れる。それにどことなくソワソワと浮ついているようにも見える。
ただの怪我だと思っていたが、そういう事だったのか。もしやライバルか、などとぐるぐる巡る思考を一瞬にして停止させる鶴の一声が響いた。
「おはようございます」
教室の入り口がら告げられたその挨拶は紛れもなく意中のアノ子が発したもの。
意識するよりも前に顔がそちらを向いてしまった。右手の腫物が心臓の様に脈打った。
慌てて目を逸らそうとして、停止する。アノ子の額に、昨日までにはなかった筈の、絆創膏が張られている。
「どしたのソレ!」
すかさず話好きの猪谷が食って掛かる。
「あぁ...えっと、思春期ニキビです。潰してはいけないので絆創膏を。見っともないですが...」
「マジ?だいじょ」
「大丈夫?これ昨日皮膚科で貰った薬なんだけど使ってみる?」
しまった。気が付いた時には体が動いていた。会話を邪魔された猪谷の視線が痛い。差し出したのはただの抗生物質だし自分に処方された薬は他の人に使わせちゃダメだしそれに__
「いいんですか、それではお借りしますね」
そう言って彼女が剥がした絆創膏の下には、ハート型の腫物があった。