執筆想起ー書きながら想うー 30代・会社員・男
「…うん」
夜の9時。
ある程度の所まで書いて、一息つくことにした。
昨日、プロットを思いついた小説を書いていた。
プロットとはいえ、大分具体的なイメージが出来た物だから、あらすじや展開、思いついたシーンの行間を埋めていくような書き方で進めている。
けれど、こういう書き方も嫌いではない。
新しく思いついた構想をプロットにする。プロットを具体的な小説として、文章に書き上げる。
このストーリーを、状況の進展をどう書き表すか。見せるか。
例えばストーリーが桃太郎であっても、どんな演出で表現で描くか。それだけで印象が変わると思う。
いきなり激戦の末、鬼を倒したカタルシスのシーンから、回想でその経緯を語ってもいい。
犬が戦っているシーンでの犬との出会い~旅、決戦に至る回想が断片的に流れるなんて、中々面白そうだ。
そうして猿、雉と回想し、最後に桃太郎の回想。
彼はどのような経緯で、いかに鬼退治の激戦で勝利を収め、今どのような心境で表情でそこにいるか。今やボロボロの服で立ち尽くす、その表情が犬からは良く見えない、なんていうのも面白いかもしれない。
軽妙な民話ではない、重厚なドラマ性のある小説が出来そうだ。
(今度、やってみようか)
まぁ、とにかくそれくらい、ストーリーやプロットとは別に、その演出・見せ方たる文章を考えるのは、また違った面白さがある。
魅せ方の問題だとも、言えるかもしれない。
ストーリーを思いついていても、どんな風に見せようか、どんなシーンの進展で描こうか悩む事がある。
逆にこんな進め方なら、こんな展開や演出をされたら続きが気になるに違いない、ワクワクするだろうなという表現方法を思いつきながら、そんなハイテンションなストーリーは持っていないなとなる事もある。
…マグカップが空になっているのに気づき、イスから立ち上がる。台所に行き、電気ポットから湯を入れる。
紅茶のティーバッグを、そのままカップの中に浸す。
夜に何か書くときは、なるべく珈琲を飲むのは避けるようにしている。
小説を書くのは趣味であり、平日の昼間は普通の会社員だから、夜眠れなくなるのは困るのだ。
今日も土曜の夜だからといって、あまり遅くまで起きていると生活リズムを崩しかねないので、遅くまではやらない。
けれど…ふと、学生時代のようにそんな事を気にせずに、休日だけでも自由気ままに寝起きしてみたいとも思ったりする。
本を読んだり映画を観たり、無論小説を書くのにも夢中になって、気がついたら朝になっていたなんてことが、学生時代にはよくあった。
白んだ空を見たり、新聞配達のバイクの音を聞いて寝床に入るなんて、当時はザラだったが今ではまず無い事だ。
あの頃はあの頃で、金も無く先も分からない不安があった。だから一概に、あの頃が良かったとか戻りたいだとか言うつもりはない。
しかし、思い出すのは良い事ばかりだから、段々と人が学生時代を美化する理由が分かってくる。
嫌な思い出は忘れていくか無意識に見ないようにし、良い所だけがぼんやりと残るから、結果美化されていくのかもしれない。
独り身の賃貸暮らしだから、結婚している人からは自由で良い良いと言われるが、やはり時々、学生時代と比べてしまう。
これで結婚などしたら、どれ程に拘束された生活なのだろう。
昭和じみた企業戦士的な生活は、俺には無理だな。
そう思って、ふっと笑った。
俺はこの生活で満足だ。少なくとも、作品を読み、たまに書く。
それができてうまい食事が出来れば、それが邪魔されない限りは、俺は満足なのだと思う。
逆に、これらがもし邪魔され出来なくなったら、例え世間的に良いと、恵まれているとされる状態にあっても、たぶんその環境を飛び出してしまうだろう…。
マグカップと少しの菓子類を持って、机に戻る。
椅子に腰掛け、再びさっき書いていた文章に目を通す。
書き始める前に、PCでラジオを流すことにした。
最近は便利で、ネット上でいくらでも綺麗な音質のラジオを聴く事ができる。過去の放送等もそうだ。
ネットラジオなんかもあるから、選択肢が豊富で助かる。
こうして小説を書く時には、音楽以外のBGMとして重宝している。
また、俺はあまり聴かないが、自分の小説がもしラジオドラマになったらと想像するのも楽しい。
今書いている小説の内容にあわせて、ラジオ番組を選ぶ。紅茶をすすって、続きを書き出した。
土曜の夜、まだまだ時間はたくさんある。
仮に少し遅くなっても明日は日曜だし、そも明日に続きを書くことだってできる。
こういう状況自体が、贅沢で幸福な物に感じられる。
1番の理想は、毎日自由に読んで書けるのが理想だが。
頭の片隅でそんな事を考えながら、段々と書いている小説の事が頭を埋める割合が増えていく。
小説の中に、入っていく。
「…んん、よし」
あれから、突っかかる所なく一気に最後まで書いてしまった。
勢いづいて途中から、ラジオも切っていた。
最後まで見えている線のようなものを、切らないようにというような感覚で書き上げた。
こういう時は、たまにある。
最後ではなくても、話やシーンの節目に、そこが完成するまでを綺麗につなぐような、線のように繋がった綺麗な流れが、思い浮かぶ事がある。
その線は、放置していたら消えてしまいそうで、あるいは後で変質してしまう気がして、見つけたら急いでその形だけでもメモするように、書き留める。
そしてなるべくその、綺麗な流れを文章に落とし込めるようにしていく。
内容をメモしておけば、後でも詳細は書けるだろうし実際そうする事も多い。
しかし、細かな部分、ディティールやニュアンスは忘れてしまっていたりする。
ストーリーやプロットというよりは、映画のワンシーンのようなイメージだから、それを思いついたら覚えている内に文章にした方がいい。多少興奮し、感情的になってもいいのだ。冷静な修正・微調整はそれこそ、後で出来る。
・・・時計を見ると、11時半を少し過ぎていた。
校正と投稿は明日やろうと思う。
今は完成させた満足感を楽しんでいたい。
校正とは関係無く、出来た小説を読み返す。
印象に残ったシーン、気に入っている箇所等を読む。
さっき書き終わったばかりなのに、いやだからこそなのか、序盤のシーンや場面を読み始めたら止まらなくなった。
そんな風に堪能して、結局PCを落としたのは12時半だった。
明日の投稿を考えると、楽しみでまだワクワクしている。
そして同時に。
もう次にどんな話を書こうかと考えはじめていた。
まだ話は全然考えていない。
けれど、また今書いたように小説を書きたいという意欲だけが沸いていた。
なぜ、ここまで心踊るのだろう。
理由は尽きないけれど、小説を書いているから出来る体験を、またしたいと思う所が、特に強いんじゃないかと思う。
・・・そこまで考え、もう寝なければと思い、コップを片付ける。
寝る準備をし、照明を消した。
寝床で天井を見つめながら、さっき中断していた“体験“について考える。
・・・時々、小説を書いていると焦がれるような、高まるような感覚になったりする。
それは書いていた小説のクライマックスだったり、思い入れのあるシーンだったり、自分の想いを込めた部分だったりすると尚更だ。
思いついた事をただ書いているんじゃない。ここに今、そのシーン自体が作られていて、その瞬間を自分はただ、運良くそこで観ることが出来て、立ち会うことができて、ただただそこで展開を見つめている。
書いているのに、まるで息を飲むように見つめている。何が起こるのだろう、どうなるのだろう。そう思いながら、それを見届ける。
最後まで見届けた時、気がつけば見ていた風景が、出来事が、小説に載っている。
その小説を後で読み返した時、まるで別の世界を旅した自分の日記のように感じる。
既存の作品を読む事でも、同じような体験は出来るかもしれない。いや、出来るのだろう。
しかし、自分で書く作品との違いは、その見ていた光景、出来事は、自分にしか見る事が出来ないという事だ。
どこにも無い、自分で書いていかなければ見れない物を見れ、かつ自分だけが、それを記録し残す事が出来る。
人によって異なるのだろうが、俺にはこの体験が、とても特別な体験に感じられる。
毎回感じられる訳じゃないし、その必要も無いと思う。
ただこの先、また一度でもこの体験が出来るのなら、俺は小説を書くのを、辞めることは無いと思う。
書くのが好きだ。だから体裁や形式なんて二の次で、ただ、その体験が好きで書いている。
明日も、投稿が終われば次のプロットを書いているかもしれない。前に書いたプロットを、文章に起こし出すかもしれない。
予定は無い。
ただ、予定無くいつでも好きに書けるという事だけが分かっていた。
それだけで、俺は満足して眠りにつく事が出来た。
明日は、少し遅く起きるかもしれない。