其の二
季節の塔は周囲を底の見えない堀で囲われている。
塔と陸を繋ぐ一本の可動橋だけが、塔を往来する唯一の手段である。
橋が二つに分離してしまえば、
世俗とは完全に隔離され塔は完全なる陸の孤島となる。
梯子や、一旦堀の底まで降りてから登る、などということは誰も考えないだろう。そうして行方知れずになった人間を何人も知っているからだ。
次第に雪が降りはじめ、やがて吹雪となった。褒美目当てに女王を救出せんと、塔を包囲するように陣取っていた人々は吹雪の激しさに退散を余儀なくされた。
《ケイス…私よ…》
ケイスの胸元にあるフクロウのバッジが目を瞬いた。
「おっと、ボスからだ」
「遅ぇよって言っとけ!」
《こちらケイス》
《許可が出たわ。やって頂戴》
《了解。あとホセが後で話があるって》
《……交信終わり》
ケイスが頭を撫でるとフクロウは目を瞑った。
「よし、行くぞ」
「爺さん、出発すんぞ!」
ホセの声に、草むらから雪まみれの老人が目を擦りながら起き上がった。
彼の名はエル・ビエント。年齢不詳だが高齢ということは分かる。皺のある顔に、つま先まで隠れる深緑色の長いローブ。年格好に反して姿勢は背筋を伸ばして杖も持たずに歩くが、雪の中でも眠れるほどの図太さも兼ね備える老人である。
アルディラが空に向かって杖を三回、円を描くように振ってみせた。すると吹雪の幕を切り裂いて何者かが現れた。瞬時に上空から降下してきた巨大な何かは、まもなくケイス達の近くに木々を薙ぎ倒しながら降り立った。
アルディラが手を上に差し出すと、それは姿を現した。
不視鳥と呼ばれる大型の鳥で、彼の使い魔である。
「俺たちが息を潜めてた理由をソイツに教えてやれよ」
怪鳥は猛禽類に似た瞳をホセに向けると「ガウァ」と鳴いた。
「使い魔は主人に似るというが、その通りだな」
「どういうことだよ?」
「鳥は賢いってコトさ」
四人は頭のほうから順番に怪鳥の背中へ乗り移った。
「落っこちるなよ、爺さん。翼の付け根に乗られるのは苦手みたいだからな」
「むしろそれを期待しとるだろ、貴様」
怪鳥は翔び立つと同時に、再びその身を空へ溶かしていった。
眼下の塔は灰色の吹雪に囲まれ、只ならぬ空気を纏っている。
時折、吹雪の中に稲妻が見え隠れするのは、
雪片が猛烈な速度で衝突を繰り返す所為なのだろうか。
侵入者を阻む渓谷を悠々と飛び越え、怪鳥は曇天を突き抜けた。
真っ青な空を仰ぎ見、急降下して、彼らは塔の足元に降り立った。
併設された兵舎は無人で、雪に屋根を潰されている。
「全員、塔の中か。当番制って聞いてたけど」
「そっちのほうが楽で良い」
ホセが壁に触れると、指先が石壁の中へと沈んでいった。肘元まで消えたところで腕を力任せに引っこ抜くと、堅牢な石壁はババロアかのように柔らかく崩れ去った。ホセの魔力は発火などという生易しいものでなく、火口付近で煮え滾るマグマすらも凌駕してしまっていたのだ。
断面から熱を発する穴に向かって、ビエントが口から眠気混じりの白い吐息を送り込んだ。吐息はすぐに羽の生えた人型の妖精となり、それぞれが意志を持って無邪気に塔の内部を飛び回った。
「これでエエじゃろ」
数分待って、四人は穴から内部へと侵入した。
石の階段は螺旋を描きながら上階まで続いている。
肩を怒らせ昇ろうとするホセを、ケイスが制止した。
「俺が先行する。お前じゃ背中がデカくて援護できん」
ケイスは左手に球状の魔力を固定しつつ階段に足をかけた。
三人も彼のあとに音を殺して続く。
予想通り塔内部には大勢の近衛兵が居た。しかし今はビエントの放った妖精たちによって睡眠欲を嫌が応にも刺激され、一同夢の中である。
上階から漏れる灯りが薄暗い下階からは眩しく感じる。
階段と上階のつなぎ目から近衛兵の頭が見えた。
ふらつく足が階段を降りようとしている。
ケイスは反射的に左手の魔球を放った。
光弾となった魔力の塊は兵の兜を粉砕し、
直撃した者を階の隅へと追いやった。
「おいおい、殺しちゃいないだろうな?」
兜を砕かれた若い男は、不意の衝撃に脳を揺さぶられ困惑しているのか、朧げな顔で横たわっていた。
「『睡魔』を耐えるとは、流石エリートは違うの」
ビエントは感心しながら男のこめかみを指で押した。
すると押された方は瞳を蕩けさせて安らかな眠りに落ちていった。
「もっと強めに眠らせろよな」
「これ以上やると心臓まで眠ってしまうからの」
内鍵の掛かった扉を前にしてケイスはアルディラを手招きした。
少年の服の袖から子蜘蛛が数匹這い出て、扉と床のわずかな隙間から向こうへ入っていった。事前の偵察で使役した親蜘蛛では狭すぎて潜入出来なかった場所である。彼は蜘蛛の視界を通して部屋の中を伺った。
通路とは打って変わり生活感のある部屋。女王の居住空間に違いなかった。床には絨毯が敷き詰められ天井には眩く輝くシャンデリア。壁には四つの季節を半裸の女に擬人化した版画。部屋の一角を占拠しているのは顔の三分の二が眼球の人形達。水とカラフルな小瓶の詰まった細長いガラスの置き物。年月を経て四人の趣味嗜好が混ざり合いカオスとなっている。見てて眩暈がする。
「いないね。誰も」
アルディラは子蜘蛛を袖に戻して言った。
彼と入れ替わりにホセが扉の前に立ち、夕陽色に染まった腕で裏に掛かる閂ごと扉を融解させた。扉を開いて瞬時に、ケイスは不穏な気配を感じ取った。それは他の三人も同様らしく、一同はその場から飛び退いた。同時に壁が崩れ、石床が半円状に陥没した。
微かな唸り声を耳にしてアルディラは叫んだ。
「雪男ッ!」
「姿が見えない!」
「『霧のベール』が施されてる!」