「窓から見える景色」
共幻文庫コンテスト第八回お題「一杯の水」で投稿した作品です。
改稿する予定です。
腹水盆に返らず。そんな諺がありますが私はこの言葉が嫌いです。だって、そうでしょ、床にこぼれた水はそのまま床をピタピタと流れて元には戻らないって、がっかりじゃないですか?
私は、いつも定まった景色から外を眺めています。私が住んでいる部屋の窓から見える景色からは、犬を連れた主婦や、アスファルトで工事をしている人たちがよく見えます。でも、私は歩けないから、いつもこの窓から部屋の外を見るしかないんです。
私には話相手がいません。だって、私に向けられる言葉はいつも蝶のように私の周りの空間をフワフワと飛んでいたり、あるいはハエ叩きでたたきつけたような押しつけがましさで、私はその言葉に応えて良いのかどうなのか、迷ってしまってだから答えないのです。私は決して無口な方ではありませんが、向こうの方で勝手に無口だと思い込むから、だから黙っているのです。私だって、こうして汗だくになって道路に穴ぼこを開ける工事のおじさんや、学校帰りでふざけあいながら下校する小学生達ばかり見ていてもあくびがでてしまいます。こんな景色ばかり見ていては私だって寝てしまいます。いつの間にか、頭が垂れていました。
こうして、すやすや眠っていると、黙ってコップに水を入れて呑ませてくれる人が私にはいます。私は熱い夏の日差しに心底、参っていましたから、喜んでその水を飲み干しました。彼は、私がしっかり水を飲んだか確認するため、指を私ののど元に押しつけると満足そうに頷いて、そして、またムッツリとしかめ面に戻って、離れていってしまうのでした。私は彼の寝癖で見えるつむじがとてもおかしくて、だから、そんなおっちょこちょいな、彼がしかめ面をしているのがよく分からなかったのです。
私が彼を間近で見ることができるのは、彼が書類仕事をしているときです。彼の指先は難しい曲を弾くピアノの伴奏者のようにいつもはためいていて、ただ綴じ込むだけの書類がバラバラになっていました。彼はそれを頭を掻きながら静かに、ゆっくりとしゃがんで、拾い直すと、また小刻みに指をばたつかせて、書類を1時間もかけてやっと綴じ込んでいました。
そんな彼がいつの日か、叫びました。私の目の前で水を入れたコップを落とした時です。部屋を出て行った彼は二度と戻ってきませんでした。後にはカタカタと規則的な音だけが残りました。私は思いました。床に根を生やして、彼がこぼした水を一滴残らず吸い上げたいと。そう思って以来、私は、大人となり、根から足を生やし、土から足を自ら引っこ抜いてこうして無数の足で立っているのです。
私は瓶から足を出すと、床に飛び降りて、口元を床につけてチューチューとその水を吸い上げました。
周りでキンキンとした高い叫び声がこだましているのは聞こえましたが、気にせず、最後の一滴まで口元をつけて飲み干しました。彼が驚く顔が見たかったです。
私は飲み干した後で、上を見上げると灰色の天井が見えました。
私は二本の足で外に出て歩きました。
外に出ると、今までの土の柔らかな感触とは違った、固い所々尖った質感に私の足は驚きました。身体がしおれていくのを感じました。でも、諦めず、私は一歩一歩、その足を絡ませながら、歩いてみました。なんといっても、私は二本の足で(比喩的な意味ですが)立って歩けるのですから。ただ、今私が歩けている姿を見ている人が誰も居ないことは少々悲しいです。私は彼に私のこの姿を見て欲しいのです。
私がこうして、歩いて居る姿を彼がみたらどう思うでしょうか。素敵と思ってくれるでしょうか。
彼が行った先がどこなのか、私は正直検討もつきません。だけれども、私は歩きたいのです。暑くて、蒸し暑い夏ですが、歩いてる方が、ただ、土の中に埋まっていたときよりもずっとマシであることに気づきました。
でも、私の身体は正直です。茎がしおれていくのが分かりました。
足の長さが短くなって、折れ曲がって、蛇みたいに曲がりながらしか移動できなくなりました。
益々、葉がこけていきます。筋張った私の手のひらも、その筋を失っていきます。
私は、なんたって、植物ですから、水と太陽がなければ生きていけません。
そんな私が、水を絶って歩いているのですから、そんな私をみて涙を流さないわけにはいきません。自転車をこいでいるそこの主婦、見ないで下さい。あなたではありません。
だから、あなた、戻ってきてください。そして、私に一杯の水を与えてください。
私はついにヘナヘナと倒れ込みました。
それからどれくらい経ったでしょうか。つぎに目を覚ましたのは、夏も過ぎて冬にさしかかったときでした。
私はどこかも分からない。駅の構内で倒れていました。いえ、倒れていませんでした。
私は、ボトルの瓶に水だけを浸した中に入っていました。
おじさんは私を駅のベンチの下にそっと置きました。
冬の寒空を赤のタンクトップと「道」とプリントされたTシャツを着て、赤いポーチを腰回りにつけていました。
「一緒に走るかい?」
そう一言だけ私に言うと、彼は背を向けて、走って行きました。
背中には赤いバックが彼の走りに合わせて上下しています。
私はボトルの飲み口に手を引っかけて鉄棒のように出ると、そのまま、地面に下りて、彼の薄い頭めがけてついて行きました。
彼の頭を座標軸のように、その点から離れないように、頭を無理に上げて後をついて走りました。冷たい風が頬を強くひっぱたく感触は痛いのだとしりました。
長く頭を上げていると首が疲れて、下を向きました。
頭から目を離すと、飛び込んでくる景色は、どれも新鮮でした。
雑踏と言われるグレーのズボンから伸びている靴の群れも、ビニールが全部破れてむき出しになって自転車に立てかけてある傘も、地面に大きく引かれたドミノ倒しみたいな枠線の白い束も全部新鮮でした。私がこんな低いところしか見られないのは、私の背がどうしたって小さいからですが。
おじさんは足が速く、水で滑る私の足で追いつくことは難しかったのですが、それでもなんとかして、追いつこうと足を曲げながらついて行きました。
おじさんはぱたりと止まりました。私も次いで止まりました。
ここが終着らしいです。
私は休みました。根を広げここがどこか確認しました。
「すすが竹」と表札が見えます。
すすが竹の意味は分かりませんが、私はとりあえず、息を整えました。
そして、おじさんに水を求めました。
しかし、彼は私の合図に気づいていないのか、見向きもしません。
私は意地になっておじさんの頭をたたける位置まで、足から順に昇っていって、頭に昇りそのおでこを葉っぱでぴしゃりとたたきました。
おじさんは立ち止まったままです。おじさんは、珍妙なポーズで固まって立っていました。蝋人形のようにさっきまで走っていたのが嘘のようにそこには生命を感じませんでした。
私は諦めて、また頭をつたって、背中に回って彼のバックから一本の水の入ったボトルを取り出すと彼の前にわざとボトルを置いて、その中に足を入れました。そうして、ボトルの飲み口に手をかけて、捨てられた猫が段ボールから顔を出すように、外を覗いていました。すると、水が顔にかかりました。
それに伴って、どこからかアジサイの葉の匂いがしてきました。霧がかかっていてよくは見えません。白い砂に雨粒が落ちていきます。雨粒が全部空から落ちて、また、晴れになるまでの間だけ、外の景色を見ていてもいいですか?
それが、嫌なら、どうか、水を一杯やるぞと私の側に来て下さい。
私は喜んで、あなたの側まで、水を飲みに参りますから。
こぼれた水が盆に返らないなら、私はこぼれた水の側に行ってすすりますから。
だから、あなた、一杯の水を私に下さい。