9 お師匠様の側にいたい
店を出てすぐ、道ばたでアクセサリーを売っている露店でツェツイはふと足を止めた。きれいに並べられた指輪や首飾りの中から、薄紅色の桜の花をかたどった髪留めに目をとめる。
わあ、素敵……っ!
「似合うんじゃねえ? 買ってやるぞ」
背後からイェンがのぞき込み、ツェツイの視線の先の桜の髪留めに手を伸ばす。
「違います! そんなつもりじゃ……でも……」
ツェツイは慌てて手を振り、肩越しにイェンを振り返る。
「でも?」
「もし、あたしが〝灯〟の所属試験に合格することができたらお祝いに贈ってくれますか?」
「もし?」
イェンは肩をすくめた。
「もし、じゃねえだろ? もっと自分に自信を持て。って、同じ事を言われただろ?」
ツェツイは笑ってそうですね、と答え、え? と目を見開きイェンを見上げる。
「どうして」
そのことを?
確かに、お師匠様の家に来た初日、しおれかけたすみれの花を前にして落ち込んでいた自分に、アリーセさんは自信を持ちなさいと言って、魔術のお手本を見せてくれた。
「お師匠様は知っていたのですか? でも、あの時部屋にいたのは、あたしとアリーセさんだけだった……」
しかし、イェンはさあな、と笑ってごまかすだけ。
「それに、おまえが魔道士になったら、もっといいもんくれてやるよ」
「もっといいもの? それは何ですか?」
「今はまだ秘密だ」
「秘密? そう言われるとすごく気になります! 全然、想像つかないです。何なんですか? 意地悪しないで教えてください」
意味ありげに笑うイェンの袖を引っ張り、ツェツイはせがむような目で見上げる。
けれど、イェンは目を細め笑うだけであった。
その後も町を見て回り、家へと戻る途中〝灯〟の裏庭へと寄った。
「ヒナたち元気に育ってるかな?」
ツェツイは木の上を仰ぎ見る。
すると突然、イェンは木に登り手を伸ばしてきた。一瞬驚いたツェツイだが、すぐに大きくうなずいてイェンの手をとる。
軽々と引き上げられ、枝にしがみつく。
首を伸ばし、そっと巣の中をのぞき込むと、二羽のヒナが揃って口を大きく開け鳴いていた。
「かわいい。こんなに大きくなったんだ」
「もうすぐ巣立つかもな」
耳元に声が落ちツェツイはびくりと肩を跳ねた。
頬が熱くて心臓がどきどきする。背後にいるイェンの顔をまともに見ることができなくて、振り返ることもためらわれた。
木から落ちないようにと、背後から伸ばされたイェンの手がお腹に回されている。
心臓のどきどきがばれてしまわないだろうかと、はらはらしていたその時、さわりと心地よい風が吹いた。
揺れる髪を押さえ、ツェツイはそろりと視線を上げる。
目に飛び込んできた光景に息を飲む。
鮮やかな橙色の夕日が輪郭を滲ませ、空を雲を町並みを染め、ゆっくりとその姿を落としていく。
うっすらと宵闇に染まっていく空に星が煌めき始めた。
ツェツイは細いため息をついた。
いつも見慣れた町並みが、まるで違った景色に見えて不思議な感覚にとらわれる。
「きれいな夕焼け」
こんな素敵な景色を見るのはいつ以来だろうか。少なくとも母が亡くなってからはそんな余裕はなかったような気がする。生活のために働くことに必死で、学校の勉強も遅れをとりたくないと教科書にかじりついて、こうして顔を上げて回りの景色に目を向けることなどなかった。
『下なんか向いてても何もいいことねえぞ』
お師匠様の言葉が脳裏を過ぎる。
「あたし……全然、余裕がなかったんだな」
そのことをお師匠様が教えてくれた。
気づかせてくれた。
世界がこんなに素敵だってことを。
「ま、仕方ねえさ」
ツェツイはまぶたを伏せた。
しらずしらず、涙があふれそうになる。
その時であった。
「おい、あんなとこに万年初級、落ちこぼれの無能魔道士イェンと、薄汚いがきがいるぞ。相変わらずすることなくて暇そうだな。何やってんだ」
「何やってんでしょうね」
見下ろすと、二人組の少年がこちらを指差し笑っていた。
マルセルとルッツだ。
「バカは高いところが好きとか何とかって言うからな。何なら、一生そこにへばりついていればいいんだ」
「そうそう。君たちはずっとそこにいればいいのです」
マルセルとルッツは声を上げて笑いながらその場から去っていった。
「あなたたち! ま、待ちなさい!」
言い返してやろうと、身を乗り出しかけたがツェツイだが、イェンに引き止められる。
「どうしてとめるのですか? だいたい、あの人たちは誰なんですか!」
「〝灯〟の魔道士だよ」
「あの人たちが? 〝灯〟の……」
「そ、俺よりも大先輩だ」
「……お師匠様はあんなこと言われて悔しくないのですか?」
「悔しい? 別に、悔しくも何とも思わねえよ」
と、イェンは肩をすくめあっけらかんとした口調で言う。
「でも、お師匠様はほんとはすごい魔道士なのでしょう?」
「何故そう思う?」
「だって……」
「何度も言ってるだろ。あいつらの言うとおり、俺は万年初級、初歩の術も使えない無能魔道士だって。落ちこぼれで〝灯〟の笑いもの。それは事実だ」
そんなの……と呟いて、ツェツイは唇を噛んだ。
「見返してやればいいのに」
イェンはわずかに目を細め、ツェツイを見据える。
「おまえは魔術を手に入れたら、今と同じ事を思うのか? 見返してやればいいって」
ツェツイははっとした顔になり、自分が言ったことに後悔してうなだれる。
「……ごめんなさい。お師匠様のことを悪く言われて、つい」
「二度とそんなことは口にするな」
「はい」
うなだれるツェツイの頭をイェンはくしゃりとなでた。
「おまえは意外に気の強いところがあるからな」
それから無言で、夕日がすっかり沈みきるまで眺めていた。
空が薄闇色に染まり、吹く風に冷たさが孕み始め、ツェツイは不意にぶるっと身体を震わせる。
「冷えてきたな。寒いか?」
背後から抱きしめられたまま、頭をなでられる。
「大丈夫です」
「おまえは何でも大丈夫しか言わねえな。ちゃんと自分の言いたいこと言わねえと損するぞ」
「平気です。ほんとうに」
「そのわりにはほっぺたが冷たいぞ。さて、帰るか。ここで風邪をひかれたら大変だ」
軽やかに木から飛び降りたイェンは、ツェツイに降りてこいと両手を伸ばす。
「え? 無理です。こんな高いところから飛び降りたら、お師匠様の方が怪我しちゃいます。絶対押しつぶしてしまいます」
「心配すんな。しっかり受け止めてやる」
「お師匠様」
「俺を信じろ」
お師匠様がそういうと、本当に大丈夫なような気がして。
必ず受け止めてくれるような気がして……。
だから、思いきって木から飛び降りた。
羽があったらいいのに。
軽やかに身体が空に舞う羽があったら。
そんなことを考えながら両手を大きく広げる。
「あれ?」
落ちていく速度に逆らって、身体がふわりと軽く浮いたのは気のせいであろうか。
けれど、そう思った瞬間にはしっかりとイェンの腕に抱きとめられた。今の感覚は何だろうと思う間もなく、イェンの首に腕を回してしがみついた。
「どうした? 怖かったか?」
ツェツイは違うと首を振る。
あたし……。
お師匠様の側にいたい。
早く魔道士になって、お師匠様の側に並んで立ちたい。