8 お師匠様とデート?
いつものごとく双子たちを学校に送り出した後、ツェツイは朝食の後片づけを済ませ、家具の埃を払い乾いたぞうきんで丁寧に抜く。それが終わると今度は窓を磨き、庭に出て掃きそうじを手際よくこなして花壇の花に水をやる。
目まぐるしく動くツェツイの姿を、イェンは組んだ足に頬杖をつき、ぼんやりとソファーに腰掛け眺めていた。
家事なんてやらなくていい、魔術の修行を優先しろ、と何度言い聞かせても、これだけはさせてくださいと言ってきかないのだ。アリーセや双子たちが同じ事を言ってもそうなのだ。
居候という身であるがゆえ、ツェツイなりに気を遣っているのだろう。双子たちもツェツイに協力するため率先して家のことを手伝うようになったが……。
とにかく何かしなければ申し訳ないという気持ちもわからないでもないが。
子どもくせに、よけいな気を遣いやがって。
まあ、そう思うなら、それこそ俺がやれって話だよな。
イェンは苦笑いを浮かべ肩をすくめる。
家でも病気がちだった母親を助けるため、家事を一通りをこなしてきたツェツイだ。その手際は驚くほど見事で手早い。そして、最後に床をぴかぴかに磨きあげたツェツイはふうと、一息ついて部屋を見渡し満足そうにうなずく。
どうやら一通り終えたらしい。
ちなみに午前中の家事は、だ。
「お師匠様!」
小走りに駈け寄ってきたツェツイは、ソファーに座るイェンの膝に両手をつき表情を輝かせ見上げてくる。これで、ようやく修行にとりかかれると嬉しそうに。
「おうちのこと終わりました!」
「……」
頬杖をついたまま、イェンは無言でツェツイを見下ろす。
「どうしたのですか、お師匠様? 難しい顔をして」
それにしても、ほんと子犬みてえだな。
イェンはふっと笑って立ち上がった。
「よし、町に行くぞ」
思いもしなかったその一言にツェツイは町? と小首を傾げる。
「……いまから、ですか?」
「そうだ」
「わかりました。町で修行ですね」
「んなわけあるか。見せもんじゃねえんだから」
「えっと、修行はないのですか?」
「そ、今日は休み」
わずかだが、ツェツイの顔が強ばったのをイェンは見逃さなかった。いつもにこにこ笑うツェツイがこんな表情をするのは珍しい。むしろ素直な反応だろう。
修行に与えられた期間は限られている。そして、残された日数はあまりない。それなのに、いまだ魔術の断片すらも発動させることができず、期限が刻一刻と迫ろうとしているのだ。
時間はない。
気持ちが焦るのも無理はない。
そのことをわかっているはずなのにどうして? とツェツイの目にかすかに非難の色がにじむ。
「たまには心の休養も必要だ」
不満げにむうと頬を膨らませるツェツイの頭を、イェンはぐりぐりとなでまわす。
「そうむくれた顔をするな」
「でも」
「でもじゃねえよ。俺が行くって決めたら行くんだよ。ほら」
「……はい」
出かける支度をしろ、と急かすイェンに、ツェツイはどこか納得いかないという様子でありながらも逆らうことができず、しぶしぶとうなずいた。
◇
最初は、魔術の修行ができないことに不満気味だったツェツイだったが、しばらく町を歩いているうちにそんな思いもどこへいったのやら、すっかりと上機嫌となった。
やはり女の子、可愛い小物や洋服を見つけては立ち止まり目を輝かせ、さらに、店のガラスに映った自分の姿を見ては嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
子どもの頃から、もっとも今も子どもだが……家のことや学校の勉強に追われ友達と遊ぶことともほとんどなかったという。もちろん、こうして町中を歩き回るのも初めてだと。
「アリーセさんにいただいた可愛い服を着て町を歩くのがとっても嬉しくて」
今日のツェツイの格好は、すみれ色のふんわりとしたワンピースだ。歩くたびに腰のリボンがゆらゆらと揺れる。この場に双子たちがいたら、声を揃えてツェツイ可愛いぞ、似合ってるぞ、の連呼だろう。
ころころと笑い、はしゃいでいたツェツイだが、不意に立ち止まり、小さな手を伸ばしイェンの指先に触れてきた。
「どうした? 歩き疲れたか?」
ツェツイは違うと首を振り、触れた指先をきゅっと握りしめる。
「眠くなったか。しかたねえな、おぶってやるぞ」
イェンのツェツイに対する態度はどこまでも子ども扱いだ。
「眠くなんてありません。こうしてお師匠様に触れているととっても安心して。不思議な感じ。どうしてかな?」
イェンは笑ってツェツイの頭をなでた。
「おまえがそう思うなら、それは……」
「まあ、可愛らしい女の子ね。兄妹かしら」
側を通りかかった二人組の女性が、微笑ましい目でこちらに視線を向けてきた。さらにすれ違いざま。
「案外、父娘かもよ」
と言うのを、そんなわけあるか! と、心の中で言い捨てイェンはため息をつく。
「ひと休みするか」
「大丈夫です! あたし、疲れてなんかいません!」
握っていた指から手をぱっと離すツェツイの手首をつかんで引き寄せる。
「まったく、おまえは遠慮ばかりするんだな。もう少し、子どもらしくわがままのひとつでも言って俺を困らせてみろ。こう見えても俺は懐が深いから多少のことじゃ動じねえぞ」
と、ツェツイの手を引き歩き出す。ほどなくして、イェンは洒落た雰囲気の店へとためらうことなく入っていった。
その店は若い女性に人気のある店らしく、店内は女性客であふれていた。
イェンとツェツイが店に入った途端、店内が一瞬しんとなる。
「お、女の人がいっぱい! お師匠様! なんだか場違いです」
「俺がか?」
「あたしもお師匠様もです!」
「気にすんな。ほら、ついて来い」
そして、案の定、客、店員問わず女性たちの目がいっせいにイェンに向けられ息を飲んだのがわかった。そして、次に何やら低くささやかれるひそひそ声。
席についたものの、回りから向けられる痛いほどの視線に、ツェツイは落ち着かない様子でそわそわとする。
「あの……お師匠様は平気なのですか?」
「何が?」
「だって、あの……女の人、みんなこっちを見ています。いえ、見ているのはお師匠様のことで……それも、ものすごく熱い視線で……もしかして気づいていないのですか?」
「気づいてるけど」
「じ、じゃあ……」
「ま、実際俺、この通りいい男だし。こうやって他人から見られるのは慣れてるから」
謙遜する素振りなど欠片ほども見せず、あはは、と笑うイェンにツェツイははあ……と息を吐いて肩をすぼめ萎縮する。そして、ちらりと上目遣いでイェンを見る。
だけど本当にイェンがいい男なのも、存在するだけで華があるのも、人目をひくのも事実であった。
「こうしてると、あたしたち回りからどういう関係に見えると思いますか?」
「どうって、兄妹だろ? さっきもそう言われたし、もしくは親戚の子のお守りとか。間違っても父娘じゃねえ」
「恋人同士とかは?」
そう言った瞬間、ツェツイの顔がほんのり赤くなる。
「見えると思うか?」
「そうですよね。見えないですよね……」
「そんなことより、好きなもん食っていいぞ」
そう言われたものの、ツェツイはメニューを広げ何を頼んだらいいのかさっぱりわからないという様子でおろおろする。そもそも、こういうお洒落で可愛らしいお店に入るのだって初めてなのだ。
「いちごは好きか?」
「はい! 大好きです。お母さんがあたしのお誕生日になると買ってきてくれて、甘くておいしかったなあ。いちご……」
ツェツイの目はどこか遠い。
母親が買ってきてくれたいちごの味を思い出しているのだろう。
イェンは片手を上げ通りかかった給士の女性を呼び止めた。頬杖をついたまま、淡々と注文をする。給士の女性がイェンにみとれ頬を赤くしたのは言うまでもない。注文を繰り返す声も上擦っていた。
「お師匠様はこういうところへよく来るのですか?」
「よくは来ねえな」
ツェツイはもじもじと膝の上の手を動かし、そして、意を決したようにイェンに問いかける。
「お、女の人と来るのですか? 彼女さん、とか……」
最後の方はほとんど声にはならなかった。
しかし、ツェツイの問いにイェンは答えない。テーブルに頬杖をついたまま肯定とも否定ともつかない曖昧な笑みを浮かべるだけであった。
彼女と? と問いかけたツェツイだが、わざわざそんなことを聞かずとも、女性客がいっぱいの可愛らしいお店に男の人がひとりで来ないだろうし、男同士でもまず来ない。
ここへ来るとしたら女の人と一緒に決まっていると察し、しょんぼりとうつむきかけたツェツイの目の前に、注文したいちごのケーキとオレンジジュースが運ばれてきた。
途端、ツェツイの目がきらきらと輝く。
ピンク色のスポンジに真っ白なクリーム。その上にはたくさんのいちごをのせた見た目も可愛らしいケーキだ。フォークで崩してしまうのがもったいないくらい。
「うわあー! おいしそう。あれ? お師匠さまはコーヒーですか? 麦酒じゃないのですね」
「こんな店に酒なんかあるわけねえだろ。っていうか、真っ昼間から酒なんか飲むかよ。いいから食え」
ケーキを一口食べ、ツェツイは目を見開き頬に手をあてた。
「おいしい……」
イェンは目を細めて微笑む。
「アリーセさんのりんごのタルトもおいしいけど、このいちごのケーキもおいしいです」
「よかったな。他のも食ってみるか? 頼んでやるぞ。くまの顔したチョコレートケーキはどうだ? おまえ、そういうの好きそうだな」
「くまさんのケーキ……い、いえ! いいです……」
「その目はいいですって目じゃねえな」
思わずツェツイの口許が緩む。
その時であった。
「ねえ、すっごくいい男じゃない」
「ああ、あたし知ってるわよ。あの人〝灯〟の魔道士」
「うそ〝灯〟の!」
「声かけてみる?」
一般人からみれば魔道士は特別で憧れの存在だ。それどころか、エリート魔道士を捕まえれば玉の輿も同然。
「でも、魔道士としては落ちこぼれだって聞いたわよ」
「なーんだ、落ちこぼれかあ」
「えー残念」
「あらそう? 遊びなら、ああいう男と一度はつき合ってみたいかも。それに、すっごくうまそうじゃない?」
声をひそめて意味ありげに笑う女性の一言に。
「やだー! ちょっと、何言ってんのよー」
「でも、確かにそんな感じ。女の扱いに慣れてそう」
と、他の女性たちはくすくすと笑う。
「慣れてるところか、そうとうな遊び人って噂よ」
「ああ、やっぱり? そんな雰囲気だもんね。でも、もちろんただ遊ぶだけ。彼氏とか結婚するなら当然、将来性のある男じゃなきゃだめだけどね」
「まあね」
「そりゃそうでしょ」
などと、散々なことを言っている。
耳に飛び込んできた後ろの席の女性たちの会話に、ツェツイの手がふととまる。
フォークを手にしたままうつむくツェツイのあごにイェンの指が伸びた。
「どうした? 下なんか向いてても何もいいことねえぞ」
「でも、後ろの人たちお師匠様のこと、いろいろ……」
「口」
「はい?」
「クリームついてる。ほんと、子どもだな」
親指でツェツイの唇についたクリームを拭い、イェンはぺろりと舐めにっと笑う。
「お、お師匠様……」
ツェツイの頬がかっと真っ赤になる。さらに、後ろの席で女性たちが息を飲んだのが気配でわかった。
女性たちの勝手な会話はしばらく続いていたが、気にするのはやめにした。そもそも、話題にされている当の本人が、まったく気にもとめていないのだ。
それから、ツェツイは学校に行っていたときのこと、仕事のことなどイェンに語った。
イェンは頬杖をつき、ツェツイのお喋りに微笑みながら黙って耳を傾けていた。
「あたし、女の人がお師匠様のことを好きになるの、何だかわかる気がします」
「何? 突然」
うん、とうなずいたまま黙り込んでしまったツェツイに、イェンは変なやつだな、と笑った。
結局、イェンが頼んだケーキを三つも平らげてしまったツェツイは、にんまりと嬉しそうに笑って両手で頬を押さえ込む。
「あたし幸せです。こんなにおいしいケーキをたくさん食べられて」
これが年頃の娘なら体重がと気にするところだが、そこはやはり子どもだ。
「やっと、笑ったな」
ツェツイは首を傾げる。
「やっと? あたしいつも笑ってます」
「ずっと、思いつめた顔をしていたことに気づいてねえんだな」
「そうですか?」
「そうだよ。ところでだ」
突然、真顔になったイェンに、ツェツイは膝に手を置き居住まいを正して身がまえる。
イェンの表情は怖いくらいであった。
「残りの期間は魔術の修行に専念しろ。息抜きに弟たちと遊ぶのはかまわない。だが、それ以外のことはいっさいするな。必要ない」
それはつまり、家事はやるなということだ。
「あたし、大丈夫です。全然苦でも何でもないですから」
「おまえは俺の言っている意味がわからないのか」
「でも!」
「口答えはするな。俺はおまえを家事をさせるために家に連れてきたんじゃない。誰もおまえにそんなことを望んでいない。むしろ……」
「……迷惑?」
「困惑している。はっきり言う。俺の言うことがきけないなら修行はやめだ。このまま家に帰れ」
「そんなの……」
すでに仕事は辞めてしまった。
何が何でも〝灯〟の魔道士になるつもりでいた。
それが夢だった。
何より、もしこの場で見放されてしまったらこの先、生活ができなくなる。
「もう一度おまえを雇ってもらえるように、俺もおまえの仕事場に出向いて頭を下げてやる」
「いいえ! そんなことお師匠様にさせられません」
「あるいは、他に魔術を教えてくれる奴を探すのもおまえの自由だ。いや、勝手だ」
「他の人なんて……」
ツェツイはうつむいてしまった。
「顔を上げろ。下なんか向くなって言ったばかりだろ」
ツェツイはおそるおそる顔を上げた。
泣くまいと唇をきつく噛みしめ涙をこらえている。が、その目にはじわりと涙が浮かんでいた。
「あたし、ほんとはすごく焦っていて」
「そんなの見ればわかる。顔や行動の端々に出ている」
「約束の期限も迫ってきているのに、それなのに、何ひとつできなくて。どうしていいかもわからなくて。だけど、何かきっかけがつかめたら……でも、そのきっかけすらも……」
わからなくて、と声を震わせて呟くツェツイの目からとうとう涙がこぼれ、テーブルの上にぱたぱたと落ちた。
「お師匠様……あたし魔道士になりたいです」
こぼれる涙を手でごしごしと拭う。
「お願いです。見放さないでください。あたし、お師匠様じゃなきゃだめなんです」
「なら、俺のいうことをきけるな」
「はい」
イェンの手がツェツイの涙をすくいとる。
「わかればいいんだよ。もう泣くな」
ツェツイはもう一度はい、とうなずいた。
「ごめんなさい、泣いてしまって。回りの人が見てるのに」
「他人のことなんか気にすんな」
「アリーセさんに、またほっぺた叩かれてしまうかも」
「ああ……」
それはさすがにちょっと勘弁だな、とイェンは苦い笑いを浮かべた。