27 禁術
何ひとつ、おまえから失わせはしない。
その言葉の意味することは何か。
お師匠様はいったい何をしようとしているのか。
否、イェンがこれからしようとしていることに、ツェツイは薄々気づいている、という様子であった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「お師匠様は、何をするつもりなのですか……」
ツェツイの不安は拭えない。
もし、考えていることがあたっていたとすれば。
「だけど、さすがに大きすぎるな」
「大きすぎる?」
「刻を戻す時間が大きすぎるってことだ」
「と、き……」
ツェツイはかすれた声をもらす。
「やっぱり……あの日、試験の時間は過ぎていたんですね。でも、あたしが間に合うように、お師匠様は刻を戻した」
「まあな」
もはや、ここで誤魔化したところで意味はないと、イェンはあっさり認める。
「十一時の鐘が鳴ったのは、あたしの聞き間違いではなかった」
そう、確かに鐘は鳴っていた。
聞き間違えるはずはない。
あの時は、これ以上何も聞くなというイェンの態度に圧力をかけられ黙ってしまったが、やはりそうだったのだ。
「聞き間違いでも何でもねえよ。あの時、試験が始まる直前まで刻を遡った。それより、その話は後だ」
イェンはちっと舌打ちをする。
「今回ばかりはちょっと戻るというわけにはいかないかもな。しかたがねえ、あれの力を借りるか」
まったくもって気が進まねえけどな、とイェンは至極、不愉快そうに眉間にしわを刻み独り言つ。
おまけに深いため息までついて。
イェンは右手を前方にかかげた。しかし、持ち上がった腕にツェツイがしがみつく。
「だめです! 刻を戻す魔術は禁じられています。使ってはいけない魔術です! 〝灯〟に知られてしまったら、お師匠様が罰を受けることになってしまいます。それだけは絶対にいやです!」
腕にすがりつき、ツェツイは必死にだめですと首を振る。
「そんなの、ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ。この間の時だって誰も気づかなかったろ? 〝灯〟の上層部ですら。意外にそんなもんだ」
ま、俺の腕がよすぎるってこともあるかもな、と戯けた口調でイェンはそうつけ加える。
それは、ツェツイを安心させるための言葉か、あるいは本心からか。
冗談でも何でもないとすれば〝灯〟のみなから落ちこぼれだの、無能だの、仕事もしないで〝灯〟の裏庭で昼寝ばかりしていると、みなから散々な悪口を言われ続けているイェンであったが、実はそうとうな魔術の使い手であり、さらに、かなりの自信家であるということであった。
「この間はそうでも、今回もそうだとは限りません! お願いです。お師匠様やめてください。あたしのせいで、お師匠様を巻き込んでしまってごめんなさい。もういいんです。今すぐ……」
「だから、心配すんな。こういうことはばれないように要領よくやるんだよ。だけどそうだな。たとえ万が一ばれたとしても、俺には強力な後ろ盾がついている。そいつが何とかしてくれるさ。たぶんな、きっと、おそらく……」
その強力な後ろ盾という人物を思い浮かべているのか、イェンはふと遠い眼差しではは、と冗談とも本気ともつかない曖昧な笑いをこぼす。
「後ろ盾? それは、お師匠様のお父様……〝灯〟の長のことですか?」
「長? 違うな。長は関係ねえよ。もっとすごい権力を持った奴だ」
言って、やはりイェンは何故かおかしそうに笑う。
長、以上に権力を持つ人。
はたして、その人物はいったい誰なのかとツェツイは考え込む。しかし、そんな人間など予想もつかないと、ツェツイは首を振った。
そもそも本当にそんな人物がいるのか。だが、イェンの様子を見る限り、嘘を言っているようにもみえない。
「ちょっと特殊だが、刻を戻すのはこの辺りの空間にして……」
突然、ツェツイが肩をすぼめ悲鳴を上げた。
熱で窓ガラスが音をたてて割れた。
出火元の薪が積み上げられたすぐ隣の居間の壁が派手に崩れる。
食器棚が倒れ、中の食器が床に砕けて散らばり、さらに、支えるものを失った屋根が落ち、居間へと続く扉がふさがれてしまう。
「さすがに急がねえとまずいな」
イェンの顔が苦痛に歪められる。
ひたいにじっとりと汗が浮き上がり、こめかみに負った傷の血と混じり流れ落ちる。
柱を支えている自身の体力も、そろそろ限界であった。
それもそうだ。
炎と煙から身を守るために自分たちの周囲に結界を張り、それを維持するため魔力を使い続けているのだ。
それが途絶えてしまえば、すぐさま、たちこめる煙と炎にまかれ、二人ともお終いとなる。
落ちた柱を支える腕が痺れ感覚を失い足が震えた。
一瞬でも気を抜けば、下にいるツェツイとともに柱の下敷きだ。
ツェツイが瞳を揺らして見上げている。
「お師匠……」
しがみつく腕を解き、ツェツイの唇にイェンは人さし指をあてた。
これ以上、何も言うなと。
「不安そうだな。怖いか?」
ツェツイはふるふると首を振る。
イェンはもう片方の手でツェツイの頭をくしゃりとなで、自分の胸に引き寄せた。倒れ込んできたツェツイの背中をあやすように、イェンはぽんと叩く。
「こうして俺に触れてたら、怖くねえだろ。それでも不安だったら俺にしがみついてろ」
腕の中でツェツイが小さくうなずいて、両手を回しイェンの腰にぎゅっとしがみつく。
「ツェツイ」
「はい」
「前に魔力の相性のことを話したよな。おまえにとって、俺の魔力が心地良いと感じるのなら、反対に、俺にとってもそうだということだ」
ツェツイは大きな目を開いてイェンを見上げた。そこにはイェンの笑った顔。
「お師匠様……」
「安心しろ。おまえは俺が必ず守る」
そして、イェンは手を前に突きだした。
残った体力と気力を振り絞り、刻を戻すという大がかりな技を繰り出す。
失敗は許されない。
ここで気を失うわけにもいかない。
もとより、そんなへまをやらかすつもりも、意識を手放す失態をさらすつもりもない。
ゆっくりと、深く大きく息を吸い込む。
『時空の扉をひらく』
イェンの声とともに、何もない虚空がまばゆい光を放つ。
「じ、時空!?」
素っ頓狂な声をあげ、ツェツイは首を傾け背後を振り返った。
ツェツイの背中、イェンの差し出した手の辺り、何もない虚空から一本の黄金色の杖が現れた。
「杖!」
ツェツイが驚きの声を上げる。
それはイェンの身の丈以上もある巨大な杖であった。
イェンが先ほど、あれの力を借りると言ったのはこの杖のことであったのか。
かなりの重量があるであろうその杖を手につかみ、イェンは水平にかまえた。
軽くまぶたを伏せ、もう一度すっと息を吸い込む。
頭の上で凄まじい音が響く。
ぱらぱらと炭と化した木くずが落ち、とうとう天井が抜けた。
『刻み続ける時よ
留まることなく
流れゆく時よ
その流れに逆らい
刻をもどせ』
謳うように流れる声にはよどみがなく、静かな口調に秘められた響きは力強い。
刻を戻すという大技だ。
上級魔術を詠唱なしで使いこなすイェンでも、こればかりはそうはいかなかったらしい。
初めて耳にするイェンの詠唱に、心を奪われかけていたツェツイの目が徐々に見開かれていく。
炎がひいていくのだ。
それだけではない。
たちこめていた煙が薄れ、落ちた天井が浮き上がる。
倒れた柱が形を戻し、燃えた家財道具も何もかもが元どおりに戻っていく。
まさに、刻が逆戻りするように。
やがて、家は火事の被害があったとは思えない、いつもとかわらない状態を取り戻す。
瞬きをする間の一瞬のできごとであった。
「刻をもどす魔術……」
ツェツイは信じられないというように呟き回りを見渡した。
家具も置物もその位置も、壁や天井にあったしみも、たてつけの悪い扉も歪んだ窓も、すべて元の状態を取り戻す。
けれど、刻を戻す術は禁術。
そして、術の知識も発動も、一介の魔道士が容易く手に入れ扱える術ではない。
あり得ない、と否定しても現実に今ツェツイの目の前で起こった。
咄嗟にツェツイはイェンに視線を戻す。
焼けた柱を支えていたイェンの背中のやけども顔の傷も、跡形もなくきれいに消えていた。
「お師匠様! 傷が、傷が治って」
「だから、心配すんなって言ったろ」
「初めてこんな術を見ました。すごすぎます……」
初めて見るのはあたりまえだ。
禁術なのだから使う者はいない。いや、使える者がまずいないといった方が正しいか。
「確かに、流れる刻を操るのは禁忌の術」
だから、とイェンは唇に人さし指をあて、悪戯な笑みを口許に刻む。
「二人の秘密な」
二人の秘密、とツェツイは小声で繰り返す。
「だけど、火事のことが〝灯〟の人たちに知られたら」
あれだけ被害の大きい火事をおこして、家は無事です、何でもありませんでしたなど、そんなことが通用するはずがない。
説明ができない。
「そんときは、焚き火でもやってましたとでも言え」
「焚き火? ……ですか」
「ついでに、芋でも焼いてたってな。焚き火で芋焼いたことあるか?」
「ないです……」
「なら、やろうぜ。後で買いに行くぞ」
「おいも……」
どこまで本気ととらえたらいいのかわからないと、ツェツイは複雑な表情をつくる。
ばれるかもとか、ばれたらどうなるのかとか、そんな不安や恐れも微塵にもみせないイェンの余裕な態度。
けれど、お師匠様がそういうのなら、不思議と大丈夫なような気がして、ツェツイは思わずくすりと笑ってしまう。
そして、笑いながら。
「もし、このことが〝灯〟に知られてお師匠様に何かあったら、あたしもおともさせていただきます。いえ、させてください。一緒に処罰を受けます」
「はは、それ、笑いながら言うことか?」
「お師匠様もです!」
「そうなったら、おまえ、かなり悲惨なことになるぞ」
「覚悟はできています」
イェンは肩をすくめた。
「なら、何がなんでも隠し通さなければだな」
「はい」
そして、二人は肩を揺らしてもう一度笑った。
ふと、ツェツイは床に落としたくまのぬいぐるみを拾い、その頭をなでながら、ちらりとイェンの手にしている杖に視線をやり、すぐにそらす。そして、もじもじと言いずらそうに声を落とした。
「あの……その杖……すごいですね」
ツェツイはすごいと言うが、それは遠慮してのことであろう。言いかえると派手すぎるという意味で、さらに悪く言うと、品がないであった。
何となくこれまでの深刻な出来事さえもぶち壊すような……。
イェンの手に握られた黄金に輝く巨大な杖。
杖の先端、円環には色彩感覚を無視した色とりどりの宝石やら金銀の飾りが秩序なくあしらわれ、杖を動かすたびに耳障りな音をたてた。
枝の部分にも細かい模様の彫り込み。
確かに豪華で作りも凝っているが。
はっきりいって趣味が悪い。
「お師匠様の……」
趣味ですか、と言いかけようとしてツェツイは口をつぐんだ。
何となく、それは言ってはならないような気がしたからだ。
イェンはちっ、と舌打ちをする。
「俺のじゃねえよ。無理矢理、押しつけられたんだ」
「無理矢理? そうなんですか? 普段は持ち歩かないのですね」
「こんなみっともねえ杖、持ち歩けるか!」
確かに持ち歩いたら、いろんな意味でかなり人目をひくはず。
「普段は時空の狭間のどこかに放り投げている。そのまま流されちまえばいいんだけどな」
ツェツイはじっと杖を見つめている。
「何だ? 欲しいのか? くれてやるぞ。こんなんでも、魔力を増幅させるにはかなりの効力を発揮するからな。こんなんでも」
「い、いらない! ちがっ……あたしには重すぎて持てないと思います」
「まあ、そうだな」
と言って、イェンは手にした杖を消した。
イェンが言う時空の狭間のどこかに放り込んだのだろう。
ツェツイはまたしても目を丸くする。
杖はともかく。
「あたし、お師匠様と出会った時から凄まじい魔力を感じていたし、本当は凄い魔術を使える魔道士なんだと思っていました。だけど、ここまでとは全然予想もしていなくて、手が震えるくらいびっくりしています」
ツェツイは震える手を押さえつけ、イェンを見上げた。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか? 答えたくなければいいんです」
イェンは何だ? と、首を傾げる。
「……お師匠様は、大魔道士パンプーヤ様なのですか?」