26 炎の中で
「おい!」
腕を眼前にかかげ、燃えさかる炎の中ツェツイの姿を探した。
扉を開けてすぐに小さな居間。
ツェツイの姿はない。
舐めるように炎がその手を伸ばしていく。
さらに奥の寝室へと向かうため足を踏み出した。
さして広くもない家なのに、たちこめる煙と広がる炎で、思うように前へ進むことができない。それでも何とか奥の部屋へとたどり着いたイェンは、部屋の中央でうつぶせになって倒れているツェツイの姿を見つけた。
「ツェツイ!」
呼びかけるが返事はおろか、身じろぎすらしない。
冗談じゃねえぞ!
「ツェツイ! 大丈夫か……おい、目を開けろ。ツェツイ!」
ツェツイの身を起こし、立てた片膝に小さな身体を寄りかからせる。ツェツイの胸には双子たちから貰ったくまのぬいぐるみが大事そうに、まるで炎から守るように抱えられていた。
少々乱暴に頬を叩くと、小刻みにまぶたを震わせツェツイが目を開けた。
「ツェツイ……よか……」
「お師匠様……」
口を開いた瞬間、ツェツイは激しく咳き込む。
煙を吸い込み喉を痛めたのだろう。
イェンは左手でさっと空気を切り裂く。すると、炎の熱さも煙も嘘のように引いていった。いや、回りの状況は何も変わっていない。イェンの張った結界が二人を見えない壁で包み込んだのだ。
「おまえ……何でこんな無茶をしやがった! 炎の中に飛び込んでいくバカがいるか!」
声を荒げるイェンに、ツェツイはびくりと肩を跳ね、震えながら小声でごめんなさい、を繰り返す。
両腕を伸ばし泣きながら首に抱きついてこようとしたツェツイだが、何故か思いとどまり腕をひっこめてしまった。
「あたし……炎くらい消せると思ったんです。でも、家の中に飛び込んだ瞬間、怖くて震えてしまって……消そうと思っても、詠唱が何も……何一つ思い浮かばなくて、あたし、何もできなかった……」
咄嗟の危機に陥った時に、パニックになって適切な判断をくだすことができず、詠唱が口にできないことはよくあることだ。
詠唱を唱えることができなければ魔術は使えない。
魔術が使えなければ、もしもの状況の時にはまったく意味がない。
「あたし、これ以上、大切なものを失いたくなくて、アリーセさんからいただいた服もこの子も」
この子と言って、ツェツイは腕の中のくまのぬいぐるみを抱きしめた。
「それに、お母さんとの思い出がつまったこの家まで失ってしまったら、あたしの居場所がなくなってしまうと思って……」
そこでツェツイは首を振る。
「それに、もしこの家がなくなってしまったら、ディナガウスに行かなくてはいけないような気がして。いろんなことが頭の中をぐるぐると回って、本当にどうしていいのかわからなくなって……結局、お師匠様に迷惑をかけてしまっ……」
〝灯〟の魔道士として確かな地位を得てもまだ十歳の子ども。
嫌がらせを受け、さらに突然、遠くへ行けと言われて戸惑いや不安を感じていないわけがない。そして、追い打ちをかけるように、自分の家が火事で燃え、居場所を失ってしまうと恐れるのもあたりまえのこと。
俺は、そんなこともわかってやれなかったのか。
ツェツイに思いを打ち明けられ困惑した。正直、ツェツイとは距離を置くべきなのかと迷った。
ツェツイのことは可愛いと思う。懐かれて嬉しい。大切にしたい。けれど、それは弟子だからであって、どう考えても、たとえ、恋心を向けられたとしても、彼女を一人の女性として見ることはできなかった。
あまりにも年が違いすぎる。
あんた、少しばかり悩むことになるかもしれないよ。
以前、アリーセに言われたことを思い出す。
まさに。
その通りになっちまったな。
それでも自分なりに出した答えは、これまでと変わらずツェツイの師匠として接すること。だが、ディナガウスの件にしても、ツェツイの判断だからと決めつけず、もっと彼女と真剣に向き合って話を聞いてやるべきだった。
これじゃ、師匠として失格だ。
だけど……。
「そんなことより命のほうが大事だろ!」
思わずツェツイを引き寄せ強く抱きしめた。
腕の中でツェツイが苦しそうな息をもらす。
相手が小さな身体の子どもだということも忘れ、力の限り抱きしめてしまったことに気づきイェンはほんの少し腕を緩める。
そんなこと、と言ってしまったが、ツェツイにとって、そうではないこともわかっている。
アリーセがツェツイのために選んで買った服も、双子たちがあげた、少々くたびれかけたくまのぬいぐるみも、ツェツイは心から嬉しそうに笑って大切にすると喜んでいた。
それでも……。
「おまえに万が一のことがあってしまったとしても、俺には、もう……どうすることもできないんだよ!」
ツェツイをきつく抱きしめるイェンの手が震えていた。
何かがひっかかったのか、ツェツイはもう? と小さな声でイェンの言葉を繰り返した。
それはどういう意味なのかと。
「だけど、とにかくおまえが無事でいてくれてよかった」
イェンは煤で汚れたツェツイの顔を手で拭う。
が、その時、みしりという嫌な音が天井で響いた。
視線を上げたツェツイが悲鳴を上げる。
焼けた柱が二人めがけて崩れ、倒れてきたのだ。
「お師匠様!」
イェンは崩れた柱を支える。けれど、人ひとりで支えるには重すぎる柱にイェンは顔を歪めその場に片膝をついて崩れる。それでも、わずかにできた隙間のおかげでツェツイが柱の下敷きにならずに済んだ。
「お師匠様……っ!」
悲痛な声を上げるツェツイに、イェンは俺は大丈夫だというように笑ってみせた。
焼けた柱を背中と肩と片方だけの手で支えているのだ。
ありえない。
それに、笑っていられるほど大丈夫なはずがない。
ただ、目の前のツェツイに怪我ひとつさせるわけにはいかない、守ってみせるという、イェンの強い意志によるものであった。
それでも、イェンはツェツイに心配をさせまいと、笑みを崩さなかった。
「怪我はないか?」
柱を支え、折り曲げたイェンの身体の下にできた空間にぺたりと座り込んでいるツェツイは、顔を青ざめさせ唇を震わせた。
崩れた柱によって傷ついたのだろう。イェンのこめかみから流れる血が一つ二つとツェツイの頬に落ちる。
ツェツイは唇を引き結び、涙を手の甲で拭う。
その瞳には強い決意。
「すぐに怪我を治します! あたしに任せてください!」
咄嗟にツェツイはイェンの顔に小さな手を添えた。
つい先ほどまで、怖くて詠唱のひとつも思い浮かばなかったと泣いていたツェツイの顔は真剣そのものであった。
ツェツイの口から治癒魔術の詠唱が唱えられる。
柔らかく暖かい光がイェンの頬を包むツェツイの手のひらからぽうっと放たれた。しかし、イェンはむだだと言わんばかりに首を振った。
「お師匠様、動かないでください!」
だが、ツェツイはイェンが首を振った理由をすぐに知る。
「どうして! どうして治癒魔術が効かないの……どうして? あたしの力が足りないから!」
ツェツイは呆然とした顔で自分の両手を見つめ、再度試みようとまた手を伸ばしてきた。
「何度やっても、むだなんだ」
「むだ? いいえ、もう一度! ……こんな時に詠唱を唱えなければ魔術が使えないなんてもどかしい!」
「だろ?」
イェンは、はは、とこの場にはそぐわない明るい笑いをこぼす。けれど、その顔はどこか青ざめていた。
「このままではお師匠様が」
「ツェツイ、俺はわけあって回復系の魔術が効かない身体だ。前にも話しただろ? 俺は罪を犯して魔術を奪われた。その時にそうされてしまった。だから、おまえがどんなに治癒の魔術を唱えようとしても、むだなんだ」
「そんなことって!」
その時、再びみしりという音をたてた天井に、ツェツイは顔を上げた。
柱が倒れたことにより天井が抜け落ちようとしているのだ。
炎が爆ぜる。
回りは火の海。
もはや一歩も動くことができず逃げ場はない。
この家もすぐに崩れ落ちる。
それは時間の問題であった。
このままでは二人とも落ちた屋根の下敷きとなり、炎に巻き込まれてしまう。
いや、その心配はおそらく無用だ。
イェンの詠唱なしの空間移動で外へと出るという手段がある。
それならば、一瞬でこの場から脱出することは可能だ。
「早く……早くお師匠様の術で外に! 背中のやけども顔の傷も、あたしなら傷跡ひとつ残さずきれいに完璧に治せます! 回復系の魔術はあたしの得意分野です!」
言ってすぐにツェツイははっとなって口許を両手で押さえた。
たった今、イェンが自分で回復系の魔術は自分には効かないと言ったばかりだということに気づいたからだ。
「回復系は得意か。やっぱり、おまえは俺の弟子だな」
「あたし、あたし……どうすれば……」
「心配すんな」
「だって!」
ツェツイは悔しそうに涙をこぼし、握った手で自分の膝を叩く。
「泣くな、ツェツイ」
イェンの片方の手がツェツイの頬に触れた。指先でこぼれ落ちる涙を拭う。
「そんな顔するな」
「お師匠様……」
「いいから聞け。俺はここで死ぬつもりも、おまえを死なせるつもりもさらさらない。ここはおまえの大切な居場所。そして、大事なものがいっぱいつまった家なんだろ。だったら、おまえが大切だと思うものすべて、俺が取り戻してやる」
「取り戻す?」
「ああ、何ひとつおまえから失わせはしない。だから、そんな顔をするな。いいな?」
わかったな?
と、イェンは不敵に笑ってみせた。