20 お師匠様と離れたくない
何とか試験開始時刻ぎりぎりに試験場に到着することができた。
動揺するツェツイを強引に部屋に押し込み、イェンは試験が行われている建物の入り口でツェツイが姿を現すのを待った。
不安定な精神状態で試験にのぞんでヘマでもやらかさなければと心配したが、入り口から現れたツェツイを見て、その心配もなかったかと安心する。
こちらへと真っ直ぐに歩み寄るツェツイは〝灯〟の魔道士である証の、新しい階級が刻まれた腕輪を目の高さにかざした。
イェンはふっと笑って安堵の息を落とす。
よかったな。
けれど、こちらへと近づいてくるツェツイの表情はどこか浮かない。
試験に合格して喜んでいいはずなのに、何故か沈んだように元気がなかった。
「お師匠様……ありがとうございました」
「俺は何もやってねえよ」
「そんな……そんなこと……」
そこで、ツェツイは口をつぐんでしまった。
どうした? と首を傾げるイェンを、ツェツイは探るような目で見上げ言いづらそうにぽつりとこぼす。
「……刻を戻す魔術は、禁術だと聞いています。使ってはいけない魔術だと」
「何だよ唐突に」
突然、何を言いだすんだと笑うイェンに、ツェツイはそうですよね? と真剣な目で再び問う。
「まあ、そうだな。流れる刻に逆らって時間を操作するのは、やっちゃいけねえことだ。それがどうした?」
「やってはいけないことをやって、もし、バレてしまったときは」
「そりゃ当然、処罰もんだな」
処罰と言う言葉に、ツェツイは複雑な表情を浮かべる。
「鐘が……」
「ん?」
「〝灯〟の鐘が鳴っていました。十一時を告げる鐘が!」
「そうだったか?」
即座に答えるイェンの口ぶりは、俺にはそんなもん聞こえなかったぞとでも言っているようであった。
「だけど、あたしが試験場に入ったのは、鐘が鳴る前でした」
「どうなるかとひやひやしたが、間に合ってよかったじゃねえか」
しかし、ツェツイはどこか納得いかない顔であった。
「お師匠様っ!」
何か言いかけようとしたツェツイの言葉をイェンはとどめる。
「もし、おまえが試験の時間に間に合わなかったら、俺はあいつらを許さないところだった」
イェンの表情は厳しい。
それは、そのことについてはもうこれ以上口にするな、お終いだというように。
「あたし、驚きません。いえ、本当はものすごく驚いてますけど……でも、お師匠様が魔術使えないと言っていたのは嘘だと思っていたから。魔力を押さえていることを気づいていたから。だけど、あれほどまでとは想像していなくて……詠唱なしであんな上級魔術を使えるなんて今でも信じられなくて。どうして隠してるのですか」
イェンは困ったように眉根を寄せ苦い笑いを浮かべる。
「決しておまえに嘘をついてたわけじゃない。魔術が使えないのは事実であって、そうじゃない。半分嘘で半分は本当だ」
ツェツイは静かに視線を落とした。
半分嘘で、半分本当のこと。
そんなことを言われても意味がわからないのは当然であろう。
隠すからには何か意味がある。
その理由を言わないということは他の誰かに知られたくはない。あるいは、知られてはいけないということ。
イェンの右手がうつむいてしまったツェツイのあごにそえられた。
「そんなことより、どうした? 合格したんだろ。そのわりにはあまり嬉しそうじゃないな。ほら、もっと喜べ。笑え」
顔を上げさせられたツェツイは、口の端をほんの少し上げて笑った。その笑みは念願の試験に合格して喜ぶ笑みではない。
「何があった? 何か言われたのか? 上層部の連中か? あいつらは遠慮ないこと言うからな。気にすんな。あれこれうるさく言うのは、それはおまえが見込みがあるってことだ」
「違います」
「じゃあ、どうした? 俺にできることなら何でもしてやるぞ。言ってみろ」
「あたし……」
と弱々しい声をもらし、今にも泣きそうな目でツェツイは唇を小刻みに震わせた。
「お師匠様、あたし……上層部の方々に、ディナガウス行きをすすめられました……」
最後の言葉は、ほとんど消え入りそうな、か細い声だった。しかし、表情を翳らせるツェツイに対し、イェンは驚きに眉を上げる。
ディナガウスといえば魔術のもっとも盛んな国。さらに、医術の研究も積極的に行われているところだ。
ディナガウスの〝灯〟は熟練した魔道士たちが集まるところ。そこへ迎えいれられるということは、魔道を志す者にとってこれ以上はない栄誉なこと。
ディナガウスの〝灯〟で魔術の知識を広めたいと願っても、簡単には行かせてもらえる所ではない。それこそ、選ばれた者のみに許された場所。
ディナガウス行きは、もっと上を目指してみたいと言ったツェツイの足がかりとなるはず。それこそ手放しで喜んでいいことだ。
「すごいじゃねえか」
だが……。
「いやです! ディナガウスはここよりずっとずっと遠い国。そんなところに行ってしまったら、お師匠様に会えなくなってしまいます」
それが、ツェツイの元気のない理由であった。
「会おうと思えばいつだって……」
言い終わらないうちにツェツイが胸に飛び込んできた。
「いやです。会えないのはいや! あたし、お師匠様と離れたくないです。ずっと側にいたい。だってあたし……」
「俺が行けと言ってもいやか?」
「それは命令ですか?」
ツェツイが怒ったような目で見上げてくる。
「そうだと言ったら?」
「それでも、絶対にいやです!」
たとえお師匠様の命令でも、それだけは絶対にきけないと、かたくなにツェツイは首を振る。
「お師匠様はあたしに言ったじゃないですか。楽しい時間はこれからもっとたくさん作ることができるって。それはお師匠様といっしょにって意味ですよね。あたし、すぐに断るべきでした。今すぐ戻ってディナガウス行きを断ってきます」
「ツェツイ」
くるりと背を向け建物へ引き返そうとするツェツイの腕を、待てとつかんでイェンは引き止める。
「離してください!」
腕をつかむイェンの手を振りほどこうとするツェツイだが、どんなに抗っても男の、それも大人の力にはかなうはずもなく、ただじたばたもがくだけであった。
「落ち着け」
ツェツイの両腕をつかんで正面を向かせる。
イェンの指先がツェツイの腕にきつく食い込む。
「お師匠様、痛いです……」
ふと、イェンは考える。
ここで師弟の関係を切って突き放してしまえば、ツェツイはディナガウスに行くことを決心するだろう。
たとえ、その小さな胸を痛めたとしても。
ここで泣かれたとしても。
別れるのは悲しい。
一人で知らない場所へ行くのは不安。そんな思いも最初のうちだけだ。
新しい町、新しい環境、あらたな出会い。
何より優勝な魔道士たちが集まるディナガウスの〝灯〟。
それはすべて、ツェツイにとって刺激的な毎日となることは間違いない。そんな生活をしていくうちに、お師匠様と一緒にいたいと言っていたことなどいずれは忘れ、何てことはないのだと思うようになる。
突き放すか。
ツェツイの将来を思うなら、それもありだ。
唇を引き結び、ツェツイが泣きそうな目でこちらを見上げている。
強ばった肩が震えていた。
イェンは静かに息をもらし、ツェツイの腕をつかんでいた手を緩める。
できるわけねえよな。
これまでずっと寂しい思いをしてきたツェツイを、突き放すことなどできなかった。
すぐにディナガウス行きの答えを出さなければいけないわけではないはず。
もっとも、上層部がそうすすめてきたということは、行けと命じているようなものだが。しかし、ツェツイも冷静になって考える時間が必要だ。
「そうだな」
肩を震わせるツェツイの頭をなでようとして思いとどまる。その手でツェツイの頬をなでた。そして、片膝をつきツェツイと目線を合わせる。
「行くか行かないかはおまえが決めることだ。だけど、今すぐ結論をだす必要はない。そうだろ?」
ツェツイのディナガウス行きを他の魔道士たちが知れば、さらに嫉妬心を剥き出しにしてこれまで以上にツェツイを攻撃してくるだろう。だが、ここでディナガウス行きを断ったとしても、それはそれで、ツェツイに対する回りからの風当たりはきつくなる。
どちらを選んでも、ここはツェツイにとってあまり居心地がいいとはいえない場所だ。
「よく考えて答えをだせばいい」
「答えなんかもう決まっています。あたし、行きません」
怒ったように言ってツェツイはふいっと目をそらす。
イェンは困ったように笑ってそうか、と呟く。
これ以上、今ここで何を言ったとしてもツェツイは行かないの一点張りだ。
「それに、あたしまた学校にも行けるようになって、少しだけ時間にも余裕ができて、友達もたくさんできたんです。みんなとも別れるのはいや」
「そうだな。仲良くなった友達と別れるのは寂しいな。だけど、ディナガウスにだって学校はあるぞ。当然、通うんだろ? こことは比べようもないくらい、あそこはでかい町だ。おまえと同じ年頃の子どももたくさんいる。新しい友達だってすぐにできるぞ」
「いやです! ひとりで知らない所に行くのは不安です。寂しいです」
「なら、俺もおまえと一緒にディナガウスに行ってやる。それならどうだ? 寂しくないだろう?」
「お師匠様も?」
ツェツイはそらしていた目を元に戻す。
ああ、とイェンはうなずいた。