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18 お師匠様の魔術

「開けて! 誰かここから出して!」


 何度も扉を叩き大声で叫んだ。けれど、どんなに叫んでも激しく扉を叩いても、誰かが助けに来てくれる気配はなく、ただ無情にも時が過ぎていくばかりであった。


「お願い開けて! 誰か……」


 扉にひたいを押しつける。


「お師匠様……助けて」



 叫ぶ声がしだいに呟き声に変わり、扉を叩く手が徐々に弱々しくなっていく。

 どうして、と悲痛な声をもらし、ツェツイはその場に座り込む。


 用を済ませお師匠様の元へ戻ろうとしたところへ、ルッツに呼び止められたのだ。

 マルセルが、この間のことで謝りたいからちょっと来てほしいと言われて。

 ツェツイはちらりと時計台に視線を上げた。


「忙しいなら、今でなくてもいいんだけど……」


 ルッツはそう言ったが、試験開始時刻まで、まだ少し時間があったし、自分もマルセルのことを叩いてしまったことを謝りたいとずっと思っていた。けれど、自分からマルセルに言い出す勇気もなく、常にお師匠様が側にいたこともあって……だから、マルセルからそう言ってもらえて、ほんとに嬉しかった。この時を逃してしまうと謝る機会を失ってしまうのではないかと思って。

 マルセルに会って謝って、すぐにお師匠様のところへ戻ればいいと思っていた。


「マルセルがさ、この間はやりすぎたって……その……反省してて……それに、君のこと怪我させちゃって……ずっと気にしてたんだ……」


 最初は、どうしてマルセル本人が来ないのかという疑問も、どこか歯切れの悪い調子で喋るルッツの様子も、この時のツェツイはまったく不審にも思わなかった。けれど、どんどん〝灯〟の裏庭から、お師匠様の側から離れていくことに不安を覚え始めたものの、それでも、まだこの時のツェツイは二人を疑うことはなかった。

 連れられた場所は〝灯〟の西側にある建物の最上階。

 その一番奥の部屋の前で、マルセルは腕を組んで立っていた。


「ごめんね……」


 すっと、視線を斜めにそらし、ルッツは申し訳なさそうに小声で言う。

 この時のルッツのごめんね、をツェツイは深く考えていなかった。

 突然呼び出してごめんね、という意味だと思ったが、今思えば、騙すような真似をしてごめんねと言っていたのだ。


「マルセル……?」


 不意にマルセルに腕をつかみとられ、奥の部屋へ押し込められ、扉に鍵をかけられてしまった。

 扉が閉まる直前、マルセルが意地悪な笑みを浮かべて自分を見下ろしている姿と、目をそらしたままうなだれているルッツの姿が目に入った。

 閉ざされた扉の向こうでおかしそうに笑うマルセルの声を聞く。


「おまえ、今日は試験の日なんだってな。十一時からだっけ? ああ、早く行かないと間に合わなくなるな。それにしても、そんな大切な日にのこのこ騙されてやってくるおまえもほんとバカだよな。正真正銘のバカ」


 ようやくツェツイは、自分が二人にはめられたのだということに気づく。

 すぐに立ち上がり扉にしがみつく。


「開けて!」


「ああ、開けてやるよ。頃合いをみてそのうちね。それまでせいぜい足掻いてるといいさ。おまえ、優秀な魔道士なんだろ? どうしても試験を受けたければ、自分でどうにかするんだな。じゃあな」


 マルセルとルッツの足音が遠ざかっていく。

 やがて、その足音も聞こえなくなってしまった。

 押しても引いても何をしても扉は開かず、ならば窓からの脱出を試みようとして愕然とした。

 落ちたら絶対に助からない高さだった。

 部屋を見渡すと、雑然と物が積まれほこりをかぶっている。

 普段使われていない部屋なのだろう。

 人気もないこんな部屋に閉じこめたということは、マルセルたちは冗談やおふざけではなく、本気で自分を潰しにかかっているということだ。

 ツェツイははっとなって顔を上げる。


「試験の時間!」


 窓辺から大きく身を乗り出し〝灯〟の時計台を見る。

 試験開始まで後五分。

 何とかここから抜け出したとしても、とうてい間に合わない。


 もう……あきらめるしか……。


 そんな考えが頭を過ぎりかけ、いいえ、とツェツイはくじけかけた心を叱咤する。

 最後の最後まであきらめたりはしない。

 ぐっと喉を鳴らし手を強く握りしめる。

 覚悟を決め、窓枠に手をかけよじ登る。

 狭い窓の縁に立ち上がり、思わず眼下を見下ろし足をすくませた。

 地上を歩く人たちが豆粒にしか見えない。ここから助けを求めても声が届かないことはすでに試した。

 お師匠様と夕陽を見たあの日、木から飛び降りた時にふわりと身体が浮く感覚を思い出す。

 あの方法で、ここから降りる方法は?

 しかし、ツェツイは首を振る。

 もうそんな時間の余裕も悠長なことをやっている暇もない。いや、それよりもこの高さから地上へと降りるまで魔術を使い続ける集中力が持つかどうか自信がなかった。

 魔術が途切れてしまった瞬間、地上へと真っ逆さまだ。

 ツェツイはごくりと唾を飲み込んだ。

 残されたたった一つの方法が脳裏をよぎる。

 空間移動で直接試験場へ飛べば確実だ。

 それならば、ぎりぎり間に合う。

 けれど、空間移動は上級魔術。

 試したことなどあるわけもなく、唱えられたとしても、目的の場所へ移動できるとは限らない。最悪、時空の狭間へと迷い込み、元の場所へ戻れなくなってしまうおそれもあるのだ。

 腕の未熟な魔道士が、好奇心とあるいは己の力を過信して空間魔術を使い、帰ってくることができなくなってしまったという事故もよくあると聞いた。

 だが、このまま何もしないでいるのはお師匠様に顔向けができない。

 やるしかない。

 でも……。

 ツェツイは身体を震わせた。

 もし、失敗して時の狭間にさまようことになったら……。

 帰ってくることもできず、そこで、ずっとひとりぼっちになってしまったら。

 そもそも、時の狭間とはどういうところなのだろう。

 何より、そうなってしまったら、お師匠様ともう会うこともできない。


 こわい……。

 あたしにはできない。

 自信がない。


 その時、強風が吹き抜けた。

 ひるがえったスカートを反射的に手で押さえる。

 風にあおられ身体がぐらついた。

 よろめいた足が何もない虚空を踏む。

 あっ、と声を上げた次の瞬間には、身体ががくりと沈んだ。

 慌てて窓の縁に手を伸ばすが、その手はむなしく空をつかんだだけ。


 落ちる!


 悲鳴を上げ、ぎゅっと目を閉じた刹那、手首を強くつかまれた感覚とがくんと肩が抜けるような痛みに声をもらす。

 浮いた足が心許なげに虚空を蹴る。


「じっとしてろ!」


 頭上から落ちてきたその声に目を開けると、お師匠様が厳しい形相で片手で窓の縁につかまり身を乗り出していた。


 お師匠様!


 どうしてここへ、と問いかけるよりも早く、力強い腕に身体を引き上げられお師匠様の片腕に抱きかかえられる。

 両腕を伸ばし無我夢中でお師匠様の首にしがみつく。


「お師匠様!」


「もう大丈夫だ、安心しろ」


 それでも、きつくしがみつくツェツイに、俺がいる。だからもう怖くないだろ? と背中を軽く叩かれ言い聞かせられる。

 ようやく、ツェツイの手が緩んだ。

 ふと、部屋の扉に視線を向けたが開いた形跡はない。


 お師匠様どうしてここに?

 どうやってこの部屋に?


「いろいろ言いたいことはあるが、今はそんな暇はねえ。このまま試験場まで直行するぞ」


 ツェツイは口をぱくぱくさせた。

 どうやって? と言いたかったのに、声にならない。


「こうやってだよ!」


 張り上げたイェンの声に応え、強大な風のうねりが足下から生じる。イェンの長い髪が逆巻いて波打ち、衣服がばたばたと風にあおられ音をたてる。


 だけど……。


 ツェツイの顔に絶望の色が広がった。

 力が抜けたように、しがみついた相手の肩口にひたいを押しつけ身体を震わせる。


 何故なら。

 〝灯〟の時計台の鐘が十一時を告げてしまったからだ。


 お師匠様、間に合いませんでした。

 試験の時間、過ぎちゃいました。


 もうどんなことをしようが、試験を受けることはできない。


 ごめんなさい。

 あたしがもっとしっかりしてたら、こんなことにならなかったのに。

 ずっと、あたしの側について見守ってくれたのに。

 あたしは、お師匠様の期待にこたえることができなかった。


「ツェツイ」


 すぐ耳元で響くお師匠様の優しい声。

 こんなところで何してんだ、どうしてすぐに戻ってこなかったんだ、と叱られると思っていたのに。


「ごめんなさい……お師匠様、ごめんなさい……」


 ツェツイは顔を上げられないと首を振りながら、何度もごめんなさいを繰り返す。

 どんな顔をすればいいのか、わからなかった。

 ツェツイともう一度呼びかけられ、お師匠様の指があごにかかり顔を上げさせられた。

 いつもは背の高いお師匠様をせいいっぱいに仰ぐような格好で見上げるのに、今は抱っこされているため顔が近い。


「おまえ」


 お師匠様は笑っていた。


「何て顔してんだよ」


「だって……」


「だってじゃねえよ。おまえは泣きながら試験を受けるつもりか?」


 ツェツイはじっとイェンを見つめ返した。


 試験を受けることなんてできないのに。

 この鐘の音がお師匠様にだって聞こえないはずがないのに。


 強風が吹き抜け、イェンの背中に流れる黒髪を激しく揺らす。上着の裾が大きくひるがえり音をたてている。

 下をのぞき込めば、目もくらむような高さ。

 風に煽られながら足元が心許ない窓の縁に立って、間違ってここから落ちたら絶対に助からないのに、なのに、お師匠様の腕の中にいるなら不思議と怖くなかった。

 お師匠様の首に回していた右手をとられる。

 ずっと、扉を叩いていたせいでその手は真っ赤だった。


「手、痛むか?」


 そう言って、お師匠様はとった手を自分の頬にあててくれた。


「もう、痛くないです……」


 お師匠様の体温が伝わってくる。

 温かくて。

 優しくて。

 不思議と痛みもひいていくような気がした。


 お師匠様の指先が、涙でにじむ目の縁を拭ってくれた。そして、その手が風で乱れた髪を何度もすいてくれる。


「おまえの師匠を引き受けておきながら、俺はおまえに何ひとつ魔術を教えてやることができなかった」


 ツェツイはそんなことはないです、と首を振る。


「あたしはそれ以上にお師匠様からとても大切なものをたくさんいただきました。あたしがこうしていられるのも、お師匠様のおかげです。あたし、今までで一番楽しい時間を過ごすことができました」


「これからも、だろ」


「これからも?」


「楽しい時間はこれからもっと、いくらだって作ることができるだろ? おまえは俺の大切な弟子だ」


「お師匠様……」


 イェンはしっかりとツェツイを抱え込む。


「行くぞ」


 再びイェンの足元から風が生じる。その猛烈な風の勢いに息をするのもままならず、ツェツイは目をつむり、再びイェンの首にしがみつくが、しがみついた相手から放たれるとてつもなく凄まじい魔力に全身が震え総毛だった。

 どこにそんな強烈な魔力を隠し持っていたというのか。

 何故、隠していたというのか。


「ツェツイ、目を開けろ」


 有無を言わせぬその声に、ツェツイはおそるおそる目を開ける。


「しっかり目を開けて見ておけ。そして、身体で覚えろ。今のおまえなら、ものにできるはずだ」


 目には見えない大きな魔力の流れを身体で感じ取る。

 かすかに回りの景色が陽炎のようにゆがむ。やがて、景色が溶け徐々に渦を巻き、空間がひずみ始めた。

 ツェツイはまさかと目を見開く。


 空間移動!


 自分の望む場所へ瞬時に移動する上級魔術。

 さっき、試そうとして、怖くてできなかった術。


 お師匠様、うそですよね。

 それに詠唱は?

 詠唱なしで魔術を使うつもりですか!


「お師匠様! 待ってください! え、詠唱は……魔術を発動させる詠唱はないのですか!」


「詠唱? そんな、めんどくせえもん必要ねえよ」


 面倒くさい……。

 そんなの聞いたことありません!

 あり得ません!


「時の狭間に迷い込んでしまったら帰れなくなってしまいます!」


「俺がそんなヘマやらかすと思うか? いいから黙って見ておけ」


 すぐ横で不敵に笑うお師匠様の顔。

 何だか、お師匠様らしい気がした。

 たとえ、このまままっすぐ試験場に向かったとしても、すでに、試験開始の時間は過ぎてしまっている。けれど、そんなことすらツェツイは忘れてしまっていた。

 ツェツイは可能な限り目を見開いた。

 この目で、この身体で、あますことなく全てを知り尽くそうと。

 耳の奥でぶんと耳鳴りがした。

 身体が圧迫される感覚にとらわれる。


 飛ぶ。


 一瞬の出来事だった。

 塔の窓から消える寸前、目に映ったのはどこまでも続く雲ひとつない真っ青な空。

 耳に届いたのは、余韻を響かせ〝灯〟の時計台の鐘が最後を告げる音。


 そして。


 思う存分自分の力を出し切ってこい、と言ったお師匠様の力強い言葉だった。

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